第4章その3 子供を雇った青年と新人の初仕事

慣れるまではゆっくりでいい。とにかく行くぞ。」

「あ、待ってください早いです。」

人と並んで歩くなど、久しぶりだ。お兄さんは小さな私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれていたが、所長は自分のスピードでずんずん歩いていく。生物が生きていく上での厳しさを初めて実感してしまった。そんな事をしみじみと実感していたら、私はむしろ走らなければ追いつけないスピードに戸惑ってしまったが、段々と追い越してやるという闘志を燃やし始めた。……まあ走って追いついてもその分距離を話されてしまうのだが。仲間がどんどん食べられてしまう食パンは、こんなにも寂しい想いを抱えながら日々生きているのだろうか。

と、


どんっ。

「あ、痛い。」

「もしかして、早かったか?」

「確かに追いつけないほどでしたが、急に止まられるよりは早い方が数倍ましです。」

「それはすまなかった。ただ早かったのなら、お前の歩幅に合わせて進むよ。」

ろくに学校に通っていない、ほぼ監禁された中で過ごしてきた、そして事件で足を刺され怪我を負った私の歩くスピードはかなり遅い。先程走った、と言ったのだが周りから見ればきっとあれはただ普通に歩いているようにしか見えないスピードだろう。のっそのっそと一生懸命足を引きずりながら走るその姿を傍から見た者は、きっとただ笑うことしかできないのだろう。

「随分、無理させたな。すまん。」

「所長はどうして謝るのですか、私にごめんなさいと謝ることを辞めろと言っておきながら?」

「いやそれはだな――、」

「いいのです。私が外を歩くのは初めてですし、歩くことに慣れていないので、いつもは座っていることが多いです。それに、傷が残っている足が見えないよう、ズボンをはいています。気がつかず、いつも通りのスピードで歩くのが当然です。だから、」

「だから?」

「普段の生活で見抜けなかったなど探偵失格だ、と沈まないでください。」

「うっ。」

「所長も案外顔に出やすいタイプですね。」

「……。」

「いいですか、私は可哀想な人間、ではありませんから。」

「ああ、肝に銘じておくが、外で説教するのはあまりよろしくないぞ。」

「あ」

途中から外にいたことを忘れていた。道のど真ん中でこんな説教をしていてはただ笑いものになるだけだ。まあ、笑いものというよりきっと物にしてしまえば注射よりも痛い視線を向けられていた。

「説教タイムは一旦ストップだ、ターゲットの家まで歩こう。もうすぐ着く。」

「もうすぐ、ですか。」

「ああ、お前の歩幅でも2分で着くほどだ。ほら、すぐだろ?」

確かに。そして本当に2分で着いてしまった。そのせいで私の歩くスピードを一瞬で判断し、距離と照合し、2分で着くと算出したそのスピードに感銘を受けてしまったではないか。まあ、所長だしいいか。

どこから見ても高級なマンションのように見える建物の中にずんずん入っていく(ずんずん、とは言ったが私の歩幅では全くずんずんではない)。ただその形は普通なのだが半分ずつ違う配色になっているので心が落ち着かない。向かって左側は金色を基調とした高級感漂うが眩しい配色だ。反対側はちなみに空のように透き通った水色を基調とした目に優しい配色。エレベーターも半分ずつ金と水色に塗られているので、目も心も落ち着かない。できれば落ち着く水色側にターゲットと所長が呼んだ人の部屋があってほしい。


ぴーん。


エレベーターがターゲットのいる階についたことを知らせてくれた。幸い水色側に部屋があったのだが、境目の近くなので金色も目に入る。この配色を考えたデザイナーさんは何を考えているのだろうか。

「ちなみに今回のターゲットはこのマンションのデザイナーだ。今考えた事は絶対に口にするなよ。」

「ばれていたんですか。」

「ただ口に出ていただけだ。」

「!」

「慌てて口を隠しても無駄だ。……ほら、着いたぞ。」

綺麗な字で杏沙(あずさ)、と書かれた表札に感動してしまった。こんなにも綺麗な字を書く人は本当に殺人犯なのだろうか。

ぴんぽーん。通路に響いた音はすぐにドアが開く音にかき消された。

「明石から話は聞いています。」

「あぁ、あなたが栗花落(つゆり)さんですか。明石さんから話は聞いています、お連れの方もどうぞ。」

と通された先の部屋は意外にも白かった。部屋の中まで変な配色だったらどうしようと考えていた私にとっては嬉しい発見だった。やっと落ち着ける。――いや、それよりも所長の名字、初めて聞いた。私が自己紹介をした時はなぜか名前を教えてくれなかったから。

「改めまして、私が写真とメッセージを送らせていただきました、杏沙舞子です。ふふ、想像通りの見た目ではないでしょう?」

「それはどういう意味で?」

「あら、あんなにも惨い写真を平気で送りつける人間だから、薄汚い部屋にこもりっきりの身だしなみにも気を遣わない女性だと思っていたのではないの?」

「残念ながら。このマンションを検索した時からその予想は崩れ去っていましたよ。」

「案外遊べない人間なのね、栗花落さんって。残念だわ。」

「遊べる人間だったら?」

「あら、もしかして遊んであげようと思った、って言うと思っているの?」

「きっとその遊ぶは殺し合いという意味での遊ぶだと認識していますけどね。」

「本当に釣れない堅物ね、全然楽しくない。」

殺し合い、殺し合いと確かに所長は口にした。それが真実だとするならば私はどうにかして止めなければならない。でも、止め方はわからないし、まず血を見るなどあの時を思い出してしまうから無理だ。では、ここにいる私はどうすればいいのだろう。所長が危ない目に遭う現場など、世界で一番居合わせたくない。そう考えている間にも話がどんどん進んでいく。私がこの場の会話を止めるために出来ることは、出来る、こと。―――何もない気がしてならない。いや、諦めてはいけない。まずは別の話を切り出すんだ。

「人を殺してはいけない、とよくドラマの主人公の方は語っていました。そしてその後に必ず付け足すんです、殺す以外の道を考えろと。」

「い、いきなり喋り出して何?」

「すみません、この場の空気を変えたくて勝手に話を切り替えさせて頂きました。」

なんだか饒舌になってしまう。こんな感覚は久しぶりだ。すーはーっ、少し息を整えもう一度同じ言葉を言ってみる。

「人を殺してはいけない、とよくドラマの主人公の方は語っていました。そしてその後に必ず付け足すんです、殺す以外の道を考えろと。」

「だから何?」

「私はよく思います、なぜ人を殺す以外の道を考えなければならないのか、と。」

「そりゃ人を殺した時点で捕まるからね。」

「そんな事は知っています。でも、人を殺したら捕まるなんて、誰が何のために決めたんでしょう。私にとっては凄く不思議な法律です。」

気がつくと、私の口からは意思とは反するほど長く、回りくどい言葉が紡がれていた。気持ち悪い、と自分の言葉の長さに反論したいと思ったのだが、その言葉自体は妙に気持ちよく、自分で自分を止める気にはどうしてもなれなかった。

「人を殺さなければ生きられない社会もあります。そこでは、人殺しは正義です。たとえ法律がノーと言っても、正義であり続けるのです。正義って恐ろしいですよね、全てを正しいものに変えてしまうのですから。気持ち悪いです。でも、正義は時に素晴らしいものを生みだします。私は、人を殺すことが正義とされる世界で、人殺しを正義だと認めたくはありません。そう口にすれば殺されると分かっていても、絶対に正義であると書かれた札に対してはい、と面と向かって言うことは出来ません。頭の中で、生きるための殺しであることはわかっていても、私ははいとは絶対に口にしません。なぜって、殺してしまえばその時点で明るい未来も暗い未来も全て閉ざされるからです。その二人の関係の中に、ほんの米粒みたいな奇跡が残っていたとしても、殺してしまえば米粒は全て闇に飲み込まれておしまいです。誰も口にすることも、見ることもできない。そのお米の正体は闇のみぞ知る。闇に光が負けるなんて、私は嫌です。闇に光が負けてしまうのが常なら、奇跡なんて望んでも無駄じゃないですか。闇に光が負けてしまうなんて、絶対に嫌だ。だから、私は殺す以外の道を考えろという言葉が不思議です。殺しという道がある、それが前提になっている。そう、それは闇が光に負けてしまう未来を認めているように見えてしまう。法律にわざわざ示すなんて、みんな光が闇に負けることがある、という例外を認めているのと同じじゃないですか。じゃあ、どうしてヒーローショーで必ず悪役は負けてしまうのですか?」

「そ、それが当たり前の結末だからよ。悪が勝ってしまったら、子どもたちが悲しむじゃない。」

「当たり前、って何ですか?当たり前ってどの世界でも当たり前とは限らない、日本限定の当たり前でも皆さん絶対に常識、とか当たり前、とかシールをぺたぺた貼り続けますよね。あまりにも狭い世界の当たり前なのに、当たり前です、常識です、というシールは量産され、貼られた言葉だけが増えていく。気持ち悪い以外の何物でもないです。当たり前、という言葉だけに縛られて、他の可能性を全て否定しようとしているのではありませんか?先ほどの闇と光の話と同じです。光が勝つ可能性を残している当たり前のシールが貼られた言葉もあるはずなのに、大人がどんどんシールを無造作に貼っていくから、また闇が光に勝ってしまった。ヒーローは悪に勝つのに、大人は闇に勝てない。……大人って、そんなにも汚い存在なのですね。私が先にきれいな大人と出会ってしまったばっかりに、がっかりしました。」

「がっかりってどういう事よ!それに、小さい子からのお説教に説得力なんて絶対にないのにまだ続ける気?いい加減うんざりしてきたんだけど。」

「ほら、またそうやって闇にまぎれた光と出会えるチャンスを自ら闇で消そうとしている。正論を口にするために、年齢が関係あるというのですか?正論は、大人しか口にしてはいけない決まりなど、どこにあるのか教えてほしいです。」

「経験が違うのよ。大体何?子供のくせに変に大人ぶった、どこかの受け売りのような台詞吐いて。何様のつもりなの?私とあなたじゃ育ちが違います、なんてどこかで覚えたセリフを言い続けて語ってるつもりなの?馬鹿みたい。」

私が分からない事を聞けば、必ず考えるフリを、いやきちんと考えた上で答えを出してくれた所長とは違う、独特な信頼してはいけないと空気が伝えてくれているような雰囲気は何だろう。言葉にできない私という存在がもどかしい。でも、言わなきゃ。これは台詞なんかじゃない、私が私から作り出した言葉そのものなのだと伝えなきゃ。

「私は本気です。お芝居のように全て覚えたセリフを語っているわけじゃない。」

「…………そこまでにしとけ、翔子。」

温かい手が、手自体の温もりと心の底からくる人間味という名の温かさが目を覆った。妙な安心感で私はその場に座り込んでしまった。危うく気絶しかけた事も認める。

「確かにこいつとお前の育った環境はまるっきり違うだろうな。こいつの独特の感性は、育った環境が生みだしたものだ。でもな、」

その心の底から溢れ出す強さは、今まで私の前で見せていた表情とまるで異なっていた。そして安心からか、腰の抜けた私にその後の言葉は届かなかった。

「―――っ」

ただ、その女性が顔を歪ませて「あなたは出て行って」と呟いたのを見て、少しだけ察することが出来た。

……この人は、私に味方した言葉をかけてくれたのだ、と。その少しだけ照れた、隠しきれない赤く染まった頬が私の目にはやけに可愛らしく映る。

可愛いです、と素直に伝えたなら、所長は私の事をどう思うのだろう。


開けてはならない空気の漂う扉を超え、女性のヒステリックな怒声が聞こえてくる。私にぶつけるべき怒声を全て所長が吸収している事実になんだか申し訳なさを感じる。しばらく経って少しばかり静かになったように見えたが、なかなか話は終わらない。ドアを蹴破るほどに強い言葉はいつの間にか玄関のドアや、あの女性の部屋の前にあるドアに跳ね返されているようで、何も聞こえない静かな環境へと変わっていった。騒ぐ声も、諭す声も、何一つ聞こえない。そこに聞こえるのはエレベーターの音と、他の住人の足音だけだ。


ただの沈黙。また沈黙。ずっと見ているには眩しすぎるその外装だけが沈黙の寂しさを紛らわせてくれている。


出て行けと言われたからここで待機しているわけだが、その申し訳なさはやがて涙となって表れた。

いや、これは申し訳ないという気持ちなのだろうか。それすらも分からない。ただ、「ごめんなさい」と口にしたくなるそんな悲しい気持ち。数々のドラマでキャラクター達が「ごめんなさい」と語っている時、必ず涙のようなものと歪んだ顔が見えている。鏡はないが、私の顔も今ひどく歪んでいる事だろう。そして、涙が頬の温度を下げている感覚もある。

「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめん、なさい。」

あなたの言葉には感情がないのよ、そんな事を昔言われたことがある。このごめんなさいにも、自分の中に生まれた感情を含める事は出来ていないのだろうか。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――」


涙だけが床を濡らしている。

自分の中にあるこの悲しい気持ちと共に床を濡らしているなどとはどうしても思えない。

それでも、私の言葉を私の心が「やめなさい」、と制止する事は叶わない。



がちゃ。



疲れ切っているはずなのにその様子を全く見せようとしないかなりの時間が経過したように思えたタイミングで出てきた所長の姿にまた涙が滲んでしまった。様子を全く見せないとは言ったが、私から顔をそらした瞬間のひどく疲れたような顔が、今の時間に起こった事の重大さを物語っている。それに、来た時はボタン全開で着ていた黒いコートが今は数多の言葉を吸収したことで冷え切った所長の体を温めるかのように、ボタンは全て閉じられ、体に密着している。泣くのは事務所に帰ってからだ。この変な色あいでも見て我慢しろ、そう呟いた所長の背中に必死についていった。

涙は事務所に帰ってからもなかなか引っ込むことを知らなかった。そして、遂に言葉として表れた。

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