人の判断材料
突然だが、私は常識というものが嫌いだ。口にするのも忌むレベルで嫌っている。それなのに周りは「常識だよ」と強い調子で言ってくるのでかなり辟易しているというのが本音だ。思考が大多数寄りでマトモな人物を親に持つと、私は逃げ出したくなる(尤も、思考そのものが完全にマトモかというとそれもまた違うのだが。寧ろ、一昔前の価値観を引きずっているような感じだろうか)。おまけに学歴を重んじるとなると事態は更に厄介なことになる。人生は学歴が全てではないのだから。
かくいう私も一昨年までは学歴を重んじていた節があった。それが当たり前だったからである。それが変わったのは、去年何気なく訪れたゲーセンでの出来事がきっかけ。ほんの少しだけ付き合ってくれた友達がいたからだ。彼は音ゲーが得意で、私にもとても優しい人だったし、話していて苦にならなかった。私は音ゲー仲間としてすぐに意気投合。実力は足元にも及ばなかったが、彼と過ごす時間は何にも変えがたいものであり、今でも胸のうちで輝いている。その時私は大学生だったが、話を聞くうちに彼は自分が工業高校を出てすぐに就職した、と語り私は驚いた。それ以外にも意外過ぎる半生を明かしてくれたし、色々なところへ連れていってくれた。私から見れば優しくて畏れ多い人だったが彼には感謝しかないし、私の目を覚まさせてくれた人として会えなくなった今でも強く尊敬している。彼がいなかったら、私はいつまでも学歴至上主義のままだったかもしれないから。人は学歴で判断してはいけないとこの時私は悟った。
たしかに学歴はある程度大事である。しかし、それを選ぶのは当事者以外にはいない。教育ママという存在が私は大嫌いだ。ある意味、ブランド品やIQと同じ位置にあるはずなのだが、この国では今でもそれを勘違いしている人が大勢いると思う。いつまでも昔の考えのまま硬直していてはいずれ時の流れから取り残されてしまうというのに。
日本は私にとって平和であるが、精神的に生きづらい国だと思う。大多数の人間だけが受け入れられ、少数派(私は超少数派)が取り残されるからだ。空気を読むこと、我慢をすることは私にとってこの上ない苦痛である。だからだろうか、皆一様に同じようでつまらないのだ。
私にも、どうせならスキャンダラスな事件を起こせる程度の自由を与えて欲しかった。今の人生は不自由ばかりで苦しみが多いから。楽しいことだけを求めて生きていきたいのだ。
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