第五章 八月その40

僕とリューリが簡単な食事を終え、カフェオレを飲んでいたとき。


玄関で戸を叩く音がした。


「ひょっとしてこの家、インターホンないの?」


リューリが半ば呆れながら言う。


「あるけど、ここに越してきてからは一度も仕事してないね」


「つまり故障してるのね」


「僕の家では訪ねる者には常に扉が開いているのさ」


「それ、ただの無用心」


「…そろそろ君のお母さんが来る時間…じゃないかな?」


「そうね。私も行くわ」


二人で玄関を開ける。


風除室には女性が一人。


黒みがかったくすんだ金髪。


瞳は澄んだ空の色。


身長はそれほど高くはないが、細身のせいで高く見える。


暖かい、優しい眼差し。


一目でリューリのお母さんだと理解した。


「…ママ」


「リリーちゃん」


リューリのお母さんが優しくリューリを呼ぶ。


リリーというのは愛称だろうか?


リューリが駆け寄り、お母さんと抱擁を交わす。


「ごめんなさい」


「…こちらはいいのよ。あなたの心と身体が心配だわ」


リューリのお母さんが僕に目を向け、お辞儀をする。


「あなたが ワヘイくん?」


…酷い間違えかただ。


「…もりしまよ。もりしま、わへい」


いや、それも違う。…かずひらだが。


「リリーちゃん、私にきちんと紹介してくれる?」


“きちんと”というところがポイントなのだろう。


「…もりしま わへい君。いま、お付き合いしてるの」


「娘がお世話になりました」


「いえ。本当に僕は何もしてなくて。今日も母の力を借りました」


「お母さん、シノブさんね。施設でお会いするから存じていたのよ。そらに、ショーコさんもね。とても面白い方だったわ。今度三人で女子会するの。楽しみだわ」


果たして“女子”と呼べる年齢かは不明だが、三人意気投合したようだった。


「リリー、帰りますよ」


「…うん」


リューリがキッチンから荷物を取ってきて靴を履く。


「…わへい。今日は本当にありがとう。また、ね」


「うん、また」


別れがたい。


もう少し一緒にいたい。


そんな事を、彼女も考えたのだろうか。


彼女の視線を唇に感じる。


リューリは…きっと別れ際、キスしたいのだろうと予想する。


さすがにお母さんの前ではやらないみたいだけど。


「モリソバくん、今度良かったらうちに来なさい。リリー、先に車に行ってるわね」


何かを察してリューリのお母さんが言い、外に出ていく。


風除室の扉が閉まるとリューリが僕に抱き付き、唇を重ねる。


…今度はソフトに。触れるだけのキス。


「ありがとう。また連絡する」


「うん。ミックスダブルスの練習も行きたい」


「ハナ達との対戦もあるわ。負けられない」


「君のパートナーに相応しいように練習するよ」


「…」


リューリはきっと、もっと話したいことがあるのだろう。


何かを言いたそうだったが、それを言葉に出来ないみたいだった。


それは僕もそうだったけど。


もどかしい。


だからもう一度唇を重ねた。


「それじゃ…」


ぱたん、と扉が閉まる。


僕は家に一人残される。


さっきまであんなに賑やかだったのに。


静けさに包まれる。


いつもと同じ。


親父が帰ってくるまで一人。


いつもと同じなのに、何故かとても寂しい気持ちになる。


長い、長い一日だった。


変化の多い夏だった。


その変化を自分の行動によって起こせた事が、後の僕にも変化を与えていく。


夏が過ぎていく。


たった一度の高校一年生の夏が。

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