第5話シュレディンガーの猫は、鳴かない
腕を伸ばし、青年の胸ぐらを那由多は掴む。
「貴様、何をした‼️」
怒気をはらみ、那由多は叫ぶ。
「何って、あんたらこそなんなんだよ。人の家にかってにあがってさ」
生気のない濁った目を那由多にむける。
彼女は不快だった。
恐らく、この青年は自らの汚れた欲望のために何の罪もない、抵抗すらできない生き物をいたぶり尽くしたのだろう。
仔猫は文字通り虫の息だった。
無造作に冷たい床に寝転がる仔猫にウオッチメンは手をあてた。
彼の見えない瞳にはこの仔猫の命の灯火が後どれくらいかというのが、見えていた。
彼のあまたある能力の一つだ。
「後、三十分ももたんぞ」
冷徹な声でウオッチメンは言った。
正直彼自身も怒りたかったが、那由多が激昂しているため、自分は冷静であろうとつとめていた。
胸ぐらを掴まれながら、青年はへらへらと笑っていた。
自分はなにも悪くない。たまたまおもちゃが壊れてしまった。
壊れたから放っておいている。
それだけだ。
怒られる理由がわからない。
そんな笑いだった。
那由多は床にゴミを捨てるように、男を投げた。
このままこの男をぶちのめしても仔猫は元には戻らない。
方法はないわけではないが……と思案を巡らせようとしていたところ、何者かが突如、バリンと窓ガラスを割り、進入した。
トンッと軽く着地すると、ぶるぶると震え、まとわりついたガラスの破片を落とした。
その小動物は白と黒のぶち柄をした優美な毛並みを持っていた。
尻尾が二つに別れている。
今朝出会った猫又だ。
背伸びをすると猫又はむくりむくりと巨大化していった。
ついには二本足で立ち上がり、那由多よりも頭一つ大きい背丈となる。
ぶるんと身震いすると、そこには赤い和服を着た、たいそうな美女がたっていた。
頭の猫の耳と二股の尻尾だけはそのままだった。
両肩は大きくはだけ、豊かな胸の山が半分ほどこぼれ落ちそうになっていた。
その瞳は充血し、牙をはやした口をむき出しにしていた。
怒りの形相も凄まじい。
「我は獣王の副臣又三郎である。そこに眠る者はわが一族の末の娘なるぞ。貴様の行い、万死に値する」
指から生えたナイフのように鋭い爪を仔猫を誘拐した青年に向け、今にも切り裂こうとしていた。
その様子に仰天した男は腰を抜かし、座り込んでいた。恐怖で歯のねも合わず、ガチガチとならしていた。
この男が妖怪猫又に八つ裂きにされたからといって那由多の心はいっこうに痛まない。
又三郎がそうしたいのなら、そうすればいいだろう。だが、それではあけ美の依頼をはたすことはできない。
それは探偵としての矜持か許さなかった。
那由多はウオッチメンの見えない方の目を見る。
なにかを読み取ったのか、この義眼の男はジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出し、床の仔猫にかけた。
ハンカチにおおわれ、仔猫は見えなくなった。
「なあ、又三郎さん。あんたがこの男を殺してもあの仔猫は元には戻らない。今、こうしてハンカチをかけた仔猫は次に観察するまで死んでいるか生きているかわからない状態だ。言わば半分生きていて、半分死んでいる」
猫又の赤くなった瞳を見つめながら、那由多は言った。
「それは詭弁ではないか」
爪の切っ先を那由多の喉仏にあてる。
「だが、貴様からはすでに賄賂をもらっていたな。いいだろう、一度だけ機会を与えよう」
又三郎は言った。
「感謝する」
短く那由多は言い、愛用の銀の懐中時計の蓋をぱかりとあけた。
カチカチと動く長針と短針をじっと見つめる。
規則正しく動いていた針はどういう原理かはわからないがぐるぐると逆に回りだした。
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