第2章 味気のない空気と飛び出す勇気の欠片は

お兄さんが姿を消したのは、あまりに突然のことであった。寝る前は確かにいた彼が、起きたらいなくなっていたのである。置手紙のひとつくらいはあるだろうと信じ、部屋中を探したが、何も見つからなかった。

「どうして……なんでみんないなくなっちゃうの……っ?」

そんな本音がこぼれてしまった。思わずはっと息を呑んでしまった。こんな弱音、誰かに聞かれたら……と。誰も聞いていないことを確認し、私は少しだけ泣いた。

テレビドラマで描かれている弱音を吐くシーンは、決まっていつも一人でいるシーンだ。それはつまり、弱音というものは誰にも見せるべきではない、ということだろう。だから私は人前で弱音を吐きたくないのである。もしかしたら、さっきの本音が人生で初めての本音……、いや弱音だったのかもしれない。


私は、お兄さんから買ってもらった服やおもちゃなどを全てカバンに詰め、その部屋を後にした。お兄さんと、一緒に過ごしたその空気を口いっぱいに吸い込む。やっぱり、少しだけ優しい味がした。でも、どこか味気ない空気にも感じた。


外の世界は、やはり輝いていた。誰もが笑っている。明るく話している。誰にとっても当たり前の景色なのだとお兄さんは呟いていたのだが、私にとってはそれが全て新鮮なものに感じたのだ。空気を口いっぱいに吸い込む。甘くておいしい空気の味は、やはり変わらない。

私がまだ小さいからなのだろうか、道行く人がじろじろと私を見ては「学校、行っていないのかな?」「家族、いないの?」とひそひそ話している。なんてどんよりした気持ち悪い空気なのだろう。唐突に吐き気に襲われてしまった。私に家族はいないし、唯一の味方であった人にも逃げられた。学校に行くなんて選択肢はこれっぽっちもなかったし、今は別に学校に行かなくても良い法律が出来ていたのではなかっただろうか?いや、そんなものは存在しないか。私は学校に行く術は持ち合わせていない。だから、学校に行かない、それだけだ。そのような言い訳は、世間的に許されるのだろうか。


どんっ。


考え事をしていたら、人にぶつかってしまった。すみません、と謝ろうとした瞬間、

「もしかして、翔子ちゃん?やっぱりそうだわ翔子ちゃんよ、あなた!」

唐突に明るい声と明るい顔でおばさんが話し始めたのだ。なぜ私の名前を知っている!そう言おうとしたのだが、その姿に圧倒されて声が思うように出せない。

「やっぱり、鏡花さんによく似て美人さんよ。鏡花さん、一度も会わせてくれなかったから、ここで会えて本当に嬉しいわ!」

手には紙袋。この近くにあるお菓子屋さんの紙袋だ。お兄さんが、大好きなお店だと教えてくれたから知っている。鏡花さん、というのは私の母親の名前だ。

「いつか、翔ちゃんが外に出ることになった時、私の事をお母さんだって認めたくなかったら、こう呼んで。鏡花さんって。ちなみに、お父さんの名前は賢治。漢字は泉鏡花と宮沢賢治を思い出してください、って言ったら伝わるわ。」

そう母が、昔扉越しに伝えた事を思い出した。未だに理解できない言葉なのだが、小さい頃「何が欲しい?」と言われ、とっさに泉鏡花と宮沢賢治の本!と答えたほどには強烈に覚えている言葉だ。まあ、泉鏡花の本は読むのを断念したのだが。……今はどうでもいい話だった。こんな考え事を考えているうちにどんどん話が進んでいるようで、ついについていけなくなってしまった。

「ちょっと、ねえ、翔ちゃん聞いてる?」

「え、あ、す、すみません……。」

ぐいぐい来られるとどうも押し黙ってしまう。病院にいた頃毎日のように会っていた看護師と同じタイプだ。

「この先の、グリーンパレスっていうアパートに住んでいる人に挨拶したいんだけど、案内してくれるかしら?翔ちゃんは今、そこに住んでいるのよね?看護師さんから聞いたわよ。」グリーンパレス。私とお兄さんが築き上げた、いやお兄さんが作ってくれた優しい空気が少し混ざった居心地のいい場所。そこに何の用だろうか……、まさかこいつら、私のことを迎えにきたのだろうか?

「退院したら、私たちが引き取ろうって話していたのよ。だから、別の人が引き取ったっていうお話を聞いてびっくりしちゃったわよ。でも、もう大丈夫。おじさんとおばあさんの家で一緒に住みましょう?」

笑顔を見せたおばさんと名乗る人の顔は、想像以上に冷たい空気を放っていた。その冷たい空気がやがて現実のものとなるとは、この頃の私は想像もしていなかった。


学校という閉鎖空間に通わされる、自由を奪われる日々。そして、しつけ。喋り方も矯正させられた。今までの喋り方は小学生らしくないと、喋り方を覚えさせられた。

なんて窮屈なんだ、体が拒絶する。何度も逃げ出した。でもなぜかすぐに捕まってしまった。逃げては捕まり、逃げては捕まり。何度も繰り返して、五年の月日が流れた。


その記念すべき日、私は窮屈な世界を飛び出すことにやっと成功した。

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