第17話 あたしは懇願する

「莉紗……悪い。実は俺、嘘ついてたんだ」


 恭介は突然、あたしに嘘を吐いていたと白状してきた。何のことだと視線で問うと、恭介の口から紡がれたのは意外な言葉だった。


「俺が呼んでいたのは、結じゃないんだ。陵凪でもない。——奏斗だ」


 一瞬、時が止まったかのようだった。

 恭介は、あたしたちの間に流れている微妙な空気を感じ取っているのだろうか。

 あたしの友達はその変化を感じ取って、何かあったのかと訊いてきた。敏感な恭介が感じ取っていても何も不思議ではない。


「そして、これを見てくれ」


 あたしは、奏斗のことが別に嫌いになったわけじゃなかった。どちらかと言えば、好きの部類に入る。

 でも、あたしと奏斗の間に微妙な空気が流れているのは、偏にあたしのせいとも、奏斗のせいとも言い切れない。


 そんな思考の中に、恭介のスマホ画面に表示されたトークの一部が目に入った。

 そこに表示されていた一文に頭が真っ白になった。だって、そこには。


『ごめんなさい。今日は行けそうにない』


 あの日のサヤが言っていた言葉と、全く同じ文が表示されていたから。


 気づけば、体が動き出している。

 走る、走る、走る。真冬であるにもかかわらず、汗が滴り、息が切れ、暑いと感じる。それでも、止まれない。

 理性は戻ってきていて、気不味い奏斗に今あったところで何ができると叫んでいる。そのせいか何度も躓き、手をついて何度かこけていた。


 それでも止まることができないのは、もう会えないのかもしれないという事実から、理性を無に帰すような感情が溢れているからだろう。

 もう、何かを失うのは嫌だ。そう思って生きてきた。なのに、なのに。


「はあっ……はあっ……やっと、着いた……」


 目に前に見えているのは明日見という表札のかけられた家。

 しとしととではあるものの、雨が降っているのにもかかわらず傘を放り出して走ってきたせいで、服はびしょ濡れだった。

 水を吸って重い服を引きずるような気持ちで前に進み、インターホンを押す。


 ピンポンと、音が響き渡り、しばらくしても扉は一向に開かない。連打、連打、連打。何度押しても開かない扉を前に、頽れそうになる。

 もしかしたら、もう家を出てしまったのではないかという嫌な想像が脳裏を過り、首を振って振り払う。


「何で先に行っちゃうんだよ……はい、これ」


 恭介が愚痴を叩きつつも渡してきたのは、あたしのバッグだった。傘を差しながらきたのか、あまり雨には濡れていない。

 その中にはあるだろと言われて、何がだろうと一瞬戸惑う。この状況に関係があるもの……

 あっと思い至って、玄関の扉にそれを差し込んだ。


「開いた……」

「そりゃそうだろ……って、やっぱり家にいるんじゃねえか」


 家にいることが分かった瞬間、嬉しさとか、安心とか、そう言った感情で理性が吹き飛んでいった。

 毎日のように使った合鍵を投げ捨て、バッグも放り投げて階段を駆けて行く。


 バタンという大きな音と共にドアを開ければ、そこには普段通りの、でも何かを失ったような儚い表情をした奏斗がいて。

 あたしの涙腺は決壊して、拭っても拭っても目が腫れるだけ。

 それが何の涙だったか、と聞かれれば、確実に安堵からだろうと断言できる。


 涙が枯れるよりも前に、あたしは、まともに動かずひくひくと震えるだけの唇を無理やりに動かして、力が抜けて頽れながら。


「あたしを、置いて行かないでよ……」



 そう、心から懇願していた。

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