第12話その3 大人たちにあきれる宮あこ君

「見苦しいわ……」


 今宮は御簾の向こう側をのぞき込むとつぶやいた。

 実忠が大殿の簀子を離れずに、何かというと涙を流して嘆いていた。

 時には文も送ってくる。その調子がまた奮っている。


「―――言葉も涙も尽き果てて、ただぼんやりと思いに沈んでいます―――

 最早何と申し上げるすべもございません。ここ数年ずっと思いをかけていながら、間に人を立てず、夢ほどにも直接に申し上げないでしまったことが心残りでなりません。

 愛しい貴女、貴女が雲の上のひととなってしまったとしても、私が下の方から見上げることを許して欲しいものです」


   *


「お母様からあまりそういうことはするものではない、と注意はされたんだけど」

「別に構わないわ」


 あて宮はあっさりと答えて、自分の元にやってきた懸想人の文を妹に渡す。

 今宮はやはりそれを一宮と眺めているが、あまり以前の様にうきうきと批評することもできない自分に気付いていた。


「右大将さまはどちらかというと、もう意地よね」


 今宮は思う。

 そもそも彼には最愛の妻と子が居るのだ。

 だが色好みで鳴らした身としては、あっさりと引き下がる訳にもいかないのだろう。


「入内がお決まりになった今では、申し上げるのも大変恐縮かと存じますが「たつことうきかげ」という様に、どうにも立ち去りがたい思いがありますので。

 ―――八百万の荒神に祈ってお願いしましたが、とうとうあなたは何も仰いませんでしたね―――

 多くの年月がありながら、あなたを得るための工夫もせずに済んでしまいました」

「で、それにはどう答えたの?」


 一宮が問いかける。


「まだ決まったという訳でもないのに」


 あて宮はそう言って笑うばかりだった。

 孫王の君に聞いても、特に返事はしていないという。


「というより、もう東宮さま以外の方には返事をなさらないおつもりの様です」


 そうかもしれない、と今宮は思った。


   *


 その後、兵部卿宮からも文が届いた。


「水の上に数を書くとか言う様に、どうせ無駄なことだとは思いますが、気の紛らわし様も無く辛く、どうして忘れることができましょうか。

 ―――文をあげることも近づくことも、どちらも出来ないのです。だったらさっぱりとあきらめるべきなのに、何とまあ、後から後から惑う心がついて廻ることでしょう―――

 全くどうしたものでしょうか」


   *


 平中納言からも届いた。


「甲斐のないことをこんなにも思って悩むよりも、死んでしまいたいと思いますが…

 ―――身を投げる所さえ無いのです。人を思う私の心に勝るほどの深い谷がないので…―――

 ああどうしたものか」


   *


 弾正宮からも、庭の紅梅が匂う盛り、雨の降る頃に文が届いた。


「―――思い悩むあまり、紅の涙が流れて溜まって染まった、あの色の何と深いことでしょう―――

 大空まで恋しゅうございます」


   *


 仲忠からも来た。


「―――涙川に浮き名を流す今となっては、私を誰も信頼しないでしょう―――

 涙で袖が濡れてしまうのを誰が咎められましょう」


 恋歌という感じではないわ、と一宮は自分に言い聞かせる様につぶやいた。


   *


 涼からも来た。


「―――あなたに対する私の恋は真砂の数の数えても尽きない程なのに、ほんの僅かなしるしすらお見せ下さらないのですね」


 そう言えば最近この方とやり取りしていなかったわ、と今宮は気付いた。

 少しだけ寂しく思った。

 また「女房」としてこの様子でも書いてみようかしら、と彼女は思った。


   *


 それから更に暖かくなった頃、仲純が庭の木の芽が膨らんできたのを見てこう詠みかけた。


「―――私と同じように、春の山辺も恋いこがれているでしょう。嘆き/木の芽がもえない日はありません―――

 山にも私の恋が一杯に広がった様な気がするんだ」


 他の女房達もそこには居た。だから何処かの誰かへの恋心を詠んでいるかの様にさりげなく―――

 仲純は答えを期待していた訳ではない。ただもう、何かしらの反応が、少しでもあて宮の方から感じられたら。それだけで良かったのだ。

 しかし几帳の向こうの気配は静かだった。まるで誰も居ないかの様に。


 手ひどく、もっと手ひどく撥ねつけられたなら!


 彼は時々そう思う。もっと、もっと手ひどく。

 そう言えたなら。


   *


 とある日のことである。


「姉様」


 今宮の前に、宮あこ君がぶすっとした顔で現れた。

 彼はまだ元服前なので、同腹の姉達の前にひょいひょいと顔を出す。姉達も彼を可愛がっている。


「どうしたの? 向こうのあこ君と喧嘩でもした?」

「ううんそんなことない。あいつと居ると楽しいし」


 同じ歳の家あこ君とは、住むところは違っても、何かと行き来している様である。先日の舞でもお互いにその健闘を讃え合ったと今宮は聞いている。


「これ」


 彼は縦折りの文を差し出した。


「私……」


 じゃないわね、と彼女は大きくうなづいた。


「前にもそういうことなかった? あて宮宛なんでしょう?」


 宮あこ君はうなづく。


「あったよ。前は真言院の阿闍梨あざりだった。渡してくれってしつこくってさ。僕あれから大人って嫌だなー、って思っちゃったじゃない」

「それは私も思ったわよ」


 ねえ、と近く居る女房に彼女は同意を求めた。彼女達はやや困った顔をした。


「阿闍梨だけじゃあないよ。行正さまも前、僕に頼んでさ」

「あの方も」

「そう言えばそういうお話、聞いたことがございますわ」

「あの方はあちらに住んでるから、家あこの方が渡しやすいんだろうけど、あいつじゃああて宮のお姉様には渡しにくいだろうからってわざわざ僕にさ」


 ぶつぶつと宮あこは言い捨てる。


「で、誰からなの?」

「見れば判るよ」

「私が見ていいの?」

「だって別にどの宮に、なんて言わなかったもの」


 しらっと彼は答える。今宮は肩をすくめると、文を開く。


「―――思いに堪えられないのにつけても、胸だけでも燃えないのでしたら、身からも胸からも焔を出さずに済むでしょうに―――

 そういう訳で隠れ場所も無いので、やむなく御消息申し上げるのです」

「立派な御手跡ですわねえ」


 回される女房達は感心して見る。


「けど紙とかは結構素っ気ないのでは?」

「だって言ったもの。『これは普通のことを申し上げるのですから』って」

「こうゆうのはあて宮は受け取らないって言わなかったの?」


 今宮はため息をつく。


「言ったよ。だけど行正さまと同じさ。何か、渡さないと漢籍の稽古もしてくれなさそうだったんだもの」

「漢籍の稽古」


 ということは、と今宮は記憶を巡らす。


「何、もしかして」


 弟はふてくされてうなづく。


「だから僕、言ってやったさ。『ずいぶん久しく漢籍の稽古をして頂きませんね。他の人の前では読むなと仰ったので、読みも致しません。悪い人ですね』ってさ」

「それで?」


 それで済むはずが無いだろう、と今宮は思う。

 宮あこの漢籍の師。それは藤英とうえいだった。


 そう言えば彼は現在、父左大将の東宮大夫の辞表を作るために、南の大殿に部屋を設えてもらっている、と今宮は思い出す。

 現在彼は「大内記だいないき」という職についている。詔勅、宣命を起草し、位記を書き、御所の記録を掌る重要な役目で、五位に相当する。

 このほど殿上も許された。東宮学士も兼ねている。役に立つ者として、朝廷から大事にされている。

 評判が上がるにつれ、高い身分の人々が彼を婿にしようと話を持ちかけてくる。

 だが彼はそんな話にはまるで乗らない。何でもこう言い放ったそうである。


「私が貧乏に困っている時には、ただもう皆様私を虫か鳥の様に軽蔑していたじゃないですか。

 もし私の髪の毛に火がついたり、大海にさらわれ流されたとしたも、誰もきっと救いはしなかったでしょうよ。

 そう、あの時それまで頑なに持っていた矜持を横に置き、身の程も顧みずに左大将どのの屋敷までの行進に加わったがために、現在はその今をときめく方のお目に止まり、多少なりとも実力を認められました。

 それで少しは世に出て人並みになっただけのことで、中身は元の藤英と何も変わったものではないのです。

 そして私がこういう人物であるのは、まず天道が公明であり、私の学問の実力が確かであったからです。

 今こうやってかつては天人かとまで思われた高貴な人々と肩を並べて同等に交わったり、位の高かった人を今では自分の下に見る様になり、元々及びもつかないと思っていた宮中をまるで我が家の様に馴れ馴れしく考えることができるのは、全て仏のお陰でしょう。

 私を嘲弄する公卿の皆様、あなた方はあなた方に相応しい五位の方を婿にお取りになれば良いでしょう」


 確かそれは兄の一人が爽快そうに言っていたはずである。今宮にしてみれば、何格好つけてんだ、と考えずにはいられない。ともかくこの男はいちいちと自己主張が長ったらしいのだ。

 馬鹿じゃないか、と彼女は思う。


「そしたら彼、僕に言う訳さ。『宮にお取り次ぎして下されば、東宮さま並に学士としてお仕えしましょう。東宮さまのところを辞めても構いません』とね」

「そんなことする訳が無いでしょ」


 びしゃ、と今宮は言う。ようやく念願の職を得た彼が、懸想ごときで何を言う。

 そもそもこの「賢い」藤英が、あて宮が東宮のもとに入内するという話を聞いていない訳がない。

 いや、それとも。


「結構こういうひとって鈍いかしら……」


 ふとつぶやく。するとその一言を女房が拾い上げる。


「そうかもしれませんよ。東宮さまのお側に仕えていても、そういうお話はお偉い方ですから、お耳に入れないのかもしれませんわ」

「それはありかもね」

「で僕も言ったのさ。『どの先生もそういうことを仰って教えて下さらないから、僕は馬鹿になってしまいます』ってね。全く僕を一体何だと思ってるのさ、あの方達は」


 全くだわ、と今宮は苦笑する。そんなことに使われるこの弟が可哀想である。


「まああて宮には私のほうから女房にこれこれこうゆうことがあったわ、って伝えておくわ。あなたは無視して自分のことをしてなさいよ」

「そうするよ。あの人達、学問は立派だけど、僕はどうしても好きにはなれないもん。あーあ、仲忠さまから色々教わりたいなあ」

「あら」


 今宮は目を瞬かせる。


「仲忠さまは好き?」

「涼さまもいいなあ。あの方々の言うことだったら僕、何でも熱心にできると思うんだけど」

「そりゃあ今評判の二人だけど」

「姉様だって見たことあるでしょ。でも僕はもっと間近で見ちゃったものね」

「若様、そんなはしたないことは姫様はしないものです」

「だから、どっちかと姉様達の誰かが結婚して欲しいなあ。そしたら僕、義理のきょうだいだし。もっと仲良くなれるし。あ、でも仲忠さまは一宮と決まったんだっけ」

「まだ本決まりじゃあないわよ。ともかく宮あこ、一宮の前でそういうことをべらべら言うんじゃないわよ」

「どうして。ああ、一宮が仲忠さまを好きだからか」


 嗚呼、と今宮はぴしゃと自分の額をはたく。


「だからそういうことを軽々しく言うんじゃないっていうの」

「判ってるよ。そのくらい僕にだって判ってますってば。姉様だから言うんだし」

「何、私ならいいって言うの?」

「今宮の姉様が一番話しやすいんだもの。そう、姉様が涼さまと結婚してくれたらいいなあ」

「だからそういうことは」

「はいはい、言いませんー」


 あはははは、と笑って宮あこは文を置いて立ち去った。全く、と今宮は可愛らしいつむじ風にため息をついた。ほほほ、と女房達は笑い声を立てる。


「でも私共も同じですわ。あて宮さまが入内なされて、一宮さまに仲忠さま。それで今宮さまに涼さまが婿入りされたら、ここは今以上に華やかになりますし」

「私達も楽しいですし」

「あなた達はそれが目的でしょ」

「だってそうすれば、涼さまのお支度とか」

「お側に控えることだって」

「間近に寄ることだってできますし」

「朝のしどけないお姿とか!」


 きゃあ、と女房達は声を立てる。勝手にしろ、と今宮は長い文を書く巻紙を取り出す。「女房」からの文を久々に書こうと思ったのだ。


「あ、今宮さま、例のお文をまたお書きになるのですか?」

「そうよ、悪い?」

「いいえめっそうもない。それでしたら、いいお話がございましてよ」


 耳聡い今宮の女房はふふ、と含み笑いをする。


「何?」

「はい。例の真言院の阿闍梨さまですが」

「……ああ、あの生臭坊主……」


 今宮は不快そうに眉間にしわを寄せる。


「何でもまたお文をお送りになった様ですが」

「性懲りもなく!」

「それがですね」


 ずい、と女房は身体を乗り出す。


「何でもその文をお書きになった墨は、大願をお立てになって、聖天の法を一心に行って、それで加持した水を硯水すずりみずにしたそうですの」

「聖天の法?」

「何あなた知らないの、大聖歓喜天よ、あの夫婦が抱き合った様な、象の頭をした神様。その神様から力を貸してもらおうっていう法よ」

「ああ! 男と女の仲っぽいわよねえ!」


 像の形を思い出したのか、女房はぽっと頬を赤らめる。


「それで、どういう内容だったの? 文は」


 今宮は既に書く体勢に入っている。


「はい。この様な歌だったそうです。

『―――出家するほどの私の悲しさがこれで尽きたと思ったのに、どうしてまたあなたはこんなに多くの悲しみを私にお残しになったのでしょう』

 ということです」

「……本人の煩悩のせいに決まってるじゃない」


 これで仏の御徳があったら怒るわ、と今宮は思った。

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