目の前にある娯楽

 昔むかし、何らかの手段で誰かが処刑されることは庶民にとって最高の見世物だったという。今なら野蛮だと思われるだろうが、それだけ昔は娯楽が少なかったことに加え、今も今で人々を傷つけて楽しんでいるではないか。それは実在の人物に限ったことではなく、架空の人物でさえも。

 処刑以前にも、猛獣と剣闘士が戦わされるというショーが古代ローマにはあった。昔も今も、人は誰かを傷つけずにはいられないのだろうか、と私は思う。誰かが傷つく度、誰かが笑う。高いところから見物している人達が、楽しそうに。それは今もねじ曲がった形で脈々と受け継がれているのだ。動物は生きる為に殺すというのに、人間はそれ以外にも殺す理由が沢山ある。やれ、異端だの、侵略だの。けれど、その中に「楽しい」があるのは不可解な気がしてならないのは何故だろう。

 この世界がゲームだとしたら、我々はもっと残酷なことに手を染めていると私は考えている。ゲームの内容にもよるが、総じてゲームというのは残酷なもので、何の罪もないキャラクターを「敵」として踏み殺していくのだ。時には特殊な能力を使って沢山の敵を一斉に殺していく。それゆえに平和とはいえないのだ(踏むのが楽しいという人も中にはいるのだろうが)。

 たとえグロテスクな刑罰だとしても大多数の庶民は楽しんだし、おかしなものを見るのも楽しみだった。残酷な話であるが、プリミティブだともいえる。寧ろ今の方が異常(というより総合的に見ると平和)なのではないか。それでも、誰かを傷つけるというのは変わらないようだが。

 「誰も傷つけない○○」というのを時々見かけるが、私の目に微笑ましく映ると同時にパンチが足りないな、と思うことがある。というのも、全ての物語には「毒」というものが含まれている筈なのであるが、それを全く入れないのは物語として成立しているのだろうか。今流行りの「異世界転生もの」なんかも、私にはつまらないと感じられる(それ以前に意味がわからない)。だからといって王道は嫌いだし、見る人にトラウマを与えるような作品が好きである(それが後に楽しい思い出となって溶けていくような)。そういった作品は決して多くないが、見る人の心に何かが刻まれると私は信じている。

 誰しもが、心に大なり小なり蟠りや苦しみを抱えながら生きている。神などいないこの世において、毎日何らかの形で苦しみながら。それらは全て弱者に矛先が向けられるが、それが崩れ去る日は来るのだろうか。

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