Act.9 Savior -救世主-

 地に引っ張られるような感覚。

 自分がなにかに括り付けられていると気づいて、日下部ヒナは目を覚ました。

 腕を動かそうとすると引っ張られるような感覚。

 視線を向けると、木の柱と右腕を繋いでいる鎖が音を上げていた。両腕は左右に広げられ、ちょうど十字架にかけられているような体勢だ。

 否。

 ようなではなく、これは本当に磔刑に使われるような十字架だ。

「……あ」

 思い出す。あの夜、フィアンマとレンのねぐらが襲撃されて、レンも戦闘不能に追い込まれて――

「目覚めたかね」

「ッ!!」

 横合いから、声。

 見れば、そこには黒髪を整髪料で整えたヨーロッパ系の顔立ちをした男性の姿があった。

 ライナス・マクレイ。

 ボタンを全て締め、司祭平服をカッチリと着込んだ彼は、後ろ手を組みながらただ静かに佇んでいる。

「……私を、どうするつもりなんですか?」

「どうもしない」

「……?」

 恐る恐るの問いかけに帰ってきたのは、ある種意外な返答。

 首を傾げるヒナに、ライナスはゆっくりと歩き出す。

「別に君をどうこうするつもりで攫ったわけではない。用があるのは君のお父様でね」

「……」

「『神為らぬ者ヘレティツク』筆頭研究員、日下部ゲンゾウ」

 低い声で、そしてどこか忌々しげに。

 ライナスは、その名を口にする。

「覚醒遺伝計画の中心人物の一人。聞くところによれば、あの計画の基幹部設計には神道理論も参考にされているという。神との距離が近すぎるのがこの国の欠点だな」

「……私を攫って覚醒遺伝計画がどうにかなるとでも?」

「なるとも。伝承者サクセサーへの恐怖を『神為らぬ者ヘレティツク』への義憤に変える。それだけで世界中の『正義の市民』は我々の味方になる。自覚・無自覚問わずに、だ。大義を手に入れた民衆には歯止めがきかないが、それを上手く誘導してやることはできる」

「ッ、そんなことが上手くいくわけ――」

「違うな」

「……?」

「論点が違うのだ」

 いまいちライナスの言っていることが飲み込めないヒナに、彼はどこか諭すような調子で語りかける。

「無駄かもしれない。受け入れられないかもしれない。首尾良く世界市民を味方につけられたとして、覚醒遺伝計画やその下敷きにあるはずの超常を使われて逃げられるかもしれない。だが、。例え大海に落ちた針を探すような無謀でも、やらないよりはやってみる。あるいは、ひょっこりと魚の喉から見つかるなどという幸運もあるかもしれんしな」

「……そこまでして、覚醒遺伝AAを取り除きたいの?」

 いまいち具体性に欠ける主張に、眉を顰めながら問う。

 だが、返ってきたのは予想の斜め上の答えだった。

「ふむ……実を言うと、私個人という話ならばそういうわけでもない」

「……? どういう……」

「思い出したまえ。私の力はなんだったか」

 言われるがままに思い出す。

 確かあの夜、レンの右腕をたやすく握りつぶした後に彼はこう言ったはずだ。自分の力は聖ロンギヌスに由来する覚醒遺伝AAで、その効能は――

「…………まさか」

 瞬間に、ヒナの頭の中で一つの可能性が浮かび上がった。

 父の名前を出すということは、一連の行動はやはり覚醒遺伝計画を狙ったものである。それ自体は間違ってはいない。

 だが、それはどこまで行っても組織としての目標だ。

 脳裏によぎるのは、あの深夜のビルの屋上。

 あそこでライナスは己の覚醒遺伝AAをなんと説明したか。

「まさか、あなた自身は覚醒遺伝計画がどうなろうと問題ではない……?」

「父に似て聡明だな」

 肯定代わりの賞賛は、いっそ皮肉のようにも聞こえた。

 そう。

 別に、ライナス自身が普通の人生を送りたいというのであればわざわざこんな、ともすればテロまがいの行動に手を染める必要はないのだ。

 アンチマジックというのは、それ単体であるだけでは意味を成さない。例えば炎や雷や、怪力といった『わかりやすい異能』の中にあることで初めて顕在化する。

 つまり、ライナス本人が真人間でありたいだけなら、そもそも騎士団なぞにいる必要はないのだ。自分は覚醒遺伝AAの起こす喧噪を離れて、日の当たる道を歩いているだけで良い。それだけで、ライナスと一般人を隔てるものはなくなる。

「じゃあ、なんで……!」

「問うほどのことかね」

 何故、わざわざこんな道に足を踏み入れたのか。

 疑問への回答は、これ以上なくシンプルに。


「例え限りなく難しくても、もう一度もとの生活に戻りたい。例え1パーセントにも満たない可能性でも、なんとか縋り付きたい。それほどまでに追い詰められた人に手を差し伸べたくなるのは、人として当然の感情ではないか?」


 そう語る彼の瞳は、まるで物語のヒーローのように真っ直ぐだった。

「……ッ」

 返す言葉に詰まる。

 だって、こんな言葉を聞かされたら確信するしかない。

 大局としての正義は彼らの側にあって。

 その人生を踏みにじってきたのは『神為らぬ者ヘレティツク』で。

 自分は、その悪者の娘で、数少ない交渉の目がある人材で。

 ならば、これも仕方ないことなのかもしれない。

 そう思った矢先だった。

 ズンッ! と。

 建物全体を揺らす衝撃があった。

 ――爆発?

 そう思ったが、火災警報器の類いも(生きているならば、だが)作動していないあたり、どうやら違うらしい。

 なにより。

 再度の衝撃。今度はさっきよりも気持ちばかり長く感じる。そして、震源地が

 地震とも違う。どちらかというと、巨大な何かの足音のようで。

 そして。

「来たか」

 ライナスが呟いた直後だった。


 ズ、グゥゥゥォォォォァァァアアアアアアアアアアアアッッ!! と。

 ヒナの正面にあった、コンクリートの壁が砕け散る。


 粉塵が立ちこめ、埃っぽくなった空気の向こう側に、それが見える。

「見つけたぞ」

 星一つない夜空のような黒の中で、ただ両の瞳だけを白銀に輝かせた少年。

「見つけたぞ、ライナス・マクレイ」

 海原レンが、そこにいた。




 最後の壁をぶち抜いたレンの目に飛び込んできたのは、ちょうど講演に使われるようなホール一つ分くらいの広さを持った空間だった。

 浄水施設、と言うことであちらこちらに簡易的な濾過槽とおぼしき円柱状の物体が立ち並んでいる。浄水施設付きと言ってもさすがにここでできた水をそのまま水道に持って行くわけではなく、本来数回に分けて行われる浄水の過程のうち一部をここでやってしまおう、と言う発想らしい。

 その中心部。他よりもややスペースが広い場所。そこに、ちょうど処刑などに使われるような十字架に鎖で磔にされた日下部ヒナと、その前に佇むライナス・マクレイの姿があった。

「預けものを返してもらいに来た」

「はて、なにか預かっただろうか」

「とぼけるな。お前の後ろにいるだろ。ご丁寧に釣り上げてくれたおかげで見つけやすかったぞ」

 一歩一歩。

 慎重にライナスのいる方へ歩み寄る。

 戦闘機動アクトは既に起動している。なにか動きがあればすぐに対応できる。

「その様子だと、アナスタシアもエリスも敗れたようだな」

「ああ」

 首肯する。

 本当は門番役に設置されていた男とも戦ったのだが、こちらは守勢特化のようで余り脅威ではなかった。門番があれ、と言うことは他の団員もエリスやアナスタシアほど攻撃的な力を持ってはいないのかもしれない。

「ならば、彼らがどんなものを背負っているのかも承知しているな?」

「……ああ」

 首肯する。

 正確に言えば、具体的にそれを聞いたのはエリスからだけだったが、概ねあのようなものなのだろう。どうせろくでもない経験をしてきて、こんな道に落ちてきたに違いない。

 そして。

「……」

 レンの返事に、ライナスは深く息を吐いて。

 吸って。

「――ならば何故だッ!」

 激しい怒気を孕んだ咆哮が、響き渡った。

「知っているのだろう? 彼らが過去にどんな経験をしたのかを。知っているのだろう? 彼らがどんな風に、こんな道を選ばざるを得なくなってしまったのかを!!」

 吐き捨てるように紡ぎ出される言葉を聞いて、ああ、とレンはどこかで納得した。

 多分、ライナスという男はどうしようもなく優しいのだろう。

 目の前で苦しんでいる人を、どうしても見捨てられなかったのだろう。

 そして、その人を苦しめている元凶を、どうしても許せなかったのだろう。

「全部、覚醒遺伝AAのせいなんだ」

 束の間。

 堅かった彼の口調が、崩れる。

 そこにいたのは、ただの善良な一人の男だった。

「5年前! 『神為らぬ者ヘレティツク』なんて連中があんなふざけたシステムを動かさなければッ! こんな世界に堕ちなくてもすんだんだよ、あの子たちはッ!!」

 これがどうしたって救うことができないような相手なら、いっそ諦めていたかもしれない。

 だが、不幸にも男には超常を打ち消す異能を与えられていた。

 だから手を差し伸べた。

 差し伸べてしまった。

「何故なんだ」

 ポツリ、と。

 地面に落ちたのは、ライナスの瞳からこぼれ落ちる一筋の涙だ。

「何故、我々の行く手を阻む?」

 分不相応な大役サルヴァトーレに疲れた男の、それでも譲れない最後の一線。

 例え修羅の道に堕ちようとも、彼らを、そして自分をこんな泥沼に突き落とした連中に一矢報いてやるという、ささやかな決意。

 それを、潰そうとしているのだ。

 それを、押してでも取り上げようとしているのだ。

 ……彼らからすれば、レンたちはそれこそ悪魔に見えるだろう。

 だが。

「たしかに」

 いくら罵られようと、レンにもここだけは譲れない。

「たしかに、覚醒遺伝はお前たちを地獄に叩き落としたのかもしれない」

「ならばッ!」

「だけれども!」

 順接と逆接が、被さりあう。

 覚醒遺伝AAという技術は騎士団の面々を日陰の道に追いやった。その事実は否定できない。

 だからといって。

「だけれども、それだけじゃないんだ」

 だからといって、

「人間だった頃の俺は、ある伝承者サクセサーがやらかした大失敗で死んだ」

 ……フィアンマの生み出す武具自身に、精霊による修復は適用されない。それは、つい先日ヒナがビルの壁についた足跡を見つけたときにも証明されていた。

 同時に、それは“軍魔ハルファス”と呼ばれた頃のフィアンマが生み出していた武具で行われた破壊も、通常通りその影響が残り続ける、と言うことでもある。

 その内紛で村がまるまる一つ潰れたことは、無かったことにはならない。

 これもまた、覚醒遺伝AAの暗黒面。

 しかし。

「でも、そんな俺を助けてくれたのも――他ならないその伝承者サクセサー自身だったっんだよ、ライナス」

 例えそれが自責の念から来る罪滅ぼしだったとしても。

 それでも、一度は死んだこの身を、再び動かすことができるようにしてくれたのは、どこの誰だったか。

 思い出すのは炎の中で泣きじゃくる少女の姿。

 あの時に感じた、彼女の腕の中の感触を思い出して。

覚醒遺伝AAは確かにアンタたちを不幸にしたのかもしれない」

 レンは、叩きつける。

 それは明確に目の前の男へ向けた言葉だったろう。だが、同時に一瞬でも生け贄の道を受け入れようとしてしまった少女にも深く突き刺さる回答でもあった。

「でも、この力はそれだけじゃないはずだ。誰かを傷つけるだけの、最低最悪の力じゃないはずだ。正しい方向に使ってやれば、誰もが笑って暮らせるような、皆が喜んで受け入れられるような、そんな優しい時代を作ることだってできる力じゃないのか!? そうだろう、ライナス!!」

 きっと、フィアンマはこの論調を嫌うだろう。他ならない彼女自身がそれで失敗したのだから。

 でも。だからといって。

 レンにとって、彼女は悪魔ハルファスなんかじゃなくて、まさしく救い主だったあの体験が否定されることはない。

「認めないぞ」

 だからこそ、許せない。


「どんなに凄惨な過去があったとして、どれだけに人に裏切られて、こんな道に落ちてきたとして、その力をなんの罪もない女の子に向けて振りかざすなんて、俺は絶対に認めないッ!!」


「……もはや平行線だ」

 ポツリ、と。

 ライナスが呟くようにこぼした。

 それは同時に、決定的な決裂の宣言だった。

「私と貴様が交わることは、決してない。それでもなお、私の前に立ちはだかるというなら――」

「ああ。それでもなお、お前達がどこにでもいる普通の少女を生け贄にしようというなら!」

 神父と人形。

 救わんとする者と既に救われた者。

 ある意味対照的な二人が、対峙する。

 拳を握り締めたのは、ほとんど同時。

「「その正義を、力尽くでも否定するッ!!」」

 重なった言葉が戦闘の始まりを告げるゴングだった。

 地の底で、二つの正義が。

 激突。




 初撃はナイフの投擲だった。

 狙う先は顔。目や鼻、耳といった感覚器が集まる、人体の急所の一つ。

 一息に3つ短刀が放たれる。怯んでくれれば幸い、防御行動でも隙が生まれる。

 だが。

「貴様は学習しないのか?」

 冷たい声が耳に届く。

 ライナスは、

 回避も、腕で払うことも、何も。

 ただ一歩一歩こちらに歩み寄ってくる彼に、黄金色の刃が襲いかかる。

 それだけだった。

 それだけなのに。

 まるで、砂細工をぶつけたようだった。

 刃は彼の肌に触れた瞬間に、急速に輝きを失っていく。

「ッ!」

 屑となって地面に落ちていくナイフに、予想はできていても生唾を飲み込まざるを得なかった。

 これがライナスの覚醒遺伝AA

 アンチマジック。他の異能の無力化。

 なるほどフィアンマが愚痴るのもよく分かる。ある程度の時間を要するとは言え、多種多様な武具や道具を作成してそれらを操ることが強みの彼女にとって、ライナスの存在は確かに天敵と言えた。

「どうした人形、もうネタ切れか」

 ハッと顔を上げると、いつの間にか目の前にまでライナスが迫っていた。

 うなりを上げてその右拳が付きだされる。

 慌てて横に倒れて回避するも、今度は左足の追撃が来た。こちらも薄皮一枚でやり過ごす。

 戦闘機動アクトを持ってしても防戦に追い込まれる。やはりどう考えても常軌を逸した身体能力。それが、覚醒遺伝AAと合わさることで、まるでライナスを無敵の超人かのように思わせていた。

(なにか)

 床を蹴って距離を取り、体勢を立て直す。

 即座に肉薄してきた神父の拳打を掻い潜りながら、その一挙手一投足に意識を向ける。

(なにか、絡繰りがあるはずだ)

 レンの戦闘機動アクトに追随する、と言葉で言えば簡単なようにも思えるかもしれないが、実際のところそれはもはや超常現象の領域だ。それは単純な筋力増強系の異能を持っていたエリスとレンが格闘戦でほぼ互角な点で証明されている。レンの挙動についてくるなどというのは、生身では無理なはずなのだ。

 そして。

 ライナスの腕が耳の横すれすれを通過したときに、それは聞こえた。

 なにか、モーターが動くような音。

「――ッ、そういう……ことか!」

 ちょうど二の腕の、肘のあたりを狙って手の甲を叩きつける。

 ライナスが、大きく体勢を崩す。その直前に手に響いてきたのは、人体というには異様に硬質な感触。

 というよりも。

 これは。

「パワードスーツ、か……!」

 もう片方の腕が迫るのを飛び退いて躱し、レンはキッと前を見据える。

 パワードスーツ。

 SFなどではおなじみのアイテムで、名前だけ聞くといっそ子供っぽく感じるかもしれない。しかし、その実、既に実現を始めている技術でもある。例えば介護補助ロボットなどはそれの前身に当たる、と言えるだろう。

 そして、この技術は覚醒遺伝計画以降、主に各国政府が中心になって、急ピッチに進められた代物でもある。

 つまり――軍事転用だ。

 伝承者サクセサーの生み出した物質的損害は聖霊が修復する。とは言え、たった一人の伝承者サクセサーによって戦闘機が落とされたり、戦車隊が壊滅したりすれば当然作戦は鈍る。

 そして、それを実際に引き起こせるのが伝承者サクセサーという存在だ。

 覚醒遺伝計画を境に、各国の軍部や軍事企業はこの伝承者サクセサーに対抗する手段を作ることがある種の目標となっていた。そのなかで挙げられた技術のひとつが、パワードスーツだった。まあ、無人機などのより利便性や安全性の高い兵器群が次世代メインストリームを担おうとしている現在では、装着者のコンディションを維持する装置や電源などを詰め込んだ結果嵩張る上に重量もあるパワードスーツはの研究規模は縮小ぎみなのだが……。

 とはいえ、ライナスの服装とそれに対する体格を考慮すると、既にある品よりもだいぶコンパクトに思える。

 技術革新を考えたいところだが、先程述べたようにパワードスーツ研究は右肩下がりの一途を辿っている。さらに言えば、本来のそれで膨れ上がる部位には何が詰め込まれてるか。

「ぐ……ッ」

 視線の先で、ライナスの身体に明確な変化が訪れる。

「か、は……ッ!」

 藍の目が驚愕ではなく苦痛に耐えるために見開かれる。

 かっぴろげた口からは、荒い呼気とともに粘質な液体が漏れた。

 唾液、ではない。なぜなら、それはあまりにも鮮やかな朱色。

「お前……安全維持装置も何もあったもんじゃない、とんでもないブツを着込んでるのか……!?」

 パワードスーツとはその名の通り外付け機械で人体に常人を超えた膂力を与える代物だ。当然、ある程度の制限を設けなければ機械の動きに身体がついて行けず、装着者を傷つけてしまう。

 それが、ライナスのものにはついていない。

 まるで奈落に通ずる断崖へ突き進む暴走機関車だ。その先にあるのは破滅のみ。

 それでも。

「……それが、どうした」

 唇からなおも鉄くさい赤を流しながら、ライナスは力強く一歩を踏み出す。

 無理な稼働で関節や靱帯はボロボロだ。内臓が本来の位置に正しく納まっているかも怪しい。

 それでも尚、壊れかけの救世主サルヴァトーレは歩みを止めない。

「こんなもの、彼らが受けた痛みに比べればどうということはない。一度手を差し伸べた以上は、背負った期待や願いは裏切れない。それが今まで自分を取り巻いていた何もかもに裏切られて、どん底に蹴落とされた者達のものならなおさらだ! 死んでもこの狂った計画を終わらせなくちゃいけないんだ、私はッ!!」

 痛烈な叫びととも、疾走。

 虚空に汗と血の珠を浮かべながら、ライナスが目と鼻の先に来る。

 初撃の右フックはなんとか頭を傾けてやり過ごした。

 だが、直後に左腕のアッパー。

 半分屈んでいるようなこの体勢では、どう足掻いても避けられない。

 確実に、どこかに喰らう。

 勝利を確信したライナスの口元が歪む。

 避けることはできない。

 だから。


 パシッと。

 肌と肌がぶつかり合う、乾いた音がした。

 


「……………………な、」

 ライナスの目が見開かれたのは、今度は驚愕によるものだった。

 彼の持つ異能は、レンに対して猛毒。それは彼の身体がフィアンマ・アルティジャーノによる義肢で構成されている以上、決して変えようがない特性のはずだ。

 それを、なぜ。

「まさか、こっちが何の対策もなしにここまで乗り込んでくるとでも思っていたか?」

 ライナスの疑問に答えるかのように、レンが漏らす。

 そのまま右手を振り払い、眼前の敵の懐へ飛び込む。

 今度は、ライナスの対応が遅れる番だった。

 手形でも押すように五指が開かれた平手が、彼の胸板に叩きつけられる。

 そして。

戦闘機動アクト、」

 銀の少年は、静かにことばを紡いだ。

特異能力アビリティ、『異端教義・偽神証明エイジイズム ヤルダバオト』!」

 瞬間。

 バヅンッッ!! と、落雷が直撃したような衝撃が走った。

「ぐ、」

 ライナスの脳内に、気が遠くなるようなノイズが走る。

「ぐォォォオオオオオオオオッッ!? な、にをォ……ッ!?」

「お前自身が言っていただろう」

 頭を抱えて取り乱すライナスに、レンは淡々と答えた。

「お前のその覚醒遺伝AAは一度とは言え、奇跡の体現である『神の子』を殺した帝国の兵士・ロンギヌスに由来する。その際ロンギヌスは奇跡に触れ、結局改宗して聖人となったことでより『神の子』の奇跡を強く印象づけるための踏み台にされたわけだが」

 つまり、この伝説はキリスト教という一つの宗教体系の、一つの説話に基づいた覚醒遺伝AAであるということ。

 さて、ここで一つ問題。

 アンチマジックという極めて特殊な能力とは言え、明確にある宗教に依存した異能。これを無力化するためにはどうすれば良いか。

 そう難しい話ではない。

「その出所であるところの宗教体系を、基底からひっくり返すような異端説を用意してやれば良い。それだけで神格や英雄から能力を引っ張ってくる覚醒遺伝AAはエラーを起こしてくれる」

「そんな、ものが……」

「あるだろう、一つ。一神教正統派教義を真っ向から否定するような、とんでもない異説が!!」

 それは、思えば異様に膨れ上がった一神教の中で突然変異を起こしたガン細胞のようなものだったのかもしれない。

 その名を、グノーシス主義拝蛇派。既存の唯一神を邪悪な偽神と定義し、あまつさえサタンを真なる神と崇める一神教史究極の異端。

 新しく生み出されたレンの右腕に宿る能力とは、つまりそれだった。

「たった今、お前の身体に一神教を根底から否定する異端の結晶、その力を叩き込んだ」

 よろめきながらもなんとか立ち上がるライナスに、宣言する。

 前述の通り、聖ロンギヌスの説話は根本的には『神の子』が引き起こす奇跡の引き立てに過ぎない。処刑という行為だけを見れば一神教否定に思えるかもしれないが、本質はむしろその真逆。

 故に、効果は絶大だった。

「ぐ……、ヌゥ……ッ!」

 倒れそうになるところを紙一重で踏みとどまるライナスだが、その息は今まで以上に荒い。今まで肉体に根ざしていた異能に無理矢理横やりを入れられたのだ。その反動はそれこそ『神為らぬ者ヘレティツク』にしか知り得ないほどのものだろう。

 だが、対するレンもけっして予断は許されぬ状況でもあった。

 ……この右腕はフィアンマの正しく悪魔的発想による産物。とは言え、グノーシス主義は一つの能力として確立するには余りにも珍説にすぎる。理論構築も曲解に曲解を重ねたもので、正直二度は作れぬ作品だ。

 現に、今こうしている間にも、レンの内側ではガラスにヒビが入るような脆く頼りない音が響き続けている。

 持って、5分。

 そのあまりにも短い時間に、全ての命運がかかっている。

 そして。


駆動系リストレイント全拘束解除オールパージィ!!」

戦闘機動アクト限界解除ギアアツプッ!!」


 咆哮が死闘の幕開けに響いた。

 ライナスのカソックの上半身が弾け、中から機械部が剥き出しになった装備とそれを纏う内出血だらけの筋肉質な肉体があらわになる。

 オーバーヒートで赤熱した抵抗器が、オレンジの曳光を虚空に残す。

 今まで以上に輝きを増した銀の瞳が、空中に残像を置き去りにする。

 激突は二つの流星の如く。

 ……そこから先は、凄絶な肉弾の応酬だった。

 殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、肋骨を叩き折り、仕返しとばかりに頬骨を抉って、肩へ正拳を見舞ってそのカウンターに脇腹に蹴りを打ち込まれ肉体の限界をとうに超えた動きに胃から何か熱いものがこみ上げてそれでも尚拳は止まらず「うォ」一撃に右の瞳を三度失いながらもこちらも眉間に一撃をくれてやり「ォオ」引き絞った上腕が悲鳴を上げて「ォォオ」内側に留まっていたヒビ割れがとうとう体表にまで走り「ォォオオ」負けられない負けたくない「「ォォオオオ」」思考がホワイトアウトする「「ォォオオオオオ」」もはや意味をなしてない叫びが口から漏れ「「ォォオオオオオオオオオ」」譲れないただ一線の為だけに「「ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!!!」」


 やがて。

 最後の一撃。


 互いの全てを込めた拳打が交差し、互いのこめかみに叩きつけられる。

 ぐら、と二人の身体が揺れ。

 ――倒れ伏したのは、無理に無理を重ねたライナスの方だった。

 それが合図だったのか。

 まるで役目が終わったと言わんばかりに、レンの右腕が粉々に砕け散る。

「……ァッ……」

 荒い呼気と覚束ない足で、レンは前へ進む。

 霞んだ視界の中には、十字に掛けられたまま闘いの一部始終を見届けていた少女の姿があった。

 彼女を拘束している鎖を引きちぎる。

 この少女ヒナを救う。それが、レンの意思だった。

 一人の男と、その後ろにいた数多の人々の夢を踏みにじった以上は、それを完遂する義務がある。

「……」

 ボロボロのレンに肩を貸す彼女は、どこか哀しげな瞳で地に伏すライナスへ視線を向けた。

 掛けるべき言葉は、今の自分には見当たらない。

 そのまま二人は、先程までの全てが嘘だったかのように静まりかえった施設をゆっくり歩き出した。

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