第4話その1 仲純の同母妹への押さえきれない気持ち、そして現在の東宮の妻たち
祭りが終わればすぐに五月がやって来る。
夏が来るのだ。
さて、節句の日の早朝のことである。
左大将邸では、
「起きているかい? あて宮」
中で誰かが動く気配がする。だが返事は無い。
手にした菖蒲の花を、御簾の中へと差し入れながら彼は詠む。
「―――君を恋い慕う涙の川の水際のあやめを引いたら人知れず秘めていた『ね』が露わになってしまった」
それでも返事は無い。彼は言葉を続ける。
「こんなことを言う兄なんて、何てことだろうと君は思うだろうな。だけどそういう生真面目な君だから、僕も僕で、こんなあってはならない心持ちは忍ばなければと思うのだけど……」
ふう、と仲純は大きくため息をつく。
「困ったことに、堪え忍ぶことができない」
仲純はその場にうずくまる。じっと耳をそばだてる。気配を感じ取ろうと、目を閉じる。
そして続ける。
「こんな僕はもう死んでしまったほうがいい。いや、死んでしまうだろう。だから君もそういう男が言うことだと思って聞いてくれないか?」
すると中から「ほほほ」と微かに声がする。
彼は慌てて顔を上げる。それは確かに彼の知る妹の、思い人の声である。
「お兄様、どうしてそういうことばかりおっしゃるのですか」
「あ…… あて宮」
御簾は開かない。ただ中から凛とした声が聞こえるだけである。
「私はあなたの妹ではありませんか」
そのまま中の気配は遠ざかって行く。
嗚呼、と仲純は身体から力が抜けて行くのを感じた。
どうしてこうなってしまったのだろう? 彼は思う。
何がどうして自分があの妹を恋うる様になったのか、彼自身さっぱり判らない。
同じ屋根の下、大宮の母の元に生まれた。
年こそやや離れていたが、ほんの小さな頃には雛遊びの相手もしたし、少し大きくなってからは楽器の手ほどきをしたものだった。
それがいつからだろう。
まずその髪から目が離せなくなった。
漆黒の豊かな髪はつややかだった。絹糸を縒り合わせた様なそれは、明るい色の袿には特に映える。
美しいと思って眺めるには時間はかからなかった。何であれ誰であれ、思うことは止められない。
やがてその手触りを想像する自分に気付いた。
掻き分けたなら、しっとりと冷たいだろう。指を通る一筋ごとの重みまで、ひどく生々しく思い描くことができた。
文の言葉一つ、字一つで相手の姿を思い描くことが日常茶飯事の世の中である。想像力過多と誰が彼を責められようか。
すぐ側まで近付くことができた童女の頃。
琴を教えに几帳を挟むことなく出会えた少女の頃。
そして裳着の式が盛大に執り行われ。
几帳越しにしか会えなくなった妹に対し、彼は自分の思いが女人に対する恋だということに気付いてしまった。
彼は驚いた。
違う違う、と何度も自分自身を否定した。これは恋じゃあない。ただもう、すぐ側で会うことを禁じられた妹に対する執着心に過ぎない。
そう思おうとした。
だが身体がそれを裏切った。
彼は自分を恥じた。恥じずには居られなかった。
その反面、何とかして、この気持ちを当人に伝えたいと思った。戯れごとではない、本気なのだ、と。
困らせると判っていても、言わずにはいられなかったのだ。
だが妹はいつもそれをするりするりとかわす。
意味が判っていないのだろう、と当初は思った。
思いたかった。意味が判っていないうちなら、まだ時間はある、と。その反面、意味を判ってもらいたかった。
自分の中でも、恋心なのか執着なのか、知って欲しいのか知られたくないのか、そして受け止めて欲しいのかそうでないのか――― 判らなくなりつつあった。
もしかしたら自分は、元々決して実らない恋をしたいのかもしれない。
そう思うこともあった。
例えば相手が向こうの――― 大殿の上の方に生まれた妹だったら、父に熱心に頼めば叶わないことはないだろう。異母妹とのつながりは、決して歓迎はされないにせよ、黙認はされる。
だがあて宮は同母妹だ。何をどう転んでも思いは叶わない。
つまり自分は、元々叶わない恋でなければしたくはなかったのじゃないか?
考えれば考える程、彼は判らなくなっていく。
眠りが浅くなり、身体に疲れが溜まる様になる。
そんな彼が、仲忠に出会ったのは、思いがぐるぐるととりとめなく出口を失いだした頃だった。
前の年の八月。
その時に仲忠の
素晴らしいなどというものではなかった。
いや、彼にとってはそれだけではなかった。
―――あて宮の他にこんな音が出せる者が居るのか―――
妹の音に似ている、と思った。
いや、そうではない。彼は即座に否定する。
この二人は同じ音を持っているのだ。
何かが自分の中で壊れた様な気がした。
その一方で、彼の足は動いていた。
宴が夜更けまで果てなく続く中、ようやく踊り狂う中から抜け出した仲忠に、仲純は声を掛けていた。
やあ、と呼びかける仲純に、仲忠は邪気の無い笑顔で返した。
「内裏では時々お見かけしますけど、あまり面と向かってお話することもなかったですから、仲純さんと話ができて、僕は嬉しいな」
「僕もだ。一度ゆっくり話したいなあ、と思ってはいたけど、何が君、いつも忙しそうで」
心にも無いことを。
内心思いながら彼の口はすらすらと言葉を紡ぎだしていた。
仲忠は無邪気な口調で続けた。
「清涼殿に伺候している時も、父以外に僕の面倒を見て下さるひとも居ないし、ちょっと心細くて、かと言って、何となくあなたの側にも近寄りがたくて……」
「そんなことは無いさ」
「でもそう、最近内裏にあまりいらっしゃいませんね。どうなさったのですか?」
仲忠は首を傾げて訊ねた。ああ、やはり周囲からはそう見られていたんだ。仲純は思った。
「いや、大したことじゃないんだ。ただね、ちょっと気分がすぐれないことが多くって宮仕えがちょっとね……」
「どうしてまた。もしかして、恋の病ですか? 見たこともない人にする類の……」
仲忠はふふ、と笑う。
「や、今となってはどうにもならないことなんだ」
仲純は目を伏せる。
「本当ですか?」
「本当だよ」
本当だ。彼は内心自嘲気味につぶやく。
「心配なのです」
仲忠の言葉に、仲純は黙って首を傾げる。
「女三宮さまにも勧められたんです。『あなたはこれと言って頼りになる親族もいないことだし』と、あなたと仲良くしてはどうか、と」
嵯峨院の女三宮。
思い出す。そう、母の妹だ。
仲忠の父、右大将兼雅は三条の北の方と共住みするようになる前は、女三宮を正妻として一条に暮らしていたのだ。
「そう言えば僕にもそうおっしゃられた。仲頼と行正とも義兄弟の約束をした仲だというし。君ともぜひそうしたいな」
すらすらと口は動く。
女三宮がどうした? そんなこと言われたことがあっただろうか…
だが口は動く。勝手に仲良くなろうとする。
いつかまた会いましょう、箏を合わせたりしたいですね、仲頼が蹴鞠に誘いたがってましたよ、云々。
耳は言葉を拾う。顔は笑みを作る。
だがそれが自分のものだとは、仲純には次第に考えられなくなりつつあった。
あて宮は自分を見ない。
だったらもう。
彼の考えはゆっくりと螺旋状に落ちて行く。
*
「よくもまあ、ああも冷たいことが言えたわね」
ちご宮は囁く。
「言葉を返す様におっしゃったのはお姉様ですわ」
「確かに私は返してあげればいいとは言ったけど…」
ちご宮は言葉を無くす。
早朝、部屋の外に人の気配がした。
ちご宮は女房から仲純らしい、と聞くとあて宮を残し、声が聞こえない距離に人払いをさせた。
案の定、自分では言わない言えない伝えてくれ、と言っている割に、ふらふらと出てきてしまった兄だった。
そして弱々しくも告げた言葉ときたら。
あて宮の周りなど、口さの無い女房達が沢山居るというのに。これで下手に同情した女房が渡りをつけてしまったらどうするというのだろう。
仲純はそうなりたいのだろうか。誰か側に居る女房を味方につけたいのだろうか。
それとも、もうそんな判断もできなくなっているのだろうか。
それにしても。
ちご宮は妹を見る。いつもの様に平然とした美しい顔で、蹲ったままの兄を遠目に眺めている。
「あそこで高々と笑うことは無かったじゃないの?」
「そのくらいしないと、お兄様には私が妹ということを思い出してはいただけないと思いましたから」
「そうじゃなくて」
ああもう、とちご宮はもどかしさに両手をぐっと握り締める。
「もう少し言い方というものがあるのではないの?」
「でもお姉様」
あて宮は振り向く。艶やかな髪がざらりと揺れる。
「希望など持たせない方が幸せというものではないですか? 誰にしても……」
「誰にしても、って…… それは、あなたに歌を贈って来る人達のこと?」
「それ以外の何がありますか」
さも当然という様にあて宮は言う。
「お姉様はずっとお解りかと思ってました。私がこうお父様やお母様から呼ばれる様になった時から」
ちご宮ははっとする。
あて宮。
数ある左大将家の娘のうち、最も美しく高貴な姫。
その思いを込めて正頼も大宮も彼女を呼ぶ。
自分は稚児――― ちご宮と。
いつまで経っても子供の様に可愛らしい子の意味だ、と乳母は説明してくれた。
だがそれは一番美しい訳でも高貴な訳でもない。ただ可愛らしいことを望むだけだ。
平凡な幸せを、誰か相応の公達を婿にすることを望むだけだ。
下の姉妹にしても同じだ。
今宮。袖宮。そしてけす宮。
それぞれに父母なりの心を込めた呼び方をされている。
今を時めく女性となって欲しいと。
振る袖の様な艶やかな美しさをと。
どんな不幸も起こらぬ様に、あえて不吉な言葉を。
同様につけられたその名。あて宮が「貴宮」である限り、彼女は父母にとって、最高の娘なのだ。
そして最高の娘に望むことと言えば―――
「あて宮、そう言えば東宮さまへのお返事は出しているの?」
「ええ」
「それは、父上がおっしゃったから?」
そうではない、とちご宮は言ってほしかった。東宮から贈られた歌に心を動かされたから、とせめて。
しかし妹は、ええ、と当然の様にうなづいた。
「他の誰に返さなくてはならないというのですか?」
「仲忠さまは? 嫌いではないのでしょう?」
「いい方ですわ」
「それだけじゃないのではなくて? だってあなたの返歌は他の人と違っていたじゃない」
「お姉様」
あて宮は首を傾げる。
「どうしてそういう困ったことをおっしゃるの」
「困ったこと、というの?」
「私にどうしろとおっしゃるの?」
どうしろと。
「仲忠さまに返してどうなるというのですか?」
ほんの少し、語尾が皮肉気に笑っていた。
*
東宮には、現在既に何人かの女性が仕えている。
現在その中で特に寵を受けているのは、二人。
梨壺の右大将の大君。
嵯峨院の女四宮。
他には
ちなみに、一番最初に入内したのは左大臣の大君だった。だが彼女は歳上で、がっちりと太った身体と、またそれに似合った性格のせいか、東宮は失礼でない程度にしか訪れない。
「元々大臣家の后がねとして育てられた気位の高い方ですから、東宮さまが寄りつかないと言ったところで、下々の女達の様に泣いてすがりついてまでおいでを願うということもできません。そんな訳で、年を経るごとに意固地になって居るということです」
ちご宮と今宮の女房達は、集めてきた話を主人に伝える。
「お年があて宮様に一番お近いのは、平中納言さまの三の君でしょう。非常に素直で可愛らしい方だそうです」
「一番上という昭陽殿の方は幾つなの?」
ちご宮は問い掛ける。
「もう三十に手が届くという話です。もう少し下かもしれませんが」
それは厳しいな、とちご宮は思う。
「お姉様、いきなり私の女房達まで使って一体どうしたというの」
「だってあなたの女房達は、こういうことが上手じゃないですか」
くす、とちご宮は笑う。今宮は何も言えず押し黙る。
「いいですよ。私だって聞きたいですから。皆続けてちょうだい」
はい、と女房達は笑いをかみ殺す。
「それで、現在時めいている方はどうなの」
「梨壺の方は、仲忠さまの
「仲忠さまの――― 叔母様の方の妹君ね」
兼雅の正妻は嵯峨院の女三宮、正頼の妻の大宮の妹にあたる。
「それじゃあ私達とも多少は縁続きということだわ」
今宮はそうか、とばかりにうなづく。
「五の宮とも、女四宮とも呼ばれている方は、その叔母様の一人でございます。お年は梨壺の方より少し上。東宮さまと一番近いのがこの方ではないでしょうか」
「その方も東宮さまのお気に入りなのね」
「はい。ただ院の一番末の、可愛がってらした方なので、時々我が侭な所もあると耳に挟みました。しかしそれがまた可愛らしいのだ、とも」
「男ってのは判らないわ」
ぴしゃりと今宮は決めつけ、そして姉に問い掛ける。
「あて宮はそんな中に、自分が入るものと思っているの?」
「思っているのじゃあないかしら」
ちご宮は軽く顔をしかめる。
「でも、だとしたらあの冷たい態度もうなづけるというものね。あーあ、私は気楽な妹で良かった」
「あら、そんなことはありませんよ」
女房の一人が口を挟む。
「何よ一体」
「あて宮さまが、どの方をお選びになるのかは私などには想像もできませんが、それでもいつかは決まるでしょう。そうしたら今度はあなた様ですわ、今宮さま」
うわぁ、と今宮は思い切り顔をしかめた。
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