第14話 あて宮入内、その日の騒動
とうとう。
日程が公表されてからというもの、懸想人達は皆その思いで一杯だった。
普段あて宮に文を送る者、返事の有無に関わらず、皆が皆嘆き悲しんだ。
中でも実忠と仲純はひどかった。
二人とも、ただもう死ぬしかないとじりじりと思い詰め、出す宛も無い文を書いては丸め、書き殴っては丸める。
その中でも何とか辻褄の合うものを人に託してあて宮に送ったりしてみたが、返事は全く無い。
そうこうしているうちに、仲純はとうとう寝込んでしまい、何も喉を通らない様になってしまった。
*
「一体どうしてこんなことに」
大宮は彼の枕元で嘆くが、仲純は何も答えられない。母にはこの思いは知られてはいけないのだ。
「……母上」
うっすらと仲純は笑う。
「私はもう駄目です」
「何ってことを言うの、しっかりして頂戴。あて宮を東宮さまに、もう迷うくらいだったら… と差し上げることになったのよ。入内するのよ。だからその時には、東宮さまの覚えもめでたいあなたに、あの子の後見をして欲しいのに……」
「……あて宮の後見は、兄上が居れば充分でしょう。祐純兄上は、私と親子の契りを結んだ中です。尊敬する兄上です。きっとあて宮の後見を立派に果たして下さるでしょう」
いいえ、と大宮は否定する。
「祐純は確かに有能ですが、あなたの様にあて宮に対して誠実かどうかは判りません。婿となっている向こうとのこともあります。それに対しあなたは身持ちも固く……」
「………母上」
仲純は苦しそうに息を一つ吐くと、母の言葉を遮り、あるか無しか位の声でつぶやいた。
「……日に日に苦しさがどんどん増して来るのです…… 私は本当に、もうこれ以上生きていられないのだと思います。宮中での地位など何とか人並みに頂くことができましたので、私も皆の期待に応えようと何とか精一杯やってきました……」
「ええ、ええ、だからこそ今」
「……それだけに、今こうやってこのまま死んでしまうのが、誠に悲しゅうございます」
「そんなことを言うものではありません! 仲純!」
思わず大宮は声を荒げていた。
「……あて宮には、何とかしてお仕えしようと思っていました」
「ええ、だから、ぜひ元気になって」
「入内の時には雑役でも何でも、と思っていましたが、それすらも役に立たない者になってしまって……」
仲純はほろほろと涙を流す。
「……」
さすがに大宮もその姿には堪えきれず、そっとその場から立ち去り、そのまま夫のもとへ向かった。
「どうだった?」
夫の問いかけに、堪えていた涙が一度に溢れ出した。
「どうしましょう、あなた!」
そのまま夫の膝に泣き伏す。
「仲純は…… 仲純がこのままでは助かりそうもありませんわ……」
正頼はため息を一つつく。
「ああ…… どうしてうちではこの子に限ってそうなんだろうなあ…… 私の子は皆、まあそれなりに育ったが…… その中でも特にあれは優秀で、この先も我が家を栄えさせ、新たに氏を持つ様な者なのに…… 残念だ……」
「あなた! そんな既に諦めた様な言い方なさらないで下さいませ!」
「しかし、この様子では」
「患っているというなら、今はもう誰もかしこも患っているではないですか! 実忠どのも何やら、死ぬ死ぬとおっしゃっています! ああ、何って年でしょう、春の初めから御獄やら熊野に、高貴な身分の方々がわざわざ徒歩でお参りをするとも言われていますし!」
しかしそれは、と正頼は言いかけてやめた。彼は思う。
年のせいにしているが、今年に入ってからの皆の奇矯な行動や病気と称するものは、皆あて宮の懸想人である。だったら原因はあて宮だろうに。仲純はともかく。
一方、大宮の考えは微妙に夫と違っていた。
確かに懸想人の点までは同じだった。
―――だが彼女は、仲純もまたその例に漏れていないことを、薄々感じ取っていた。
何と言っても彼女は母親なのだ。
だが母親であるが故に信じたくないこともある。同母妹に恋死なんて。
美しい異母妹との悲しい話はあちこちで耳にする。物語にもある。
勧められないが、全く咎められるという訳ではない。結婚できるぎりぎりの範囲だ。
だが同母妹は駄目だ。絶対に駄目なのだ。
大宮は今までの息子の様子を思い返し、自分の勘がほぼ正しいことを確信している。
だがそれを誰にも相談できないことが苦しかった。
腹心の女房であったとしても、これはさすがに口をはばかる内容である。
自慢の息子を苦しめているのが自慢の娘なのだ。周囲を振り回し振り回し、そしてようやく東宮のもとに落ち着こうとする娘なのだ。
ああ全く!
大宮は内心叫びたい思いだった。
*
屋敷の中が晴れがましいことと不吉なことで平行するうちに、入内の日が近づいた。
あて宮の手回り道具や装束、行列、車の装飾といったものも、清らかに美しく用意されて行く。
供人もそれまで使っていた者だけでなく、新たに加えられた。
女房が四十人。四位や宰相の娘である。
彼女達は二十歳前後で、皆、髪が背丈より長い。
その背丈も良い感じの高さである。
字も上手く、和歌も巧みで音楽の嗜みもあり、応答も上手であった。
衣装は皆唐綾である。普通の平絹は混ぜていない。四十人とも唐綾の唐衣と赤色の表の衣である。
女童は六人。十五歳以下の五位の娘の、格好も仕草も大人とそう変わりが無い子が選ばれた。彼女達は唐綾の赤色の五重の表衣、綾の表袴、袷の袴、綾の袙を着ている。
下仕えは八人。いくら下仕えといえども、粗末な手織の絹は混ぜていない。彼女達には檜皮色の唐衣に紅葉襲の表着を付けさせている。
そして樋洗しとして、侍の娘を二人。
上の女房からはした女に至るまで、姿も身なりもすっかりこの様に整えられていた。
*
そして当日。
車は出るばかり。
御供の人々も皆身分に応じた装束をし、日が暮れるのを待つ。
そこに仲忠からの祝いの贈り物が届いた。
蒔絵の置口の箱、沈木で作った飾り櫛、髪を梳ったり結ったりする道具がそれぞれ四通り用意されている。
髪に挿す仮髻なども、全てが全て非常に珍しい美しいものばかりである。
また、鏡や畳紙、歯黒が一式。
極めつけが箱である。
銀細工のその中には、唐の合わせ薫き物。
この細工がまた凝っていた。沈でご飯の様に造り、銀の箸を添え、火取りには沈の灰。黒方を薫き物の炭の様にし、これまた銀の小さい炭取りに入れ、細やかに美しげに仕上げてある。
御髪の箱にはこう書かれていた。
「―――明けても暮れてもあなたのことを思って、あれこれと将来を楽しみにしてきましたが、何もかも駄目になってしまいました」
使いの者はその一式と共に、対応に出た孫王の君にも夏冬の装束を渡し、被物を受け取ることもなくそのまま戻っていった。
涼もまた、美しい夏冬の装束を、沈の置口の箱四つに畳み入れて、こう書いて贈った。
「―――人知れず思っていたその涙で赤く染まった袖が、今日また新たに濃くなったのを何度目かと見るにつけて悲しくなります」
それらを見た左大将夫妻はこう言い交わしたという。
「何とも言えない美しい贈り物ですねえ」
「懸想していた彼らから、というのも何だが、返してしまうのは失礼だろう。まあ何って素晴らしいものだろうね。この先役立つものばかりだ。頂いておこうか」
そう言って笑い合ったとか。
*
ずっと寝込んでいた実忠も、さすがに当日となると起き出した。
そして兵衛の君に装束を用意し、歌を付けて贈った。
「―――私を苦しめる燃えさかる火も、涙で少しは下火になりましたのに、その涙が今日は出なくなってしまいました」
そう書いているのに、こう付け加えているのが彼らしいかもしれない。
「それでももしあて宮にお伝えする折があったら、もう実忠は何も判らなくなってしまったとぜひ……」
*
一方仲純の方は大変なことになっていた。
「大変です、大殿さま!」
仲純づきの女房が慌てて報告に来た。
「何だ、騒がしい、どうしたというのだ」
「仲純さまが…… とうとう人の顔も見分けられなくなり、気を失いました」
あて宮入内の方に集中していた大宮や正頼も、その事態には慌てた。
「―――ああ、あなた、どうしましょう」
「落ち着いて。落ち着くんだ。ともかく仲純をみてらっしゃい」
大宮は殆ど泣きそうな顔で息子の局へと急いだ。
「ああ仲純、何ってこと。母ですよ。判りますか?」
応えは無い。だがほんの少し手が動いた。
その手をぐっと握りしめると、大宮は頬に当てた。
「ああ仲純、仲純、何て冷たい手をして…… このままずっとこの母が看ていられたらいいのに、あて宮の入内の時が近づいていますから、そうもできません」
あて宮という言葉を聞きつけたのだろうか、うっすらと仲純は目を開けた。
「……母上…… 私はもう駄目です」
「そんなこと!」
「……今一度、あて宮に会わせていただけ……」
「何を言っているのですか! そんなこと言うものではありません! ともかくすぐに来る様にあて宮の方には伝えさせます」
するとほんの少しだけ、仲純の手が温かくなった様な気がした。
大宮はああやはり、と思った。
そして息子の死はもう間近であることを確信した。今日ではなくとも、近いうちに必ず、この息子は。
何てこと。何て馬鹿な思いを持ってしまったのか。
誰かあて宮以外に息子の気を惹く女は無かったのか。
それがたとえ端女であっても、今の大宮は正式に認めてあげられる様な気がしていた。
あて宮の元には、女房がこう伝えた。
「大宮さまから『仲純の兄君が大変なので、入内という非常におめでたい時に縁起でもないけど行っておあげなさい。どうしてもあなたに会いたいというのです』とのことです」
あて宮は黙って、現在仲純が休んでいる北の大殿へと向かった。
美しい装束をつけたその姿は、今を盛りとばかりに輝いている。背の丈は五尺に少し足りないくらいで、高からず低からず。
そして何と言っても髪である。
つやつやと黒紫の絹が光り輝く様に美しく、一筋残らず揃って長い。
御供には兵衛の君と孫王の君を連れていた。
仲純はその姿を間近に見ると、胸が詰まる思いだった。
声がなかなか出てこない。
白い美しい顔が、じっと自分を見つめている。
何か言葉を。せっかくのこの機会、もうこれで最後かもしれない、いや最後だ。
彼は言葉を絞り出す。
「……今日が、入内の日だったんだね」
あて宮はこくんとうなづく。
「せめてお見送りだけでも、と思っていたのだけど…… もうこの先、生きて会えないかと思うと……」
「お兄様」
ああ、あの時と同じ凛とした声だ。
秋の日、花を手に言い寄った時、冷たく言い放ったあの声を彼を思い出す。
「はい、心ならずも入内することになってしまいました」
心ならず。本心だったらいいのに、と彼は思う。
「生きて会えないなどと―――、思いもかけないことを。もってのほかのことです。どうしてまあ、そんなにお気が弱くなってしまわれたのですか」
「さあ……」
そう言って仲純は微笑む。
「きっとそういう宿世なんだ。全てが儚く、心細く、悲しいこと……」
「そんなに思い詰めないで下さい」
あて宮はそう言うと立とうとする。仲純はその懐に小さな紙の塊をそっと投げ入れた。そしてつぶやいた。
「さよなら」
仲純はゆっくりと自分の目が閉じていくのを感じた。
その伏せた目には、今までに見たことの無い妹の表情を伺うことはできなかった。
あて宮は文をぐっと握りしめた。決して落とすまいとばかりに。
「良かったですね、仲純さま」
そう女房の一人が彼をのぞき込んだ時だった。ああっ、と彼女は思わず叫んでいた。
「仲純さまが、仲純さまが!」
*
「何ってことだ、取り分け可愛い子のめでたい時に、やはり可愛い子の不幸が重なるなんて!」
正頼は仲純の容態の変化に思わず叫んでいた。
「ああ、仲純、仲純!」
大宮はただ嘆いている。
彼女は彼女で母として共に参内するための支度があり、その途中でその知らせを聞いていた。
「色んな人の恨みも買っただろうに、こうやって入内を決定したというのに、それが延期となったらどうしたら」
「あなた、あなたは仲純が」
「しかし、もし今日入内を決行しなかったら、永久にできなくなるかもしれない」
「あなた!」
「見るな! 今はもう、静かに静かに! あれのことはしばらく忘れるんだ」
大宮はぐっと歯を噛みしめる。
*
一方、見送りのために何とか起き出していた実忠は「いよいよ御入内だ」と伝え聞いた途端、昏睡状態になってしまった。
騒ぎが騒ぎを呼び、屋敷の中は大変な状態である。
見送りに来ていたのは彼だけではない。今まであて宮に懸想していた上達部や親王達が皆嘆きつつ、そこに居たのだ。
冷静なのは涼と仲忠だけだった。
「世の中というものは無常なものだから、こうして入内なさっても、全く会えないということはないだろうに」
そう思ってでもいたのだろうか。二人して周囲の様子を低い声で話し合っていた。
と。
「よく君等は平気だな」
そう言ったのは仲頼だった。
「別に平気という訳ではないけど」
と涼が言えば、
「だって元々僕は彼女の」
仲忠もそう答える。
「そういうことを言っているんじゃない。何って言うんだろう……」
ふう、と仲頼は首を振ると、ため息をつく。
「確かに俺が懸想したって仕方が無い人ではあったんだ」
「そんなこと無いですよ」
「ええ、全く」
二人は口々に言う。涼は逆に、あて宮はこのひとには勿体ないとまで思う。
「頼む、心にも無いことを俺には言わないでくれ。確かに俺はここの大殿に結構可愛がられてはいたけど、結局は身分不相応だった、ということだな」
ははは、と彼は力無く笑う。涼と仲忠は何と言ったものかと顔を見合わせる。
「それでも他の人よりしゃんとしているあたり、仲頼さんは立派ですよ」
仲忠は言う。
「そうですよ、ほら、実忠どのがまた倒れたとか」
「あのくらい思い詰めても駄目なんだ。俺程度の人間じゃあな」
違う、と涼は思う。そういうことではないのだ、と。
しかし最初からするべき恋ではなかった、とは彼も思う。この恋自体が間違いなのだ。仲頼の様な誠実な男には。
*
やがて「御門出の時刻となりました」と正頼の家人が知らせてきた。
その声を耳にしたのだろうか。
仲純が、がばっと身体を急に起こした。
「仲純さま!」
「……行かないで」
口の中でつぶやいた。その顔は百済藍の色に染まり。生きているのが信じられない程である。
打ち伏し打ち伏し、彼は何度も何度もその言葉を繰り返した。行かないで。
周囲は止めようと思った。
だが勢いに、表情に、声の重さに誰も近付けなかった。
どうしよう。皆顔を見合わせる。
だがやがて力は尽きた。彼は伏したまま、動かなくなった。
周囲は慌てて彼らの主人に近づく。
死んだの生きているの判らないだの騒ぎ立てる。それまでと違い、意識が戻りそうな様子が見られなかった。
それを耳にしたあて宮は、やはり変わらない表情で、だが何やらさらさらと書く。
「先ほど、仲純さまは……」
兵衛の君はこっそり問いかける。
彼女は仲純の気持ちを知っている。あて宮もそれを知っている。あて宮は兵衛の君に先ほどの紙の塊を見せた。
「―――悶え苦しんで流す紅の涙が川になり、その水を胸の火がたぎらせています」
兵衛の君は文とあて宮の顔を交互に見た。
「これを」
あて宮は書いたものを兵衛の君に託した。
『―――たとえ今はお別れしても、涙の川が絶えず流れるように、先々の交わりもあるのだと知ってください。兄上とは兄上である以上、縁が切れることは無いのです―――』
「大殿さまや大宮さまや、色んな方々がびっしりといらっしゃいますが」
「それでも行って」
有無を言わせぬ命令だった。
*
大宮は夫にこう告げていた。
「調べさせたら、仲純の病は女の怨霊だと――― どう致しましょう」
「何だと、では真言院の阿闍梨をすぐに呼ぶがいい!」
呼び出された阿闍梨は驚きながらも即刻やってきた。
お出迎えを、と皆が立ち上がる。
今だ!
兵衛の君はその瞬間、仲純の手にあて宮の文を握らせた。
そして弱り切り、だらりと床の上にある腕に「あてみやさまより」とゆっくりと三度書いた。
うっすらと目が開いた。
「大殿さま! 仲純さまのお目が」
兵衛の君はそう叫ぶと、大きく息をつき、そのままあて宮の元へと立ち去った。
「おお、仲純」
仲純は湯をほんの少しだが、それでも飲み込んでいる。
思わず連れてきた阿闍梨に正頼はすがりつき、有り難う有り難うと両手をぐっと握った。
「君のおかげだ」
「いや、私は何も」
「いや、君の御験が確かなものだからこそ、こうやって、やってきただけでも仲純は生き返ることができたのだ。ああ本当に、有り難う!」
そしてぶん、と家人達の方を向くと、彼は言い放った。
「よし今だ、今しかない! もしこれで明日退出することになろうとも、今日何としても、あてこその入内を敢行するんだ!」
再び仲純の周囲は静かになった。
彼はそっと手の中の文を握りしめ、微かに口の中でつぶやく。
その様子を見て、周囲に残った人々もほっとした。
*
こうしてやっとあて宮入内の一行は出立することができた。
車は糸毛が六台、黄金作りが十台、
御供に付き従ったのは、四位の者が三十人、五位の者も三十人、六位ともなると数知れず、皆しっかりした家の者ばかりである。
あて宮は参内するとすぐに、東宮の寝所へと上がったとのことである。
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