第18話 俺は決意する

 俺を嫌ってはいなかったのだろうか。

 そんな疑問が最初に浮かんで、そして一瞬で消えた。

 そんなことよりもなぜ彼女がここにいるのか、そして彼女は何を叫んでいるのか、それが知りたかった。


 置いて行かないで、とは何だろう。

 意味が分からなかった。でも、嬉しさよりも早くやって来たのは怒りだった。


「俺を置いて行ったのはお前だろうが」


 俺は最初から何もしていない。ただ待っていただけだというのに。

 置いて行かないでじゃない。置いて行ったのはそっちだ。俺は置いて行ってなどいないし、莉紗は俺を置いて行った。

 あの日から莉紗は、置いて行った。


 なのに。それなのに。

 こっちの気も知らないで被害者面をしやがって。

 また別れが訪れるんじゃないかと不安だったというのに。


「俺は待っていたのに!」


 そう叫んで、既視感デジャヴを覚えた。いや、これは既視感デジャヴじゃない。こういう場面は、昔にもあった。

 でも、気づいたときには遅いのだ。前だってそうだったから。


「待ってなんてくれなかったじゃん! どんどん先に行っちゃうしさ! もういいっ!」


 吐き捨てるようにそう言って、元来た道を引き返していった。

 追いかけることなんてできなかった。体が鉛のように重く、追いかける気さえも起きない。いや、追いかける気力がないというべきか。

 もうこれは終わりだ。続いていた関係はやっぱり終わっていく。


 頬を伝う涙を拭い、その場から動けないまま本心の叫びを晒した。


「何でいつもいつも俺はこうなんだ! こうなってしまうんだ! 俺は何もしていないのに! 元に戻れるはずなのに!」


 叫んでいるうちに、何の感情から生まれたものかも分からない涙が、息が溢れ、声を抑えつつすすり泣いた。

 俺は、普通に楽しい生活を送りたいだけなのに。


 イケメンはいいなと何度言われたか分からない。王様気分はどうですかと何度皮肉られたか分からない。

 でも、結局得したことなんて損したことに比べれば米粒のようなものだ。登ってきた荊の山に、得た飴が全く釣り合わない。


 もちろん俺にだって非はある。でも、それにしても酷いじゃないか。

 一挙手一投足が注目され監視されている。ストレスを少しでも出せば非難され、感情を殺して逃げようとすれば友達にがっかりされる。

 つまるところ、俺は溜めていくしかないわけだ。ストレスも恨みも。普通の生活を送るためだけのために。


 思い返せば、酷い人生だ。何もしなくとも災厄ばかり集まってくる。飴なんて滅多に経験できない。

 そしてそんな人生を羨まれるという皮肉。これまでの人生で受けた鞭がどれだけ痛かったことか。


「————でも、その分得られる飴は特大なんじゃないかな?」


 俺がもういっそ死んでしまおうかと考えていると、そこに一つの声が投じられた。聞き覚えのある穏やかな声だ。


「恭介……」


 最初から最後まで全て聞かれてたのだろうか。だとしたら相当恥ずかしいんだが。

 しかし、俺にはそれよりも言いたいことがある。


「いいや、特大の飴はもらえねえ。今回の件を乗り越えたって、関係が元に戻るだけ、そうだろ?」

「うん、確かに。じゃあ、オペラント条件付け、って知ってるかな?」

「ああ。報酬を得ることでその行動を増やそうとするってやつだろ?」


 オペラント条件付けでは、正の強化、正の罰というのがある。正の強化が飴、正の罰が鞭、という感じだ。

 しかし、オペラント条件付けに正があるということはつまり。


「そして、負の強化もある」


 負の強化、負の罰。負の強化とはゲームを禁止されていた子供にゲームを返す、つまり罰の除去によってその行動を強化し、負の罰では報酬を減らして行動を強化する。

 そしてこれが今の話題にどうつながるのかという話だが。


「要するに俺は特大の負の強化を得られるってわけだ」


 俺が今回の件に死ぬ気で向き合い、乗り越えれば、莉紗との関係を取り戻すことができ、負の強化を得られる、とそういう訳だ。

 でも残念ながら、その話には乗れない。向き合うことは、できない。


「俺が今回の件を諦めて莉紗との縁を切れば、また新しい人生がある」


 俺が別方向に歩きだせば、もう負の強化の必要もなくなる。ゼロに戻ってリセットだ。

 また一からやり直しだとしても、そっちの方がいい。


「でも、奏斗は忘れられるような人間じゃないでしょ?」


 僅かに残った俺の弱い心を、未練を引きずる心を正確に射て、椎名は言った。


「俺も手伝ってあげるから。だから、一緒に進んでいこうよ」


 そんな椎名の優しさに、俺の心は、固まりかけの決意は揺り動かされてしまった。


「……ああ。じゃあ一緒に傷つこうぜ」


 俺は皮肉げに口の端を吊り上げた。

 逃げられない戦いが、いや、闘いが始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る