第27話

 水中から顔を出す時のような感覚と共に、わたしはパチリと目を開けた。木目の天井が目に映る。


 夢か……。


 久しぶりに昔の夢を見た。わたしがまだ、小学六年生だった頃の夢だ。先月、わたしは二十六歳になったので、もう十四年も前の話。どうして突然、あの頃の夢を見たのだろう? もしかしたら今、わたしが小学六年生のクラスを受け持っているからかもしれない。


 散々進路に悩んだわたしだけれど、今は小学校の先生をやっている。これが、自分の能力を一番生かせる職業だと思ったからだ。以前のわたしは、これと言った特技がないことにコンプレックスを感じていたけれど、それは裏を返せば苦手な項目もないということだ。小学校の先生は中学校や高校と違って、全ての教科を教えなくてはいけない。これが出来る人は、実はかなり貴重なのだ。このことを知った時、まさに小学校の先生はわたしの天職だと思った。そして、その瞬間に自分の進路も決まった。その判断は正しかったと、わたしは今でも思っている。忙しいこともあるけれど、わたしはこの仕事にやりがいを感じている。毎日、物凄い成長でスピードする生徒たちに驚かされてばかりだ。

 

 きっとあの頃のわたしも、同じ位の勢いで成長していたんだろうな……。

 

 そう思いながら、わたしはゴロリと横に寝返りする。すると、わたしの大好きな人が視界に入った。ペンちゃんを胸に抱えながら、スヤスヤと寝息をたてている。わたしは、この様子を一時間でも二時間でも眺めていたかったのだけれど、ちょうどその時、窓から朝日が差し込んで部屋全体を明るく照らした。

 

 「んん……」

 

 わたしの大好きな人は、軽く瞼をこすってから、ゆっくり目を開けた。

 

 「おはよ、麗華」

 

 麗華はパチパチと瞬きする。琥珀色の瞳を何回か見え隠れさせてから、麗華も口を開いた。

 

 「香織、おはよ~」

 

 麗華は口に手を当てて、控えめにあくびする。

 

 「麗華、眠そうだね? 昨日も夜遅くまで作業してたの?」

 

 「うん、ちょっとね……。締め切りギリギリだったから……」

 

 この会話からも分かるように、麗華は小学校の頃の夢を実現させて少女漫画家になった……のではなく、実はイラストレーターになった。別に妥協してイラストレーターになったわけじゃない。麗華は自分の意思でイラストレーターになる道を選んだのだ。本人いわく、漫画のように複数のコマに複数の絵を描くよりも、一枚のイラストに全身全霊をかけて描くほうが得意だし楽しいことに気がついたらしい。確かに昔から、麗華は一枚絵を描くことが多かった。わたしと同じように、麗華も今の職業が自分の天職だと思っていることだろう。

 

 「お疲れ様、麗華。わたしはそろそろ起きるけど、もう少し寝てる?」

 

  わたしの問いかけに、麗華は少し迷っている様子だったけれど、しばらくして首を横にふった。

 

 「う~ん、でももう目が覚めちゃったし、私も起きるよ」

 

 「そっか」

 

 わたしたちは、息ピッタリ、同じタイミングで上半身を起こした。




 「うん、美味しい!」


 麗華はわたしの作ったピーマンのベーコン炒めに舌鼓を打つ。


 「良かった~。わたしも今日は上手く作れたと思ったんだ」


 今日は日曜日で、時間に余裕があったから普段よりも凝った朝ごはんにしてみたのだ。


 「香織もすっかりピーマン好きになったよね」


 そう言えばわたし、昔はピーマン大嫌いだったんだ……。


 麗華に言われるまで気づかないくらい、今のわたしはピーマンに対する抵抗が無くなっていた。別に決定的なきっかけがあったわけではない。強いて言うなら、自分で料理する機会が増えてきたからだろうか。


 「昔のわたしに言っても絶対信じないだろうけどね。人生、何があるか分からないよ」


 そう言ってわたしはピーマンのベーコン炒めを一口食べた。やっぱり美味しい。


 「今日はどうする? 麗華、忙しいの?」


 麗華はフリーランスのイラストレーターのため、基本的に曜日とは無縁の生活を送っている。だから例え日曜日でも、締め切り間際なら仕事をしなくてはいけないのだ。


 「今日は大丈夫。ちょうど一仕事終えた所だから、時間にも余裕があるよ」


 人気イラストレーターである麗華は、普段から大量の仕事を抱えている。雑誌の表紙やライトノベルの挿絵、アニメやゲームのキャラクターデザインなど、様々な依頼が毎日のように飛び込んでくるのだ。だから麗華がお休みの日というのは意外に貴重だ。わたしのテンションは急上昇する。


 「本当? じゃあ一緒にお出かけしよっ!」


 「いいよ」


 二つ返事で麗華は頷いてくれた。




 お出かけと言っても、どこか特別な所に行ったりするわけではない。わたしたちは今、近所の本屋に足を運んでいる。


 「ね、麗華! 『二人の秘密』の七巻、来月発売だって!」


 店内に貼られた大きな宣伝ポスターを指差しながら、わたしは小声で麗華に話しかける。


 「本当だ。ここ最近のお母さんの刊行ペース凄いよね。たしか先月、六巻発売したばかりなのに……」


 「そうそう。この前なんて、一日はどうして二十四時間しかないんだろうって嘆いてたよ」


 桜花さんは手術のお陰で病を完治させ、今や売れっ子少女漫画家として完全復活していた。わたしたちが中三の時に「恋メロ」は全十七巻で堂々完結し、それからもハイペースで新作を生み出し続けている。今描いている「二人の秘密」は、女子中学生二人の間の恋を描いた作品だ。この作品は、特に若者に圧倒的に支持されていて、先日アニメ化が決定したほどだ。桜花さんは、そんな風に精力的に仕事をこなす一方で、時々わたしたちの家にも遊びに来る。先月は、椎名家のオムライスの作り方を教えてもらった。わたしは朝比奈家のオムライスが大好きだけど、椎名家のオムライスも物凄く美味しかった。両方完璧に作れるようになって、麗華の胃袋をガッチリと掴むのが当面の目標だ。


 少女漫画のコーナーを抜けて、わたしはライトノベルのコーナーに足を踏み入れる。そして、一冊の本を手にとった。


 「やっぱり麗華のイラストは可愛いなぁ~」


 わたしが手にとったのは、麗華がイラストを担当しているライトノベルだ。表紙には、可愛らしい高校生くらいの女の子が描かれている。


 「ありがとう香織。そのキャラは、特にわたしのお気に入りなの。何だか雰囲気が香織にそっくりで……」


 確かにそう言われてみれば、見た目が高校生の頃のわたしにそっくりだった。一重で、髪はそんなに長くなくて、薄茶色で……。こうして見ているだけで、嬉しいような恥ずかしいようなこそばゆい気持ちになる。こういうのは何年経っても慣れないものだ。


 「そ、そうなんだ……。ねえ麗華、この後カフェにでも寄らない? わたし、何だか喉が乾いてきちゃって……」


 照れを誤魔化すように、わたしは提案した。


 「うん、分かった」


 素敵な笑顔で麗華は頷いた。




 「こんなところに新しくアスバ出来てたんだね」


 麗華はストローで、ショートアイスチョコレートオランジュモカノンモカエクストラホイップエクストラソース吸いながらそんな事を言う。


 アスバとは有名なコーヒーのチェーン店だ。アースバックスを略してアスバ。小学生の頃、澪さんと来たのもアスバだ。あの頃は右も左も分からない状態だったけれど、今のわたしは注文だってスラスラと言えるようになっていた。


 「この前、啓太とご飯食べた時に教えてもらったの。駅前に新しくアスバ出来てるから、麗華と行ってみたら? って」


 啓太とは、今でも年に数回は近況報告をするくらい仲が良い。小学校と中学校時代を共にした、わたしの大切な親友の一人だ。


 「そうだったんだ。じゃあ感謝しなきゃね。えぇと……こんなに美味しいチョコレートなんとかが飲めたんだから」


 「ショートアイスチョコレートオランジュモカノンモカエクストラホイップエクストラソースね! ちなみにわたしが飲んでいるのは、ベンティノンティーマンゴーパッションティーフラペチーノアドホワイトモカシロップアドホイップクリームだよ」


 「カタカナばっかりで難しすぎる……!」


 麗華は軽く頭を抱えている。昔からアスバに来た時は、いつもわたしが注文していたから、麗華はアスバの呪文をまだマスターしていないのだ。高校生になったら、誰でも唱えられるようになるものではないらしい。


 「一つ一つの単語の意味はそんなに難しくないから、麗華だって頑張ればきっと覚えられるよ!」


 「ん~、でも私には香織がいるから大丈夫だよ。ん~美味しい!」


 「もう、麗華ったら……」


 表面上、わたしは小さくため息をつくけれど、内心は嬉しかった。麗華がわたしを頼りにしてくれていることが分かるから。


 ブッーブッー


 麗華のピンク色のスマホが、振動した。麗華はストローから口を離すと、滑らかな動作でスマホを操作する。


 「あっ、お姉ちゃんからだ」


 麗華は、スマホの画面をわたしに向けた。


 「うわ~綺麗! オーロラだよね? これ」


 そこには、空を覆い尽くす薄緑色のオーロラをバックに、旦那さんと仲睦まじそうに体を寄せ合う澪さんの姿があった。


 「新婚旅行でカナダのイエローナイフって所に行っているらしいよ。オーロラが綺麗に見れる所で有名なんだって。お姉ちゃんったら『超寒い~!』って愚痴をこぼしてる……」


 麗華は小さくフフッと笑う。


 わたしは三ヶ月前にあった澪さんの結婚式のことを思い出していた。




 「香織ちゃん、私、ようやく『恋愛』の意味が分かったよ」


 ウェディングドレスに包まれた澪さんは、満面の笑みでわたしのそう告げてくれた。そこには以前あったような迷いなんてどこにも無くて、全身が幸せオーラに包まれている様子だった。あの時の澪さんは、いつのも増して輝いていた。




 「ねえ麗華……」


 気づけばわたしは口を開いていた。麗華はスマホの画面から視線をそらして、わたしを見つめる。


 「わたしたちも結婚式しよっか」


 今夜の晩ごはんの献立を提案する時と同じ位の気軽さで、わたしは提案した。




 見ての通り、わたしと麗華は現在同棲している。今や麗華は、正式にわたしの恋人なのだ。ここまでの道のりは長かった。小六の冬に、わたしが麗華に告白してからも、わたしたちはずっと仲良しだった。中学も高校も同じところだったし、運良く中二と高一の時以外は、わたしと麗華は毎回同じクラスだった。だからわたしたちは頻繁に互いの家を行き来して遊んだ。あれ以来、わたしが麗華に再び告白することは無かった。ずっと返事を待つと言った手前、麗華を急かすような真似はしたくなかったのだ。結局、麗華から返事が帰ってきたのは、わたしが告白してから五年後の高校二年生の春のことだった。




 「今年も綺麗に咲いたね~」


 あの時、わたしは麗華と二人で、自分の家の庭に咲く桜を眺めていた。こうして二人で桜を見るのも、既に六回目だ。もはや毎年恒例の行事みたいになっていた。


 それは本当に突然のことだった。


 「ねえ香織。私、今から約束一つ破ってもいいかな?」


 麗華は桜から目をそらして、わたしの瞳を真剣な表情で見つめた。ただならぬ雰囲気を感じて、わたしも麗華を見つめ返す。


 「約束って、何のやくそ、んっ……」


 約束の「く」の字を言えないまま、わたしは唇を塞がれる。


 一体何が……?


 目の前には、視界いっぱいに麗華の顔が映っていた。訳がわからないまま数秒が経過して、わたしの唇は開放される。目の前には、真っ赤な顔をして俯く麗華の姿があった。


 もしかしてこれって、キ、キ、キ、キス?


 ようやくわたしは、今起こったことを理解した。


 「私、小学生の時、麗華の友だちを辞めることなんて絶対にありえないって言ったよね?」


 「うん……」


 わたしは話の行き先がつかめないまま相槌を打つ。


 「けど、その約束を今から私は破ります」


 麗華は潤んだ琥珀色の瞳で、再びわたしを見つめる。

 

 「香織、好きです。わたしの恋人になってください」

 

 しばらくの間、わたしは何を言われたのか分からなかった。数秒してから、体に電気が流れた時のような衝撃が走る。

 

 これってもしかして、小六の時のわたしの告白の返事……?

 

 わたしの片思いが実った瞬間だった。全身が震えに包まれる。

 

 「ほ、本当に? わたしなんかで良いの?」

 

 「『わたしなんか』なんて言わないで。香織だから良いの」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしは麗華に抱きついた。昔から変わらない、ミルクのような甘い香りがわたしを包み込む。


 「ねえ麗華、もう一回しても良い?」


 わたしの言葉に、麗華は小さく頷いた。今度はわたしから唇を近づける。


 それは、人生で最も長い数秒間が更新された瞬間だった。


 唇を離してからも、しばらくの間わたしたちは見つめ合った。


 「キスは私よりも、香織の方が上手みたいね」


 そんな麗華の言葉に、わたしたちは小さく吹き出したものだ。




 わたしたちが恋人の関係になったことは、誰にも言わなかったけれど、バレるのも時間の問題で、あっという間にわたしたちの噂はクラス中に広まった。反応は様々だった。大半のクラスメイトは無関心でいるか、もしくはわたしたちのことを祝福してくれた。けれど、何人かのクラスメイトには冷たい視線で見られることもあった。同性どうしの恋愛というのは、理解されにくいものなのだということを実感したのも、この時が初めてだった。けれどわたしは平気だった。もうわたしは自分の気持ちに嘘をつかないって決めたのだ。麗華と二人なら、どんな困難だって超えられると信じていたし、実際に超えられた。十年近く、色々なハードルを乗り越え続けて、わたしたちは今、こうして同棲しているのだ。


 だから、もう一つハードルを超えて、結婚式を挙げてみたいと思うのも当然の考えだと思う。澪さんの結婚式に参加してから、その思いはますます強くなっていた。




 わたしの「結婚式しよっか」発言を聞いた麗華は、しばらくの間固まっていたけれど、すぐに笑顔を浮かべて頷いた。


 「そうだね」


 わたしの心の中に、何か暖かいものが広がるのを感じた。麗華の笑顔は、いつだって素敵で、わたしに勇気を与えてくれる。


 「じゃあ決まりだね。結婚式には誰を呼ぼっか? とりあえず、ちゃんゆいとみっちゃんは決まりで良いよね?」


 わたしには、全部で三人の親友がいる。一人は先程説明した通り啓太で、残りの二人はちゃんゆいとみっちゃんだ。わたしと麗華、そしてちゃんゆいとみっちゃんの四人組は、今でも一緒に旅行に行ったりするくらい仲良しだ。小学生の頃に感じていた壁のようなものは、今や全く感じない。あれは、空気を読もうと必死になっていたわたしが勝手に作り上げたものだったのだ。少し遅かったかもしれないけれど、その事に気づけて本当に良かったと思う。今や、わたしたちは本音で話し合えるかけがえのない仲間になっていた。


 「そうだね。私もちゃんゆいとみっちゃんは呼びたいな。他にもたくさん呼びたい人はいるし、決めなきゃいけないこともたくさんだね」


 麗華の言葉に、わたしは頷く。


 「そうだね。引き出物とかも決めないと」


 「引き出物か~。引き出物って何が良いんだろう? 私たちに縁の深いものが良いよね? だとすると……さくらんぼ? 恋メロ? あとは……」


 麗華は楽しそうな表情で、様々なものを挙げていた。そんな中、わたしはボソリと呟く。


 「国語辞典……」


 わたしの発言に、麗華はプッと吹き出した。


 「香織ったら面白い。どうして国語辞典なの? 国語辞典を引き出物にしたら、みんな重くて持って帰れないよ!」


 「そう言えばそうだった」


 わたしはコツリと自分で自分の頭を軽く叩く。国語辞典は重いということをすっかり忘れていた。引き出物としては、あまり向かないだろう。


 けれど……


 国語辞典が、わたしと麗華を結びつけてくれたキーアイテムであることには間違いない。あれのお陰で、わたしは自分の恋心に気がつくことが出来たのだ。あの辞典の「恋愛」の項目に書かれていた内容は今でも覚えている。実はあの後、改訂版が発行されて、「恋愛」の項目の内容も少し変わってしまったのだけれど、それでも第七版の内容は、今でも思い出深かった。


 「麗華、好きだよ」


 わたしは自分の気持ちを確かめるように口に出す。話の流れを無視して、いきなり切り出されたわたしの告白に、麗華は驚くだろうと思っていたけれど、そんなことは無かった。


 「うん、私も。もちろん『恋愛』的な意味でね?」


 当然のことのように麗華は返事をしてくれた。それは、それぞれが初めて告白した時のように劇的なものでは無く、あくまで日常に溶け込んでしまいそうなくらいの穏やかさだったけれど、こういう時間がわたしにとっては大切なのだ。


 わたしたちはお互いに、黙ってストローに口をつけて、穏やかな時の流れに身を任せる。わたしたちは二人とも「恋愛」の意味を知ることが出来た。やっぱりそれは到底一言で表せるようなものではないけれど、無理やり表すなら……


 恋愛:麗華と一緒にいたいと思い、麗華の笑顔が見たいと思い、麗華の幸せを常に願って、自分の気持ちに嘘をつかず、麗華にとって、たった一人の特別な存在で常にあり続けたいと思うこと 『香織国語辞典』(初版)


 きっとこんな感じだと思う。わたしはスマホのメモ帳アプリを立ち上げて、気まぐれでこの文章を打ち込んだ。


 「今の香織の表情、とっても素敵」


 そう言いながら麗華は鞄からタブレットを取り出すと、サラサラとペンを走らせた。そうやってペンを走らせている麗華の笑顔も、やっぱりとても素敵だった。


 ふと窓の外を見ると、空には綺麗な虹がかかっていた。もうわたしは迷わない。今日も楽しい一日になりそうな予感がした。


(終わり)

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恋愛っていうのは……男の人と女の人が、抱き合ってキスすることでしょ? 青葉ナオ @naoaoba

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