トラウマは尾を引いて
私は小さい頃にネギが嫌いになった。はっきりとした原因はそこまで詳しく覚えているわけではないが、幼稚園の頃に間違えて生ネギを口にして以来ネギが嫌いになってしまったことだけは覚えている。悲しいことに、ネギが食卓に出ても今の今まで私が食べられることはなく、寧ろ他の人に食べてもらうか残すことが多い。火を通したネギならば多少は食べられるが、それでも不味いと思いながら食べていた(嫌いなものでもよく噛んで食べてしまうので悩んでいる。また、生ネギを避けたことが原因でネギ嫌いが後輩にバレたことも)。給食に出ても条件次第ではしっかり残していたし、外食しても食べてもらっていたのでネギは私にとって不倶戴天の敵なのだということは嫌でも分かる。
食べ物以外にも、色んなものにトラウマがある私に出来ることは少なく、生まれてこの方絵や小説ばかりを描いていたような記憶がある。共通の話が出来る人も少ないし(興味がないというのもあるが)、楽しいこと以外は追い求めていなかった。どんな時でも楽しいこと以外は追い求めないというのが私のスタンスでもあったから。しかし、大人になるとそうはいかなくなったしそうならざるを得なくなった。というのも、今までの地に足がつかない生き方が通用しなくなったのだ。現実なんて見ていないし、見たくもないというのは甘えだと言われるようになり私の居場所は無くなりかけていた。私は趣味に時間を割いて生きているようなものだから、現実主義者とは水と油。元カレと別れたのもそうした理由が含まれている。
他の人にとって現実逃避は癒しであり、いつか戻ってくるものなのだろう。私にとって、現実逃避はある種のライフワークであり、自分の世界こそが現実であるともいえる。美しい世界だけを見ていられるなら、それが良かった。
連日ニュース番組では嫌なニュースばかりが流れているが、私の目では身近で小さな出来事しか追うことはできない。大きな視点を持つことはそれだけ疲れ果てる覚悟がある者だけがすることだから。だから小説の中で扱うのは社会問題ではなく、身近にあった出来事が殆どなのだ。履き違えてしまえば、いずれ大きな痛手を負うだろうことは想像に難くない。
トラウマが原因だからか、今でも元カレのことは恨んでいないわけではない。過去のものとなったとはいえ、今でも私の目には妬ましく映るからだ。それが正しくないとは分かっていても。方向が違ってもどこかで交差する、その時を夢見て私は今日も描き続ける。
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