第3章その2 私のノンフィクションこそ世界のフィクションで

こうして、私の人生第二章が始まったのである。

第二章、なんて響きは少しだけ恥ずかしい。いや、今までの人生がなきものになりそうで嫌だったのだが、目の前にふんぞり返っている人(一応所長なのだそうだ)がそう言い始めたから、そう名付ける事にする。

「ま、その事件はいったんお預けにしたいんだが、いくつか個人的興味として聞いておきたいことがある。」

「個人的興味、ですか?単なる興味、ではなく?」

「個人的興味、って言った方がかっこいいだろ?」

俺はいつだってかっこいい言葉を使いたいんだ、と言わんばかりに満足そうな表情をしている。扱いやすいのか、扱いにくいのか、難しい人間だ。先ほど感じた照れ隠しと温かい空気は一瞬にして消え去り、初めて感じる複雑な空気だけを身にまとっていた。その複雑な空気に入り込める質問の仕方は、どのようにすればいいのだろう。とりあえず、

「………あの、聞きたいこととは?」

ストレートに聞いてみた。

「ん、ああそうだそうだ。気になることは三つ。一つ、お前の両親が殺害された場所はしっているか?」

「……いえ、何も。事件に関して警察の人は何も教えてくれませんでした。」

「予想通りだ。」

「予想通り?」

「ああ、この事件に関してはあまりに情報が少なすぎる。凶器の情報も、どこで殺されたのかも、死因も、はたまた真犯人の像すら確立されていない。お前が見ていたお兄さんが必死に集めていた情報も、ネット上で囁かれている憶測ばかりだ、信憑性に欠ける。警察の捜査意欲は皆無に等しい。捜査意欲が感じられない事件は最近になって急増しているが、こんな未解決事件はかなり珍しいケースだ。」

「……警察の人とは、かなり冷たいのですね。冷凍庫でキンキンに冷やされたアイスクリームみたい。でも味は全然なくて、美味しくない。」

「美味しくない、アイス?」

「あ、え、あ、あの……、お兄さんの表現の仕方が、うつってしまって。」

お兄さんは、自分が感じたことを全て物を使って表現していた。人の気持ちも、風景も、何もかも。例えば喧嘩に巻き込まれている少年を助けている人を見た時は、「見てごらん、あの人がまとう空気は、まるで焚火のように熱い。焚火のように触れなくて、周りの人物にも温かさが伝わる。それは彼の心という枠内にとどまっているから、熱くても誰も文句を言わない。ただ、触れてしまうと大やけどを負って立ち直れなくなるんだ。」と。不思議な表現の仕方だろう、と誰もが思うに違いない。しかし私にとってはそれが心地よくて、自分の中に溢れる思いを言葉にする唯一の正しい方法となったのである。

ただ、普通の人にはあまり理解してもらえないから隠しているのだが、思わず口にしてしまった。この人の前では、なぜか本音ばかりが漏れてしまう。隠そうとしても、厚手のコートを何枚も何枚も重ねて隠そうとしても全て見透かされてしまう。恐ろしい人間だと思う。

「………ふっ、面白いな。もっと聞かせてくれよ。」

予想外の答えに少し戸惑ってしまった。でも、それだけ、嬉しかった。私を認めてくれたのだと思えたから。

「そんな美味しくないアイスのようにただ冷たいだけの警察は、お前の捜査依頼も無視したってわけか。まああまり歓迎されていない事件みたいだし、その反応は当たり前かもな。ま、俺は然るべき時が来たら、解決してやるよ。」

「それは、約束ですか?」

「ああ、約束だ。約束してやるから、二つ目の質問な。犯人は全員、男だったか?」

「一人、何も喋らない人がいたと思います。その人は、わかりません。でも、あとの二人は男性です。それに、マスクで髪の毛も顔も全部覆っていたので……。」

「顔はわからない、か。わかった。じゃあ三つ目だ。犯人から感じた印象を、お前が表現しやすいように語ってくれ。俺は黙って聞くから思う存分話してくれ。」

「印象、というと?」

「空気がどうとか、さっき言っていたみたいなアイスみたいだとか、そういう事だ。お前が思ったことを全て話してくれ。」

「でも、私は、その。」

「俺の前じゃ、本音が漏れるんじゃないのか?」

図星だった。なぜ、この人はそこまでわかってしまうのだろうか。人の心が読めるなど、アニメの世界でしか知らない事実だ。

「まあ、いいや。とりあえず、お前の心にたまったもの、全て吐き出してくれ。」

息を吐く。そして息を吸う。深呼吸をしなければ、私はこの人を恐ろしい人間だと認識したままになってしまう。そして、何も話せなくなってしまうから。すう、はあ。三度繰り返して、話し始める。

「従者二人からは、明らかな殺意というか、なんだか冷たいものを感じました。冷たくて、触れたら指が切れてしまいそいな程鋭利な刃物みたい。血の匂いもする。その孤独な背中はまるで冷蔵庫の中にいた人間をそのまま引っ張り出してきたみたいに冷たかった。でも、でも兄貴って呼ばれていた人は違った。血の匂いがしなくて、むしろ塩の匂いがした。涙のしょっぱさ、みたいな塩の匂い。まとっていたのはむしろ黒くて、後悔っていうのかな、黒くて誰にも拭えない色。どこを見ても真っ黒な絵みたいで、でもブラックホールみたいに吸い込まれそうな恐怖感はない。むしろ、絵のようにそこだけでとどまって、その先は分厚い壁。何度ぶつかっても壊れないくらいの分厚さ、でした。……終わり、です。」

「よくわかった。つまり、明確な殺意を抱いていたのはお前が言う従者二人なんだな。」

「そう、です。」

分りにくいからやめなさい、と悪魔や学校の先生は言った。強制的に直され、私の個性だと思っていた表現は、私の生体からは消え去ろうとしていた。心の中だけで紡がれる、特別な表現に変化していく度、私がどんどん崩れ去っていくのを実感した。この世に生を受けた鮎沢翔子という人物が、お兄さんの手によって明らかにされたはずなのに、それを悪魔たちは一気に壊し始めた。なんて残酷な、人間なのだろう。だからこそ、私はこの人を信頼したいと心のどこかで思い始めていたのかもしれない。

(初対面なのに、どうして……?)

その安心感は、別人のはずなのに、どこかお兄さんに似ていた。

「ま、まだ解決に動き出す気はないがな。どうしても気になっていたから聞いただけだ。」

「それでも、嬉しいからいいです。」

「そうか。ならいい。」

少しだけ、笑ってくれた。その優しい顔を、もっと見たいと思ってしまった。しかしすぐに真面目な顔に戻ってしまった。

「お前、今どこに住んでる?」

「突然話が変わると戸惑うのですが。」

「話は変わるが、なんていちいち言ってられるか。どうだっていいんだよ。とにかく、どこに住んでるのかっていう質問に答えろ。」

「住む場所は、決めて、いませんけど。今日初めて辿り着きましたし……。」

「あ?今日辿り着いたって?お前、俺に出会っていなかったらどうするつもりだったんだ?」

「野宿、というものを経験するつもり、でしたけど、何か問題ですか?」

「あたりめえだ。お前が住んでいた場所があの事件があった場所と同じなら、こことは雲泥の差だろう。ここら辺はやくざのたまり場だ、女の子を外にほったらかすわけにはいかねえ。」

「それは、優しさですか?」

「………あ?」

「優しさ、でそうしてくれているのですか?」

「連呼しなくていい。当たり前の行動だ。」

当たり前、と確かにこの人は言った。初対面の人間にどこに住むつもりかを尋ねて、野宿はダメだと叱責することを、人は当たり前の行動だと呼ぶのだろうか。少なくとも私が今まで出会ってきた人物の中ではいなかったはずだ。……まあ、お兄さんを除いて、だが。これを優しさと呼ばずして何と呼べばいいのだろうか。そう悩んでしまう。

「……あのなぁ、黙られると対応に困るんだが。」

「………すみません、このように優しくされる経験は初めてだったもので、どのように答えるべきなのか分からなくなってしまいまして。」

「普通にありがとうございます、でいいんだよ。それ以上の言葉なんて求めちゃいねぇ。」

「そうですか。……ありがとう、ございます。」

所長がふっと笑って煙草を取り出し、火をつけた。ドラマでダンディーな役者さんがよくやっていた仕草と同じだ。しかし、体に害を及ぼすからやめろ、とその人は部下に怒られていたような。私も同じことをしなければ。

「喫煙は今すぐにやめるべきです。死ぬのが、怖くないんですか?」

「死ぬのは怖くねぇよ。ただ、」

「ただ?」

「親父を思い出させてくれるから、煙草はやめたくねぇんだ。」

「いつまで親離れしないつもりなのですか?大人なら、一人で強く生きていくべきです。親に頼らず、一人で。」

その瞬間、強烈なデコピンをされた。

「いたい……。」

「そんな事、ガキに言われずとも分かってんだから、いちいち言わなくていい。」

「分かっているなら、さっさと体に害を及ぼすものなどやめたら……」

「子供は、大人になって初めて親への感謝を覚える生き物なんだよ。」

「それは、どういう意味ですか?」

「はっ、分かってないとは、やっぱりガキだな。……頼むから、この先は聞かなかったことにしてくれ。」

その人は、静かに語り始めた。私の物語を聞いたお礼と言わんばかりに、服装と顔つきに似合わないほどの優しい口調で。

「俺は、母親を知らずに育った。いわゆる父子家庭、ってやつだ。親父はヘビースモーカーで案の定早死したよ。俺はお前みたいに、親父が煙草を吸うのを止める役割だった。まあうるせぇって笑いながらかわされたけどな。……俺は親父みたいになんねぇ、煙草は俺の敵だなんて本気で思ってたよ。まだ幼かった俺を残して死んだあいつがどうしても許せなかった。でも、大人になって心に余裕が出来てふと思った、ああ親父に会いたいわってな。何でだろな、あんなに憎かった親が懐かしくなってくるんだぜ?意味不明だよな。自分でもわかってねぇよ。でも、無性に会いたくなってくる。そのせいで煙草がやめられない体になった。……後悔先に立たずとは、まさにこのことだ。」

「絶対になりたくないと思っていた人に近づいた事を、嬉しがっているようにしか聞こえないのですが。」

「お前何真剣に聞いてんだ。」

「いつの間にか、その優しい世界に引き込まれていまして。黒ゴマ団子、みたいですよね。外から見えるのは憎しみと、認めたくないという確固たる意志、でも中身をのぞけば結局優しい部分が見えてくる。その中身は自分からのぞくしかない。そして、その二つは反発し合っているように見えて実は一つに溶け合っている。お互いなくてはならない存在です。そんな匂いを、感じました。」

「ちゃっかり分析するな。」

「喫煙を止める気が失せました。でも、何も自分で吸わずともいいのでは?」

「どういうことだ?」

「灰皿の上に置くだけでも違うはず、ですが。形から所長のお父様に近づかなければ気が済まないのですか?」

「……別に、どうだっていいだろ。それに煙草は、すぐやめられるものじゃねぇ。」

煙草に対する冷蔵庫のような冷たい感情は、その目や仕草からも容易に伝わってくる。所長は煙草を必ず一度しか口にしない。大切に一本を吸い続ける事を一切しない。一度吸って息を吐くと同時に冷酷な殺人鬼が、いやサイコパスがするような冷淡な、感情のない目を煙草に対して向けるのだ。俺の親父の命を奪った憎いもの、そのようなメッセージを込めて。そして、会いたいと強く願う彼のたった一人の「親」の姿は、その煙草には投影出来ないと語っているかのように。

「煙草の事は嫌いでも、お父様の事は大好きなんですね。」

「それ以上口にするな、恥ずかしい。」

そう口にしたその人の表情は、どこか少年のように幼かった。きっと、幼い頃に父親を亡くしたのだろう。過去は、口にせずとも表情で伝わってきた。そんな事を私の頭の中で完結させようとしていると、小さく「考えてます顔してんじゃねぇ」というお叱りの声が飛んできた。すぐに想像してしまう癖を反省しなければ。と、深いため息とともに紙の束で頭をはたかれた。本当に痛い。

「………お前の事はおいおい理解していくつもりだ。色々と気になる事はあるしな。それよりもまず、お前に初仕事をやる。これ以上色々探られても困るしな。」

「初、仕事ですか。」

「何だ、嬉しそうにねぇな。折角雇ってやるんだ、仕事を与えてやるんだ、素直に喜べ。」

「私の願いを、叶えてくださるんですよね?」

お願い、今度こそ、人を信じさせてほしい。

「当たり前だろ。そのための、仕事だ。」

では、その手を取らせてもらおう。世間と、私との全面戦争のために。

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