第13話その3 実忠最後のあがき、さすがに兵衛の君切れる
ふうん、と文を受け取った涼は思う。
「女房」はこう書いてきた。
「もしかしたら、大殿さまは沢山いらっしゃる姫君達の御処遇を決めるために、今の懸想人をずいぶん長く放っておくのかもしれません。
でなければ、どうしてこんな長く、東宮さまから直々の御入内の御話を引き延ばしておくのか判りません。
東宮さまの元に御入内となれば、懸想人の方々は皆失恋ということになります。もしかしてそのご様子を御覧になりながら、何方が婿として相応しい方なのか見定めようとしているのではないでしょうか」
それはありだな、と涼は思う。
「例えば、藤英どのは本当につい最近懸想人の中に名を連ねられた訳ですが、あて宮さまの御入内のお話は既に御耳に入れられていたはずです。真言院の阿闍梨どのの様に、結構以前からのものとは違います」
彼が! 涼は驚く。これは叶いはしないだろうに、と目を丸くする。
「真言院の阿闍梨どのは、何でも吹上で院の帝に再会なさった時も、諸国を修行のために廻っていたというよりは、あて宮さまに対する思いを遂げさせて欲しいからだった、という話もあります」
全く女房の情報入手力というものはすさまじいものだ、と彼は苦笑する。
「とは言え、結局はどれだけ位が高かろうと、一度世を捨てた方が何をおっしゃりましょう。
阿闍梨どのの恋は叶うことは無いでしょう。それこそ物語にある様に、姫君を盗み出してこっそり自分のものにするならともかく、院の帝のお気に入りとなられた今、その様な噂になる様な不始末をする程な方でしたら、霊験あらただの何だの言われることも無いと思います」
手厳しい! 涼は次第に笑いがこみ上げてくる自分を感じた。
「幾ら大殿さまが昔の親友であったとしても、阿闍梨どのの現在の身分を考えたら大殿さまはあの方を他の方と違って、婿にすることは決して無いでしょう。
あて宮さまもあの方からの御文は気持ちが悪いとばかりに引き破ってしまわれたということなので論外でしょう」
引き破った! それは勇ましい、と涼は手を叩いて喜ぶ。
「しかし藤英どのは別です。
あの方は大殿さまが見いだして引き上げて今の地位にまでつけた方です。
そして現在は東宮さまの御覚えもめでたい訳ですから、この方に関しては、あて宮さまでなくとも、姫君どなたかの婿にして世話をするという可能性は高いでしょう。
ちなみに藤英どのの送られた最近の御歌はこうです。
―――夏草におく露は儚いと言いますが、それよりも儚いものは私のあなたにかけた命でした―――
私は立場がら、様々な方々の御文を目にすることがありますが、何となくこれは兵部卿宮さまや平中納言さまとよく似た雰囲気の、非常に型通りよくお作りになった御歌に思えて仕方がありません。
時々実忠さまや仲頼さまの御歌も目に致しますが、その方々の御歌の持つ、何やら切羽詰まった様な苦しさがこの方々の御歌からは感じられませんもの。
ちなみにおそれ多いことながら、あなた様の御歌は、何処かそれとも異なる様な気がする、と姫さまがおっしゃいます。
そしてお気になさってます。どうして懸想しているはずのあて宮さまに対して、何処か皮肉気な歌を詠みかけるのか、と。
もしかしたら本当の気は無いのか、と、気に掛けてらっしゃる様です」
成る程、と涼はにんまりと笑った。この「女房」はそう思っているのか。
「ところで中将さま、ここに一つの御歌があります。
―――苦しい恋のために涙が堰を切って落ちた、その川に身を投じて浮舟の様にあても無く焦がれることよ―――
こういう歌を作られる方をご存じではないですか」
なかなか難しいことを言ってきたものだ、と涼が思った時だった。
「何となく、僕なら判るけど」
背後から声がした。
慌てて振り向くと、閉じた扇でぽんぽんと肩を叩いている友人の姿がそこにはあった。
「またずいぶん長ったらしい文を読んでいると思ったら」
「まあそう言わない。例の『女房』からの文なんだよ」
「ああ…… 見せてもらってもいいですか?」
仲忠はその場に座り込んだ。
「以前君は、あて宮には触れてはいけない人が居る、って言ったろう」
「ええ」
「その人じゃないか、と私は思うのだが」
「僕もそう思いますよ。正直、考えれば簡単なんですよ」
「そうなのかい?」
ええ、と仲忠はうなづく。
「今の僕等の周囲で、恋わずらいで死にそうにやつれてる人ってどれだけ居ます?」
「実忠どの」
「ええ無論彼はそうですけど。それ以外に、そんな風になってしまっている人って知らないですか? げっそりと痩せて、屋敷に引っ込んで滅多に表に出てこなくて、出てきても何やら上の空の様な」
「一人知っているけど」
一人の青年の姿を涼は思い浮かべる。
「……だがそれはいくら何でも無いだろう。小野篁にしたところで、同胞の妹ではなかったから、あの程度で済んでいるのだし。そもそも」
「そもそも?」
仲忠は首を傾ける。
「ある意味、彼は一番あて宮に恋するには
几帳越し程度で彼女に会える。誰も介さずに言葉を交わせる。いやそれ以前に、もっと小さい頃は手づから琴を教えたりもしただろう。
「すると、君はそれがやっぱり彼だと」
「口に出すことはできないのですけどね。彼が必死で隠したがっているものが判ってしまう様なことは言わないほうがいいし」
ううむ、と涼は文を拾い上げ、再び例の歌を見る。
「では『女房』がこれをわざわざ私に書いて送ってきたというのは何故だろうな」
「僕は彼女もそれが誰なのか、薄々気付いていると思いますね」
「気付いている」
「だけどそれを口にすることができなくてもどかしいから、せめて愚痴の様に、この秘密の文の中でだけ書いてみる、と。…好意的に見たらね。その『女房』がまだ年若く、思慮に欠けたひとだったら、単に興味本位かもしれないけれど」
「私は、この『女房』は、色々なことを面白がってはいるし、かなり若そうだし粗雑さはあるけど、一番大切なことに関しては思慮はあると思うんだ」
へえ、と仲忠は目を丸くし、やがて口の端を上げる。
「ずいぶんとお気に入りですね、ちょっと妬けるなあ」
「は、可愛らしいものさ」
「そうですね。文に書かれた考えからして、若い女性としては、色々考える質ではある様です。涼さんはそういう人がお好きでしたか」
「けど君だって、結構そういうところがあるじゃないか」
くっくっ、と仲忠は笑う。
「いつ僕が」
「だって君、私が吹上に居た頃の文ときたら、『女房』以上に事態を面白がっている様なものだったじゃないか」
「否定はしませんけど」
仲忠は肩をすくめる。
「実際、色々面白いことがありましたからね。それに僕が拾ってきた話は、大概僕等に実害の無い懸想人ばかりでしょう?」
「ああ、君がこんなに人が悪いなんて、誰が知っていようか!」
涼はやや大げさに肩をすくめる。
「あなただけで充分ですよ」
そう言っては二人でじゃれあって笑い合う。
ひとしきりその様な時間が過ぎた後、ふと思い出した様に涼は仲忠に問いかけた。
「そもそも今日は一体、君どうして」
「ええまあ」
懐からまた別の文を取り出す。
「僕のほうの伝から、あて宮と東宮の相聞歌を」
「お」
涼は身体を乗り出す。
「何だかんだ言って、あて宮は東宮とはきちんと歌をやり取りしているんだな」
「彼女はきっと、それ以外のことは元々考えていないでしょうよ」
手厳しい、と涼は再び思った。
「まず東宮から。
『―――あなたを恨んでそのまま死ぬ様なことがあれば、私としても庭を去らずに鳴く蝉となるでしょう』」
「蝉か」
「あて宮からの返しは、
『―――あなた様が松に鳴く蝉におなりならば、私が後宮に住む身になったところで何になりましょう』」
「確かにそうだな」
「で、また東宮からは、
『―――あなたのため故に悩んで粉々になった私の心の塵は集まって雲となり、落ちる涙は海となる程です―――
私に思わせて苦しめるあなたは世に希な方ですよ、世の中の例にもなることでしょう―――』
それに対してのあて宮は、
『―――この世はそもそも風雲が轟く蓬莱山を背負った亀の甲の上、片隅にあるほんの小さなものと聞いています。そんな風の吹くところにどんな塵が積もることができましょうか』」
「はねつけるねえ」
「で、その亀発言に対する東宮の返し。
『―――容易に登れない蓬莱山にさえ誰でも行くことができるでしょう。しかしあなたのご承諾を待っているうちに私は年を取ってしまいますよ―――
たとえ船の中でなくてもね』」
「不死の薬を求めさせた、秦の始皇帝の故事だね」
「あて宮の返しは、
『―――蓬莱山よりも先ずその島に到着するのが難しいのは、風が強くて波が高いのであぶない目にばかり遭うからでしょう』」
「で、風に戻ると」
「何というか、上手くやっているじゃない、という感じで。あ、そうだ、入内は十月あたりになるんじゃないか、って」
「知ったら実忠どのあたり、大変だろうなあ」
涼は思わずつぶやいた。
*
さてその噂の実忠である。
思いあまった彼は、山々寺々で絶えることの無い常住の修法を行わせていた。
だが以前に増してあて宮からの返事が無いので「こうしてはいられない」とこう文を出した。
「―――帆を上げて船は磯伝いに水路をたどることができるのに、私の通わす文には道もついていない/返事をいただけずにいることよ」
だがそれにも返事は無い。
それではとばかりにまた一通。
「―――お会いすることが難しくてそのままになるならば、私はいっそあなたを恨んで石になりましょう」
そう外つ国の故事「望夫石」を引いて書いてみたが、やはり返事は無かった。
さすがにじりじりした彼は、馴染みの兵衛の君を局に呼んだ。
「最近はもうちょっとしたお返しさら無くなってしまったじゃないか。あて宮の御入内はいつなんだい? もうそろそろ決まった頃だろう?」
「詳しくは」
本当は彼女は知っている。
「今ではもう東宮さま以外、誰にも何のお返しの文も致しません。御入内は決まった様ですが、その日までは」
「……ああ一体どうしたらいいだろう。兵衛の君、後生だ、どうか私を助けておくれ。こうして御入内なさらずにいる間すら、私は死ぬ様に苦しいんだ。まして入内なさってしまったら、もうきっと死んでしまう、絶対死んでしまうだろう。だからせめて、どうしても御入内前に余所ながらでも一言申し上げたいんだ。私はもう何年もずっとあの方のことを思ってきた。今更その心をどうして止めることができよう。そのあたりをよくよく伝えてくれないか?」
「そんな、とんでもないことです」
兵衛の君は実忠の勢いに震え上がる。酔っている。自分の恋心というものに酔っている。
「それに、もうそんな折、私には無いです。最近では大宮さまや大殿さまや姉上方がおいでになって、夜もそのままこちらでお休みになるので、近づくことすらできません。もう何をしても駄目なものは駄目なのです。あて宮さまのことは、もうお忘れなさいませ」
「そう言わないで、どうしてそうひどいことを言うんだ? ねえ兵衛の君、私は決してそなたの御恩は生まれ変わったとしても忘れないよ? それに、思いあまってけしからんことをしようとする訳じゃあない。直接打ち明けたいのも我慢する。ただ長年ずっと思い焦がれているということを、ともかく、耳に入れて欲しいと思っているだけなんだ」
「そうは仰られても」
「そなたはその言葉で私を殺す気か? だがそうしたとしても、私があて宮の懸想人であることは変わらないぞ。だからできることなら、私を殺すのではななく、謀ってくれてもいいじゃないか。そうしたところで、正頼どのからは物騒な者と思われはするでしょうが、そなたの命には別状ありますまい」
何を勝手なことを言ってるんだ!
兵衛の君は思わず背筋がぞくりとなるのを感じた。
「そなたが正頼どのから官位を頂いているというならともかく、そなたはただの女房なのだし。ねえ兵衛の君」
「……もうおやめ下さい」
彼女は耳を塞ぎたかった。
「いや、止めないぞ。兵衛の君、どうか私のために謀ってくれ。本当に、軽々しいことでこんなこと言えはしない。熱いのだ。もう身体の中に火がついて燃えさかっているかの様に、熱くて仕方が無いのだ。お願いだ、兵衛の君、助けてくれ……」
涙をだらだらと流しながら、実忠は兵衛の君に言い募る。怖い。はっきり言って彼女は怖かった。
だがその一方で激しい怒りが湧いた。
「そんな聞き分けの無いことを仰らないで下さい」
いい加減にしろ、と彼女は内心叫ぶ。
「実忠さま、今まで、あなたがそういうことばっかり仰るのを、あて宮さまがお受け入れになりそうなご様子が、少しでもありそうだったら、私、自分の身がどうなろうとも、必ずお伝えしようと思ってましたけど!…」
実忠はそれでも兵衛の君から離れそうにない。
彼女は首を大きく横に振る。駄目だ駄目だ駄目なんだ。何でこの男は判ってくれないんだ、この勝手なひとは!
ともかく、今は。
そうやって何度、同じことを繰り返した? だがこの男を引き離すには。
「ただ隙がありましたら、ただ今実忠さまがこう仰ったと申し上げましょう」
案の定、彼女の言葉を全部聞くか聞かないかのうちに、実忠は喜んで文を書きだした。
兵衛の君はその様子を見ながら呆れる。
「御入内も決まった今は申し上げまいと思っていたのですが、苦しさに思いあまって、心を持って行く先もありません。こんなに辛い目をあまる程見るよりは死んでしまいたいと思いますが、死ぬにしても、このままでは行くべき道が無い気持ちです。
―――胸は悲しみで閉ざされ、思うことは遂げられずに死んだならば、死出の山は関となって先へ行かれず迷うことでしょう―――
何とかして、夢の中ででも直接この思いを申し上げて諦めをつけたいものです。ああ愛しいひと、一体どうしたら良いのでしょう」
実忠はそう書くと、兵衛の君には蒔絵の置口の箱一具に綾絹と、夏の装束の綾襲のものを入れて、次の様な歌を詠みながら渡した。
「―――燃え切ってしまわない思いをこめた身体が熱いので、脱いだ衣を厚いと見ないで下さい」
兵衛の君はあて宮の元へ戻り、文を見せる。
あて宮は見て何も言わない。
「何と言うか、もう見ていられない程でしたので…… どうか一行でも構わないのです、返事をお書きになって下さいませんか? あの方があなた様を思い詰めて本当に亡くなられでもしたら、それこそ恐ろしいことですし」
それでもあて宮は聞き入れず、何の返事もしない。
あまりに何の音沙汰も無いので、再び実忠は彼女を呼ぶや否や、用意してきた歌を詠みかけた。
「―――湧くように後から後から物を思う人の胸に火が燃えて、いよいよ多くの滝となる様です―――
ねえ、今はこの様な気持ちなのですよ」
そしてこれも用意していたのだろう、黄金を入れた沈木製の箱一具を差し出した。
「―――長年頼みにしてきた人さえ私に冷淡なのに、心ない黄金が何の頼りになりましょう―――
でも、せめてこれだけでも」
兵衛の君は思わず目を伏せる。
「―――数の計れる黄金が何の役に立ちましょう。量ることが出来ないという恋こそ大事だと思います」
そう返すと、彼女は先ほどの歌が書かれた文だけを持って立ち上がった。
気が進まない。
本当に気が進まないのだが、兵衛の君は再びあて宮の前に文を差し出した。
「お願いです。今度という今度、お返事を下さらなかったら、あの方はそのまま亡くなってしまうでしょう。見ていられません」
あて宮はそれを聞くと、少しばかり考えて、文の端にこの様にだけ書き付けた。
「―――涙がどうして頼みにできましょう。涙は人の目に浮いて見えるというではないですか」
兵衛の君はそれを持ち、慌てて実忠の元へと行く。実忠が喜んだことは言うまでも無い。
「ではこれも」
「またですか」
「頼む」
兵衛の君は本気でうんざりしていた。
一体もう何度あて宮と実忠の局を行き来しているのだろう。
そして実忠と言えば、返歌をもらったことにだけ喜び、再び彼女の目の前で文をしたためている。
「―――久しい間悲しみ嘆いた人でなければ、涙は目に浮かばないのに、誰がまた私の様に苦しい目を見て泣く人があるでしょう―――
そういう人は居ないと思います」
頼むよ、と文を差し出す彼に、さすがに兵衛の君も堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減になさいませ!」
実忠は唖然として目を見開く。
「今回だけ、と仰るから、私、必死で隙を見てお渡ししたのです。あなた様が死ぬ死ぬとおっしゃるから! でももう、どうしようもございません。もうお頼み下さいますな。入内が決まる前でも大変だったのに、今はもう決まってしまったのです。それこそ天地がさまさまになったとしても、あて宮さまがそのお気持ちを変えることはないでしょう」
「そ、そんな、兵衛の君、いきなり……」
腰が退ける。
「いいえいきなりではございません。私、何度も何度も注意致しました。それにもし、あなた様が本気で身を捨てる覚悟であて宮さまの所へ忍び込もうとしても、今は傍らの御帳みちょうの回りには隙間も無い程に大宮さまや大殿さまに姉上方がいらっしゃるのですから、絶対に無理です。あなた様のことは本当に本当に可哀想だとは思います。思いますけど! 今となっては、どうして最初にこんなことを引き受けてしまったのか、と後悔致しますのよ」
そう一息に言い切った時だった。
「実忠さま?」
大きく目を広げたままの実忠が、その場で硬直していた。
どうしたのだろう、と思っているうちに、彼の身体はぐらり、と傾いでその場に倒れた。
様子がおかしい、と兵衛の君は慌てて近くに控えている実忠の仕人を呼んだ。
「うわぁ、宰相さま!」
「うわ、何って熱だ!」
「息、息をしていない!」
「胸を!」
「くすしは何処だ!」
「呼べ! すぐに大変だ、宰相どのが」
大騒ぎが続く中、兵衛の君は気が付いたら自分の局に戻っていた。へたりこむ。力が出ない。
「どうしたの、ひどい顔色よ」
「孫王さん……」
どれくらいへたりこんでいただろう。
「あて宮さまが、あなたがずいぶん長く戻って来ないって仰って……」
そう言いながら孫王の君は彼女の側に膝をつくと。
ぽろ、と兵衛の君の目から大粒の涙が転がり落ちた。
「兵衛さん?」
「……!」
物も言えなかった。兵衛の君はそのまま、孫王の君にすがりついて、わんわんとしばらく泣いた。
*
実忠の一大事!
長兄である民部卿実正や、次兄の源中将実頼は慌ててあちこちに弟の病気治癒の大願をかけた。
だが寝込んでしまった実忠自身は、そのことは全く知ることがなかった。
何とか命だけは取り留めたことで、父の左大臣季明をはじめ、家に戻った。
それを確認した後、実忠はそっと銀の箱に黄金千両を用意させた。
そしてそれを兵衛の君の元に、次の様な歌をつけて送った。
「―――この事のためにどうせ死ぬ私です。命を伸ばすという黄金千両をあなたに差し上げましょう」
兵衛の君は、実忠が悲しみ悶えて気絶までしてしまったあの恐ろしくも哀れな場面を思いだした。
「―――雲の上の人にはなりましたが、呼び返すために黄金は何の役にも立たないそうでございます―――
実を申しますと、私も本当に悲しいのでございます」
色々な意味を込めて、彼女は歌と共に黄金をも返してしまった。
*
「それから?」
今宮はやや不快そうな表情で女房に問いかける。
「ええ、何でも兵衛の君には受け取ってもらえなかった千両の黄金を三十両づつ、銀の鶴の形をとった壺の中に入れまして、七大寺から始めて、様々な所へ納められたということです」
「何でも」
他の女房も口を挟む。
「比叡や高雄の御山で誦経なさったそうです。『全ての天地におわします神ほとけよ、我が願いを叶えたまえ』とばかりに」
「その比叡の中でも験あらたかな所を四十九カ所お訪ねして、そこでまた阿闍梨を四十九人遣わしたそうです」
「その阿闍梨一人につき、伴僧を六人お供させましたそうです」
「そして四十九壇に聖天を供養致しまして、お布施なども実に沢山され、美しい絹を阿闍梨には着せて、ご自分はと言えば、中堂に七日七晩、全身を投げてお願いなさったそうです」
へえ、と今宮は一つ一つの話をうなづきながら聞く。
「それで、その願いは叶うと思ったのかしら」
「思われたからでしょう。その後あて宮さまの所に、兵衛の君を通して御文が」
「何でもそれは、あの四十九壇の修法で祈祷した水を硯に使った墨で書かれたものだということで」
「―――申し上げる言葉も、私の命も今日が最後となりましたが、涙は尽きないものでございます―――
もうこうやってお伝えすることもできないでしょうが、せめてもう一度だけ、御返事を拝見させていただいてから、死出の旅路にと思いまして……」
「で、兵衛の君も、ちょうどお湯殿にいらっしゃるあて宮さまに伝えたということで」
「で?」
今宮は答えの判っている問いかけをする。
「あて宮は?」
「はあ……」
女房達は顔を見合わせる。
「兵衛の君は、実忠さまのご様子を詳しく申し上げて御文を差し上げたんですが、あて宮さまはこうおっしゃったそうです」
「『確かに亡くなったと騒がれたことは可哀想だとは思うけど、ここでまた返事など書いたらどんな評判が立つかしら』と。御返事となる様なお言葉はいただけなかったということです」
まあ滅多にない沐浴の日に、そんなうっとうしいことは聞きたくはないだろう、と今宮は思う。
沐浴はさっぱりするが、同時に時間もかかり、疲れるのだ。洗髪の時の様に、ただ寝て待っていればいいというものでもない。
「それで、もう皆入内の日がいつになったのかは知っているの?」
「はい」
女房達は皆うなづいた。
「ただ大殿さまのお達しで、外に漏らさない様にしてきましたが」
「先日それも許されまして」
そう、と今宮はうなづいた。
十月五日。
それがあて宮の入内の日だった。
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