第4章その5 子供を雇った青年と新人の初仕事
その真剣さに囚われているうちに、数時間前に見たあの変な景色が目に入った。そして数時間前に聞いたインターフォンの音が耳に残る。全てが同じ景色だったはずが、目に飛び込んだ数時間前よりも遥かに疲れ切っている表情のデザイナーだけは違っていた。
「あなたにしか分からない真実を、聞かせてくれませんか。」
そう口にする所長の表情も、数時間前とは異なっていた。
「私にしか分からない、真実?」
「私の仮説に、真実の色を重ねてはくれませんか?」
私、という余所行きのような一人称を使う所長の表情はどこか複雑だった。さっき見た真剣な表情に入り混じった感情の中の1つでもない、また違った感情に私まで複雑な顔になってしまった。
「既に確信を持っている事は、あなたが脚本家の言葉の上で踊る俳優である事とその脚本家の正体です。ただ中身には確信がない。そこであなたの、真実を彩る色が必要になるわけです。」
「真実の色ねぇ、そんなものあいにく持ち合わせていないわ。」
「そこにいて、私の言葉を正してくれれば。それを、真実を彩る色と私は大げさに呼んでいるだけです。」
そう呟いたと思えば、さっき耳にした独り言をつらつらと呟いていた。俳優がいて、脚本家がいるという話。その脚本家の名前もきちんと口にした上で。
「ここまでの話の中で、付け加える点はないんですか、脚本家である妹さん?」
「いっ、妹?」
さすがに口に出してしまった。しかも初めて出すような大きな声を。
「数時間前の人間は確かに杏沙舞子だった。でも今の人間は違う、同じ杏沙でも杏沙(あずさ)唯子(ゆいこ)だ。表情が明らかに違う事に気づいていただろ、お前も?」
「確かに数時間前に比べたら疲れ切っているなと違う景色のように見ていましたが、別人だとは思いませんでした。」
「そう見ていたのなら上出来だ、普通の人間ならきっと気づいていない、お前の言葉で言う景色の違いだからな。」
「――――あの、訳の分からない話はやめていただけますか。」
「と言うと?」
「今までの話全部です。私が妹の唯子である話も、事件の脚本家である話も。全てはあなたの頭の中にあった推論を並べただけでしょう?それで私が妹であると断定するなんて、おかしいでは済まない話です。」
「じゃあなぜ自分の想定外だった言葉を口にした翔子を見て拒まなかった?」
「っ」
「姉から聞いていた、変な女の子がいると。でもそれを忘れて拒まなかった私は馬鹿だ、そう顔に書いてある。」
「顔に書いてあるなんて比喩、初めて聞きましたわ。」
「ほら、その口調もどこかおかしい。似せるならちゃんと全てにおいて細心の注意を払って似せなければ、俺達は騙せない。ここには些細な変化を違和感と認める翔子がいる。」
「些細な変化など、どこにもないじゃない。」
―――目の前にいる人物の遥かに疲れ切った表情が更に歪む、これ以上は指摘しないでくれ、と言わんばかりに。
「確かに数時間前に比べたら疲れ切っているなと違う景色のように見ていました。そう言っただろう、ここにいる新人探偵が。」
「それが、些細な変化ですって?それを些細な変化としてくくるなんて、あまりにも陳腐な言葉選びだとは思わないんです?運動をしてきた、とか別の考え事をしていた、とかそういう選択肢はないの?」
「違う景色、それはすくってくれないのですか?」
割って入ってはいけない空気の中にすっと入り込み、その神聖な空気を言葉で濁してしまった。その時の目の前にいた人が向けた怪訝そうな表情と視線はきっと一生忘れない事だろう。次の言葉を出すことを躊躇うほどには恐ろしかった。そして「答える必要はありません、大丈夫です……。」と小さく口にし、訂正できない事は頭の中で嫌というほど理解しているものの訂正を要求するほどである。ただ、そこで小さく隣の人も何かを口にしたのが聞こえた。
「―――――――――――」
「何かおっしゃいまして?」
「あぁ、切り札を出すしかないか、と口にしたまでです。そう、あなたの記憶に新たな記憶が吸収されたとしても焼き付いて離れない記憶、あなたの婚約者が殺害された事件の事です。」
「―――――――――――だから、あなたの顔に覚えがあったのね。」
と呟いたかと思えば、すぐに顔をそらし、「っ!」と言葉を詰まらせていた。
「事件って、なんですか?」
「あぁ、まあいい機会だ。この事件を整理するためにも一度その事件を引っ張りだすか。」
少し間を置き、静かに所長は目の前にいる人の婚約者さんという人が殺された事件を淡々と、しかしいつも以上に凛とした澄んだ声で朗読するかのように語ってくれた。
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