第4章その1 子供を雇った青年と新人の初仕事

時々自分が分らなくなってしまうことがある。


その自分は、いったい「誰」を名乗るのだろうか。

最早自分ではないのではないか、そう錯覚してしまうことの方が日に日に多くなっている。自分自身が恐ろしい化物のように思えてくる。


兄は、いつからか私の事を化物だと敬遠し始めた。それが私にとっては全ての始まりで、同時に全ての終わりだった。終焉の世界はなんて真っ黒な世界なのだろうか、と思う事しかできなかった。

ほら、見てお兄。こんなに背が伸びたんだよ。こんなに漢字を覚えたんだよ。こんなに、


沢山の人になれるようになったよ。


私ではない誰かがそう呟いた。口角が不自然に上がっている。しかも無意識のうちに、だ。誰だ、この私はいったい誰だ。…………そうか、やっぱりお前も私を「化物」だと笑いに来たのか。兄のように、信頼していたたった一人の家族と同じように、私を「化物」と呼ぶのか。

もう、笑うしかない。

私は、笑う術しか持ち合わせていないのかもしれない。

本物の私は、もう笑う事しかできない。

泣くことも、真顔でいることも、怒ることも、何かに真剣になることも、言葉を発する事さえ許されない存在となってしまった。なんだなんだ、目をそらしていただけなのかもしれない。私は、信じたくなかっただけなのかもしれない。



「私」は既に化物だったのだという事実を。



初仕事だ、と言われたのだが、仕事はその日に与えられず、翌日に与えられることになった。長旅の影響もあり、私が眠そうにしていたことも影響しているのだろう。ただ、今まで寝るという行為を十分に楽しむことが出来ていなかった私にとっては、至福の時であったし、何より翌日でよかったと思えた。


代わりに、恐ろしい夢を見た。

自分自身を、恐ろしい化物だと扱う人物がそこにいた。黒い影で覆われていて、性別すらわからなかった。声も女性と男性の声が入り混じっていた。自分の事を化物だと認めたその影は、なぜか不敵に微笑んでいた。笑うことで、化物であることを承認するかのように。濁った水のような空気に私は吐き気を覚え、気がつくと吐いていた。それでもまだ気分が悪い。その夢は、本当に夢なのだろうか、そんな疑問まで浮かんでしまっている。消えてくれ、私までも食い殺さないでくれ。そう願うことしか、私にはできなかった。


……ただ、何をしても気分が晴れない。今日から働かなければ、私を助けてくれる人などこの世に存在しなくなってしまう。羽毛布団でくるまれたような温かさを、あの人はくれた。その優しさを、今まで感じることなど許されなかった羽毛布団の優しさを、私は受け入れる権利を有している。それだけが、今ここにいる偽りのない自分の誇りだ。その温もりで自由を奪う姿はこたつともそっくりだが、羽毛布団はまだ自力で動かせるため、支配権はくるまれている自分の方にある。ただその支配権を無意識に感じられないような魔法を優しさという名でかける恐ろしい生き物であることを、私は忘れてはならないと思う。……まあ、この場における支配権は向こうにあるから、あの人の優しさはむしろこたつの温もり、と表現するほかない気がしてならない。こたつに入ったことはないけど、ね。


「うぉ、起きてるなら声かけろよな。」

こたつが目の前に立っている。寝起きなのか、昨日感じたガラの悪さはぼさぼさの髪の毛のせいでニート、という印象に食われている。

「変な、夢を見てしまって……。」

「ま、環境がいきなり変わったわけだし、体が無理したんじゃねぇの?慣れたらそんな夢見なくなるから、安心しろ。」

「ニートさんが言う言葉なんて安心できません。」

「は?……まあ寝起きだから昨日の印象とは違うかもしれねぇけど、俺は俺だ。昨日の俺の言葉をきちんと受け入れてるんなら、この姿の俺の言葉も信じてくれ。俺は、どの時間帯だって俺であることに変わりはねぇ。」

「俺であることに変わりはねぇ、ですか。……夢に出てきた人とは真逆の事をおっしゃるのですね。まあ、夢の主はあなたではありませんでしたけど。」

「嫌味なのか素直に出た言葉なのか分かんねぇから恐ろしいな。」

「考え抜いて素直に出した言葉です。」

「それは素直とは言わねぇよ。」

「じゃあ、素直に出た言葉ってどういうものの事を言うのですか?」

どうもものすごく考え抜いているようだった。目の奥にある優しさが、その真剣な表情に食われた瞬間を、私はこの先も忘れない事だろう。お前のために、俺は真剣なんだ、そう語られているようで少し気恥ずかしかったのも事実だけど。

「素直、は考え抜かない。考え抜いた時点でそれは素直な言葉とは言わねぇ。だからお前の言葉は素直、とは言わないんだよ。……これでどうだ。」

「なるほど、勉強になりました。」

「ならさっさと仕事するぞ。記念すべき初仕事だ、しっかりやれよ。」

ぽすっ、と頭の上を叩かれた。どうも今回の仕事の資料らしい。

「おい、こいつが今回の依頼を片付ける新入りだ。ちゃんと挨拶しろ。」

資料を頭の上に載せ、そそくさと立ち去ったこたつの先にいたのは、見知らぬ男性だった。背がものすごく高い。そのせいで威圧感がすごい。その威圧感に私は足がすくんでしまった。

「あ!この子が噂の新入りちゃんですか?いや想像よりもずっと可愛いじゃないですか。いやぁ、良かった良かった!貴さんが子供を雇ったっていうから心配したけど、心配いらなかったみたいですね。」

「何の心配だ、それに俺が誰かを雇って何が悪い。」

「だって貴さん、誰も雇おうとしなかったじゃないですか。一人で大丈夫なんですか?って聞いたらいつも大丈夫、俺は一人がいい、って強がるし。」

長い年月をかけて作り上げてきたであろうその空気は、私に入り込む隙を与えてはくれなかった。

「将也、お前用がないなら事件資料だけ置いて帰れ。」

「いや、いやいや待ってくださいよ!自己紹介だけでもさせてくださいって!」

と言うと、私の方をぱっと向いて、いきなり手をとって握手をしてきた。ここまで強引だと反応に困ってしまうものだ。

「ぼくは明石将也!気軽にマサさんって呼んでくれていいんだぜ?」

ぱんっ。

「ごちゃごちゃうるさい、戸惑ってるだろうが。」

「あ、ごめんごめん。人間嫌いな貴さんが人を雇うなんて珍しいから、つい興奮しちゃって。……痛かった?」

「いえ、大丈夫、です。」

人間嫌い、その言葉だけが深く刻まれる。何も知らないまま突撃してしまった自分を怒るべきなのか否か、いや何も知らないまま来た自分を受け入れてくれた所長にここは感謝すべきなのだろうか。どっちだ?どっちが正しい選択なのだろう?

「ほら、さっさと事件資料置いて帰れ。」

新しく来た人は、しっし、とされている手を必死に止めていた。

「待ってくださいって!せめて資料の説明だけでも!それと、この子ともっと喋りたいです!」

「おい勝手に手を取るな、翔子が怖がってる。」

「翔子ちゃん……なんて素敵な名前なんだ!翔子ちゃんって呼んでもいい?」

ああ、こうして畳みかけてくるタイプはあの悪魔を思い出すからどうも苦手だ。

「その手を離したら、事件概要を語る事だけは許可する。」

ぱっ。しぶしぶではあったが、やっと両手の自由を取り戻した。あぁ、少しだけべたべたするのが気になる。

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