徘徊するモノ

「――で、あいつやったん? チュー五郎がうとった何かってのは?」


 ケーニセグの妙にたくましい背中を見送ったタキシードの言葉に、チュー五郎はチュッと小首をかしげた。


「分からんのかいな……」


「ウロウロしても仕方ないし、ジョーさんが落としたっていう場所に行ってみよっか」


 エイジャの提案に、一行は再び下水道を進み始めた。


 通路はかまぼこ形で、中央に水路があり、その脇の壁際に歩道があった。下水を流れる水には常に一定の流れがあり、そんな水にうっかり入らないように足早に通路を歩いていく。途中障害物に足を取られたり、ゴミを踏みつけたりと散々な思いをしつつ、二人と一匹は緩やかにカーブした下水を進んだ。


 途中分かれ道があったりと、普通ならあっという間に迷ってしまいそうなところだが、そこはチュー五郎のガイドに従って行けば迷うことはない。


「広いねぇ、兄ぃ……」


「これは……指環なんて見つからんのちゃうかな?」


 タキシードが諦め気味の声を上げた。


「バミューダの下水路って、なんでこんなに立派なんだろうね?」


「さぁなぁ。……バミューダって〈遷都せんと〉もせず、普通では考えられんほど長く留まっているらしいからな」


 下水網の想像を超えた規模にうんざりしつつ、タキシード達はジョーが言っていた場所にやっと辿り着いた。そこは緑色グリーン尖晶石スピネル通りの下辺りだった。


「……なぁエイジャ。そういえばあいつ、婚約者がおんのに、なんで色区いろくにおったんやろうな? 指環なんてこんなとこで落とすか?」


「うーん……外そうとしたのかな。帰ったら問い詰めて制裁しないといけないね。口止め料も貰わないと」


 さらっとヤクザなことを言ったエイジャ。その時、チュー五郎がおもむろにタキシードに身体をこすり付けてきた。


「――ん? おお、始めてくれるか。頼むわ」


 チューッと、チュー五郎が吠えた直後、周囲の暗がりが波打った。


 窮鼠猫咬一家は、既にこの場所に待機していた。


 ゴゴゴゴゴ……と地鳴りが引いていくと、やがて水がチョロチョロと流れる音だけが残された。全ては一瞬のことだった。タキシードとエイジャは茫然とネズミ軍団が下水に散っていく様子を見守るしかなかった。


「――ひっ」


 思い出したようにエイジャが小さな悲鳴を上げた。それはネズミの津波という超常的光景を目の当たりにしたから――ではなかった。


 二人が立つ場所は、地上の光が落ちて丸い光のスポットになっていた。恐らくあの穴からジョーは指環を落としたのだろう。タキシードがちょうどその光のサークルの中に佇んでいた。


 背が低いのがあだとなった。下水の汚れは、床面に溜まっていたのだ。


 泥跳ねや、天井から垂れてくる水滴などでタキシードの体毛はいつしかびしょ濡れになっており、そこにびっしりとこびりついていたのは、正体不明のゴミ。何かの動物の毛。鳥の羽みたいなもの。小さな骨の数々。そして、大量の虫の死骸。


 水銀灯の柔らかい光でぼかされていた彼の様態ようたいが、白日はくじつの元に晒されて、邪悪なリアリティを帯びてしまっていた。


「ひぇぇ、兄ぃ……えんがちょ‼」


 ゾワワっと両腕を抱えたエイジャ。まだ気が付いていないタキシードがきょとんとし、何かと思って自分の身体に視線を流せば、肩から垂れた大きなムカデの死骸とこんにちは(コンニチワッ!)。


「ひょえっ」と息を漏らしたタキシードの総身そうみが冷えた。


「エイジャ! エイジャ! エイジャ‼ とって! とって! とって‼」


「やだっ、兄ぃ……っ! こっちこないでぇーっ‼」


 タキシードが半泣きで身体をくねらせたり、ブルブル身体を震わせて懸命に汚れを飛ばそうとした。その泥跳ねに後じさるエイジャ。


 しばらく二人の追いかけっこがあった後、エイジャがしかめっ面になって「うーっ」と声を漏らしながら、タキシードに付着した目立ったゴミをつまみ取って行く。


 そんな二人のやりとりを不思議そうに眺めていたチュー五郎が、タキシードに身体を擦り付けてきた。再び汚れをもらったタキシードの背筋に悪寒が走った。


「――見つからない?」


 チュー五郎はそうタキシードに伝えた。


「もう、遠くに流されちゃったのかな?」


 エイジャが、タキシードから普段の三倍ほど距離を取りつつ言った。


「むむむ……チュー五郎たちが見つけられんのやったら、もう無理かもなぁ……――んっ?」


 ざぁっとネズミの波が下水路の奥から流れてきた。


 タキシードは猫目を丸く開いて、その奥の闇を凝然ぎょうぜんと見つめた。


「――なんや?」


 ――また、ナマズ漁を終えて帰る誰かだろうか。


 だが、音が違っていた。見通せない下水の闇の奥からは、カチカチカチカチという鋭い音が届いてくる。


 ほどなくしてそれは闇黒くらやみおりから姿を現した。


 抱えきれないほどの大きさのヘドロの塊が、下水路を上下左右にふらつきながら迫ってきた。そのヘドロの塊からは、ゴミや虫を初めとする様々ななものが、半分飲み込まれる形て顔を出していた。その中には大きめの宝石すらも見つけられる。


 ふらふらと通路を漂うヘドロの塊から、目にも留まらぬ速度で一本の細い針が伸びた。カチンと音を立てて下水路の通路に突き立ったその針の先端では、ネズミが一匹串刺しになっていた。ヘドロの塊はスーッと音も立てずに痙攣するネズミに近づいていくと、そのネズミは泥に沈み込むようにヘドロの中に取り込まれてしまった。


 カチ、カチ、カチと、更に数本の針が壁と天井に伸びた。


 そのヘドロの塊は、下水路の床や壁、天井の全方位に向かって、ウニのように針を伸ばして、その身体を突っ張って支えながら三次元移動していた。それはまるで下水道を塞いだ蜘蛛の巣の上を、自由自在に動き回るヘドロの塊にも見えた。


 徹頭徹尾てっとうてつび、理解不能な何か――。


「――グロ、テスクっ! ほんまに出よったわ‼」


 タキシードが声を上げた時、既にエイジャは背中の獲物を抜いていた。

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