第1章 新しい世界の色を、一言で表すならば

私は、家の一室に閉じ込められたまま育てられた。外の世界を見ることなく、あの事件に遭い、この病院に越してきた。

外の世界を知らないこと以外には別に不満はなかった。食事はきちんと三度与えてくれる母親がいたし、昼間には父と母が話している声も密かに聞こえた。


ただし、必ず夜には姿を消していた。

そして、こんな声が必ず朝するのだ。


返り血は、任務完了の証だな。


そのワードだけは毎日、扉を介した場所にいる私の耳にもきちんと聞こえるように呟かれていた。きっと恐ろしい仕事をしているのだろう、そんな予想は簡単にできた。

ただ、父と母はその仕事内容がばれないようにするつもりなのか、私の部屋にテレビを設置してくれていた。テレビの奥にいる人たちはいつだって楽しそうだった。外の世界で、キラキラとした生活を送っている彼らの姿に、私は何度も憧れた。しかし、その扉が開くことは、あの事件まで一度もなかった。


母は、ご飯を持ってくると同時に必ず私にこう告げる。

「テレビの音量を、大きくしてくれないかしら?」

その声は少しだけ優しくて、でも八割は恐ろしさで埋められていた。だから私はそれに従った。テレビの音量を大きく。大きく。

なんだか、刑務所に住んでいるみたいだと、刑務所についての特集をやっているテレビを見ながら思い始めた。ただ、私は悪い事などしていない。この家に生まれたことが、唯一の罪だ。


その日は、突然やってきた。


朝になっても、昼になっても、一向に父も母も帰ってこないのだ。ご飯を買いに行けるはずもなく、私は部屋の中でただお腹が空いた、とうずくまっていることしかできなかった。

どんどんどんどん! どんどんどんどん!

テレビの音量以上の音がした。怒気が込められているような、恐ろしい音。そして、ばあん!というすさまじい音がした。後で知ったのだが、それは玄関のドアが蹴破られた音だったそうだ。

「おい、ガキを探せ。」

恐ろしさだけが込められた声が聞こえた。私は見つからないよう、慌ててテレビの音量を小さくした。見つかったら最後、私は殺される! テレビでやっていた長い長いドラマで知った事実である。

「兄貴!ひとつだけ、開かないドア発見しました。」

「よし、よくやった。後は俺に任せろ。」

ああ、私は殺されるんだ、そう察した。

ああ、私は死ぬのか、そう悟った。

ああ、私は誰とも話さずに死ぬのか、そう思って悲しくなってしまった。

頑丈に閉じられていたドアが開く。三人組の男が入って来た。とっさのことで声が出なかったわけではない。私は、私は……。

(誰とも喋った事ないからだ……。)

声の出し方すら知らなった。


本当に痛くて、辛くて、早く離してほしくて、でも声が出なくてもがくしかなかった。誰か、助けてくれないか。その願いすら声帯には届かなかった。

「お前も、これからパパとママのところに行くんだ。恨むなら、パパとママを恨むんだな。」

という声がした。私が喋らないことを悟ったのか、なぜかつらつらと喋り出した。意識が遠のくことと戦いながら、断片的に聞いていた。

「俺の、大切な人を……罪の、……だ。……、して受けるがいい。……でも、……したくなんて………ないん……。」


ここで、ぷっつりと意識が途切れた。

そして、気がついたら病院にいた。それが私のこれまでの人生だった。

色のない、モノクロの記憶。そんな言葉が似合うほどには色付けのしにくい記憶である。これを聞かされる方も大変だな。いや、むしろその立場の方が大変な気がする。現に、あの人は肩を震わせながら、太ももをつねりながら私の話を聞いている。

「何も、楽しくなんてないだろう?私の人生に、外を見る機会なんて一度もないんだ。今だって病院っていうところにいるわけだからな。」

その震えている肩が、姿があまりにも可哀想で、私は少しだけ笑い声をもらす。それでも、その肩は震えたままであった。

「……おーい、話は終わったんだから、そんなに震えないでくれよ。私がいじめたみたいになっているじゃないか。」

「……………ごめん。」

「いや、そこで謝られると、私も困るんだが……、うーん。」

何か、話したいことがあるのか、フードを被ったその頭が少しだけ上がる。

「………喋るの、楽しい?」

「ああ、楽しいよ!なにせ、自分の想いを自分の口で伝えられるからな!」

「………そっか。僕も君と話すの、楽しいよ。」

「………全く楽しそうには見えないが。」

「………ごめん。」

「もっとこう、顔を上げてくれたら見えるかもしれないな。」

ついに言ってしまった。思わず息を呑む。しかし、返ってきたのは予想外の声であった。

笑い声だ。

静かに、ふふっと笑った彼は、ちょっとだけ顔を上げてくれた。ちらりと見えたのは、銀色の髪だった。ふと、無意識に私が「かっこいい」と呟いていたのか、「……照れちゃうよ……。」とまた顔を隠してしまった。まったく、何をやっているんだ私よ!


沈黙。

しばし沈黙の時間が続いた。そして、彼はこうつぶやいた。

「…………外の世界、行ってみたい?」

予想外の返事に、私は戸惑ってしまった。しかし、すぐにこう返事した。

「もちろんだ!」

また笑ってくれた。今度は顔を上げて。

優しそうな顔に、銀色の髪が眩しい。端正な顔立ちという言葉が似合うくらいには端正な顔立ちをしている。フードを被っていなければ、この病院の不審者、ではなく人気者、としてあがめられていたことだろう。小児病棟だ、面会に来た母親たちが彼を見て、キャーキャー言っている様子は容易に想像できる。そう想像していたら、もう顔を隠してしまっていた。しかしなぜフードを被っているのだろうか。

「………ひとつだけ、約束してくれないかな。」

「約束?」

「僕は、二つ約束するよ。だから、一つ約束してほしいんだ。」

今までの途切れ途切れな喋り方とは違う、芯の通った喋り方。全ての私との会話はこの文言のためにあったように思えるような、芯の通った喋り方。少しだけ、衝撃を受けてしまった。

「……一つ。僕は、君のお父さんとお母さんを襲った事件を、必ず解決するよ。……二つ。君とは、家族のように接するよ。」

家族、とは。その疑問が浮かんでしまった。この人は私の話をきちんと聞いたうえで家族、という言葉を口にしたのだろうか。と思っていることを気づかれたのか、おどおどしながら付け加えてくれた。

「……あっ、えっと、い、今みたいな感じで接するってことだよ!むしろもっと仲良くなりたいなって思っているというか……うーん、えっと、そんな感じ!」

「……なんか、申し訳ないな、その気遣い。………でも、ありがとう。じゃあ、私に対する約束を教えてくれないか。」

「あ、そうだった……さっきの話で終わったものだと……。」

「君がひとつ約束しろと言ったのではなかったか。」

「…………むぅ、そうだった。……約束は、君が早くその傷を治すことだ。早く、外の世界を見に行きたいから。」

「ふっ、当たり前だろう。私は早く外の世界を見たい。その思いだけで傷など早くふさがるはずだぞ!」

初めてこんなにも人と話す事を楽しいと思ったかもしれない。看護師や医者との話は退屈だが、こんなにも刺激的で興味深い話をしたのは初めてだ。……と、名前を聞くのを忘れていた。テレビでは、いや看護師も医者も私の名前を呼ぶ。つまり、私も彼の名前を聞かなければ。

「そうだ、名前……!」

「……ああ、僕のことは気軽にお兄さん、と呼んでくれればそれでいいよ。名前なんて、覚える必要ないさ。……むしろ、僕は君の名前の方が、知りたいかな。」

「私の、名前も覚える必要は人生においてないと思うのだが。」

「……いや、君のことをこの先、どう呼べばいいかわからないから。」

「……そうか、そういう意味で、か。……鮎沢、翔子だ。母親は私の事を翔ちゃん、と呼んでいた。だから、むしろ、翔子、と呼んでもらいたい。……私からの、お願いだ。」

「……ああ、分ったよ。よろしくね、翔子。」

胸が熱くなるとは、このことなのだろうか。私は顔を赤くし照れていたようだ。


ただ、これは始まりにすぎなかった。いや、ただの始まりではなかったのである。始まりであり、全ての終わりであった。そしてきっと私は、この先もずっと、この事件が解決しようともずっと、彼の「そうか、彼女があの事件の……」と呟いたことを忘れないだろう。


外の世界は、私が想像していた以上に素敵で、自分が持つ日本語の語彙力で表現するにはあまりに美しすぎた。何度も、何度も、その素敵な優しい世界を彼は見せてくれた。その時は凄く愉しかった。しかし、私が彼の側を一瞬離れたあと、戻ってくると必ず恐ろしいほどの狂気を体に滲ませているのだ。初めて会った時に持っていた資料に目を通しながら、恐ろしい狂気を滲ませる。その姿が、ただ恐ろしくて仕方がなかったかと言われたら嘘になる。


しかし、そのような美しい世界を見られる日々は長く続かなかった。



お兄さんが、姿を消したのである。

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