第16話 俺の過去

「ねえ、サヤは奏斗のこと大好きだから。殻に閉じこもるのはやめてよ」


 何の変哲もない金曜日の昼休み。わいわいと喧騒に満ち、教室は賑わい、外へは雨のせいで出られないが、遥か遠くに微かに晴れ間が見える。

 意識の外から声が掛けられ、ぼーっとする俺の意識を引き戻してくる。


「はあ。何でお前らはいるんだよ……」


 転校した。引っ越したりしたわけではないが、前の学校とは通学路が被らないような学校を選んだ。ここなら新しい生活を送れるはずだった。

 しかし、いずみさやはここにいる。少し離れたところからは成海莉紗と椎名恭介が遠慮がちにこちらを見ている。


「何でって。奏斗が転校するからじゃん。手続き大変だったんだから」


 机の上から身を乗り出して、萌え袖で訴えかけてくる彩芽をうざったく思いつつ、それは当たり前じゃねえよと至って当然の返しをする。

 こいつらは俺が転校したときに何故か一緒に付いて来た。わざわざ付いて来なくてもいいのに。


 莉紗と椎名はまだ常識を弁えている様子だったが、彩芽に至っては親が金持ちだからできたのだろうが、学区内に入るためにわざわざマンションの一部屋を借りたらしい。


「だから奏斗、前みたいに心を開いてよ!」


 むーっという可愛い擬音を出しそうな顔で、吐息がかかるくらいに近寄ってきて、さらさらとしたショートボブの髪が顔に当たる。

 高級な洗剤の香りのする髪はしかし、苛立ちの要因にしかならない。

 だって。


「俺は心を開くことはできない。もう結果が分かってるからさ」

「サヤたちがサポートするから。ね?」


 俺はもう、心を開けないんだ。

 怖い。そしてそれ以上に、もう何も信じることができなくなってしまった。少なくとも数か月は無理だ。


「サヤが大親友として奏斗をサポートするから! 逃げるの? 奏——」

「うるさいっ!」


 目をかっ開いていた。

 はっきり言って、怒っていた。最も言われたくない言葉を、ぶつけられたから。これだから人間は嫌いなんだ。

 泣きそうになっている彩芽を見ても、罪悪感など湧かない。これは彼女が生んだ状況だし、何より。


「お前を友達だなんて思ったことはねえよ! もう俺に付き纏うのはやめてくれ!」


 嘘だ。そんなの脳内では理解していた。

 彩芽はいつだって一番近くにいた。莉紗よりも、椎名よりももっと近くにいた。

 そんな彼女が友達でないはずがなかった。でも、それ以上に俺の最も触れられたくない部分に触れたことが、許せなかった。


「っ……」


 一言も発さない彩芽を不審に思い顔を上げると、無言で目から止め処なく涙を溢れさせていた。

 えぐっ、あぐっと呻き声をあげて、一言も発さずに走り去っていって。


 もう、会えないのか。もう、二度とも。

 葛藤、混乱、疑問、憤怒、悲哀、そして渦巻くそれらの感情を凌駕し、塗り潰すほどの焦燥。

 心臓の鼓動は嘗てないほどに速くなり、視界が揺れて、汗が滴って、涙が伝って。


「————はッ!」


 外から陽光は差し込んでいない。しとしとと雨が降り、暗い世界に秩序もなく、美しくもない音を奏でていく。

 それはあの日にとても似ていた。


 全身がびしょ濡れだ。これは全て汗だろうか。頬に伝う感触は涙か。心臓はバクバクと聞こえるほどに強く、速く打っている。


「夢か……久しぶりだな」


 昔は何度も見た夢だった。心を捨てきれていなかったからだろうか。心を捨ててからはこの夢を見なくなったんだよな。

 何となく家から出る気分になれず、携帯で文字を打ち込んでいく。


「ごめんなさい。今日は行けそうにない——と」


 そう打ち終え、送信して、無意識に過去を引きずっていると自覚した。

 だって、『ごめんなさい。今日は行けそうにない』それは、三年前のあの日の翌日、彩芽が学校に来なかったとき、先生が俺らに伝えた、彼女自身の言葉だったからだ。

 あの日以来、彩芽とは会っていない。顔を合わせぬまま、どこか遠くへと行ってしまった。



 だからきっと、俺も彼女と同じように、消えていくのだろう。

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