第26話

 桜花さんの手術日の前日、麗華は遂にイラストを完成させた。目の前にあるそのイラストは、わたしから見ても、これまでのものより更に数段よく描けていた。麗華本人もようやく納得のいくものが出来て満足している様子だ。


 「明日の朝、私、お母さんにこのイラストをプレゼントしにいってくる」


 桜花さんの手術は午後に行われるから、麗華が手術前に会える最後のチャンスは明日の午前中なのだ。


 「きっと桜花さんも喜んでくれると思うよ。その感想を聞くのは、手術が終わってからだけど」


 「そうだと嬉しいな……。ねえ香織、明日は香織も一緒にお母さんのお見舞いに来ない?」


 突然の麗華の提案にわたしは少し驚いた。確かに明日は土曜日だから、学校のことは気にせずにお見舞いに行くことが出来る。でも……。


 「わたしは家で応援してるよ。手術前の大事な時間だし、家族でもない部外者のわたしが居ても邪魔になっちゃうでしょ?」


 「私は香織のこと、部外者だなんて思ってないよ!」


 麗華にはっきりとそう言ってもらえることは嬉しい。


 「ありがとう麗華。でも麗華のお父さんや澪さんが、どう思ってるかはわたしには分からない。それに、桜花さんの手術は絶対に成功するってわたしは確信してる。だから、手術が終わったらお見舞いに行くよ」


 「そっか……そうだよね。また私、自分のことしか考えてなかった……」


 しょんぼりとした様子の麗華の声が耳に届く。わたしは、目の前のイラストから目をそらして麗華に視線を向けた。麗華の両腕は、細かく震えていた。


 麗華は不安で不安でたまらないんだ……。


 そんな当たり前のことに、今更わたしは気がついた。だって、ここ最近の麗華は不安そうな様子なんて全く無かったから。でもそれは、最高のイラストを描くという目標が目の前にあったから押さえつけられていただけで、それを達成した今、これまで溜まりに溜まった不安が一気に麗華に襲いかかっているに違いない。わたしはなんて馬鹿なんだ。自分の好きな人の、そんなことにさえ気づかないなんて……。


 「麗華」


 わたしは麗華の名前を呼ぶと、右手と左手で、麗華の両手を包み込んだ。かすかな震えが直接伝わってくる。


 「きっと上手くいく。だから心配しないで」


 それ以上の言葉は必要ないとわたしは思った。その代わりに、麗華の手を握り続ける。わたしの手も麗華の手も、すっかりポカポカになった頃、ようやく震えはおさまった。


 「ありがとう香織。香織から勇気が流れてきた気がする」


 「どういたしまして」


 この後、わたしたちは特別なことは何もせず、いつもどおりに過ごした。


 「じゃあね、麗華。また月曜日、学校で会おう!」


 「うん! じゃあね、香織」


 さよならの挨拶もいつもどおりだった。だってわたしたちは信じていたから。桜花さんの手術はきっと上手くいくって。




 土日が明けて、月曜日。わたしはいつもよりかなり早く登校した。


 「おはよ……って誰もいないし……」


 どうやら今日は、わたしが一番乗りだったみたいだ。男子たちの中には、もっと早く登校している人もいると思ったのだけれど……。


 特にすることもなくって暇だったので、わたしは持ってきた本を読む。けれど内容は全然頭に入ってこなくって、それどころか本を逆さまにして読んでいたことにしばらくしてから気がついた。


 麗華はまだかな……。


 桜花さんの手術は、絶対にうまくいく。わたしは、そう確信していた。それなのに今日は、目覚ましよりも二時間も前に目が覚めて、それ以降は全く眠れなかった。例え上手くいくと信じていても、結果を聞くまでは気分が落ち着かない。


 まだかな、まだかな……。


 何十回、何百回も心の中で「まだかな」を呟いた時、慌ただしい音が聞こえてきた。誰かが廊下を走っているのだろう。きっとクラスの男子の誰かが登校してきたのだとわたしは思った。けれど、そうではなかった。


 「香織!」


 聞き間違えるはずがない。麗華の透き通った透明な声が聞こえる。


 「麗華!」


 わたしは立ち上がると、廊下に出て駆け出した。向かい側では、満面の笑みを浮かべた麗華が手を振りながら、こちらに向かって走っている。廊下を走るなんて麗華らしくない。らしくないけれど、今の麗華は凄く自然体なようにわたしには見えた。


 廊下の真ん中で、わたしたちは勢いよく抱き合う。きっとここまで走ってきたのだろう。麗華の全身は凄く暖かくて、いつもよりも強くミルクの香りが漂っていた。


 「成功だって! お母さんの手術、上手くいったよ!」


 「良かった……。良かった……!」


 あまりの安堵に全身から力が抜ける。それは麗華も同じだったようで、わたしたちは抱き合ったまま廊下に崩れ落ちた。こんな気持ちなったのは、人生で初めてだ。


 「ありがとう香織……。香織のお陰だよ……」


 突然麗華は、ポロポロと両目から涙を流し始めた。今まで、そんな麗華を見たことなんて無かったから、わたしはビックリする。


 「麗華、その涙。どうしたの? 大丈夫?」


 麗華はハッとした表情で、自分の顔に手を当てる。


 「本当だ……。もちろん、大丈夫どころか、これまで生きてきたなかで今が一番最高の気分だよ。嬉しくって、ほっとして……。よく分からないけど気づいたら涙なんか出てきちゃったけど、これはきっと嬉し涙っていうやつだと思う。今まで、本当にそんなのあるのかなって思ってたけど、あるんだね……。それに、そう言う香織だって一緒じゃない」


 えっ……?


 麗華に言われて初めて、わたしは頬を伝う水滴の感覚に気がついた。いつの間にか、わたしも涙を流していたみたいだ。


 「わたしたち、今、同じ気持ちなんだね」


 「そうだね」


 男子たちが騒ぐ声が聞こえてくるまでの数分間、わたしたちはずっと、こうして抱き合って喜びを分かち合っていた。この数分間は、これまでの人生で最高の瞬間だった。




 数日後、宣言通り、わたしは麗華と一緒に桜花さんのお見舞いに行った。


 ベッドに腰掛ける桜花さんには、未だに点滴が繋がれていて、見た目はこの前お見舞いに来た時と対して変わっていなかったけれど、明らかに何かが違った。こういうのをオーラが変わったと言うのかもしれない。この前よりも、部屋の雰囲気も心なしか明るくなっている気がする。


 「香織ちゃん、今日も来てくれてありがとね。きっと香織ちゃんがいなかったら、私は手術を乗り越えられなかったと思うわ」


 「そんなことありません。わたしなんて、何もしていないんですから……」


 手術当日だって、わたしは家にいたし、桜花さんの為に何かした心当たりはわたしには無かった。せいぜいピンク色のライトにお祈りしたくらいだ。


 「そんなことないわよ。香織ちゃんがいなかったら、このイラストは、そもそも存在しなかったんだから。これがあったから、私は頑張れたのよ?」


 桜花さんは、麗華がプレゼントしたイラストを取り出して、じっと見つめた。


 「麗華、もう、このイラストの感想を言ってもいいかしら?」


 「うん」


 麗華は小さく頷いた。


 「実は、あのイラストの感想、私もまだ聞いてないんだ。香織と一緒に聞きたかったから」


 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、麗華はわたしの耳元で囁いた。息が耳たぶにかかってくすぐったい。顔が熱くなる。でも今は、浮かれてないで桜花さんの話を聞かないと……。


 桜花さんは、コホンと一つ咳払いをしてから口を開いた。


 「まずは麗華……。しばらく見ないうちに、本当に上達したわね。このスケッチブックの他のイラストも見せてもらったけど、以前とは比べ物にならないくらい表情が自然になってるわ。その中でも、この光のページェントのイラストは特に色々な思いが伝わってきた。このイラスト一枚に限って言えば……私の漫画よりも良くかけているかも……」


 「本当?」


 麗華は、桜花さんの方へと頭を突き出す。興奮するのも無理ないだろう。ベテラン少女漫画家の桜花さんが、自分よりも上手いと認めるなんて、それは物凄いことだ。


 「このイラストだけだからね! 調子に乗らないこと! それに、麗華がこのイラスト一枚にかけた時間と、私が一コマ描くのにかける時間は全然違うんだから。まあ確かに、時間をかけた所で私には、こんな風に香織ちゃんを描くことは出来ないだろうけど……。これは麗華にしかかけない一枚だから、調子に乗っちゃダメだけど、誇っても良いと思うわ」


 麗華は「やった」と小さく呟いてガッツポーズをする。


 「そして香織ちゃん。さっきも言った通り、このイラストは香織ちゃんがいなかったら絶対に完成しなかった。麗華はきっと、香織ちゃんから色々なことを学ばせて貰ったのよ。その証拠に、麗華が描いた雅人や菫のイラストよりも、香織ちゃんのイラストの方が、ずっと気合いが入っていて、クオリティも段違いだもの」


 「べ、別に、雅人や菫のイラストだって手を抜いたわけじゃないんだよ?」


 麗華は心外そうな様子で反論する。


 「ええ、分かっているわ。香織ちゃんのイラストだけが特別なの。イラストから伝わってくるわ。麗華が香織ちゃんと一緒にいて幸せに思っていることが。わたしも負けてられないわね……。手術も無事に乗り越えられたことだし、恋メロの十二巻にも取り掛からないと……」


 桜花さんは、そう言って腕まくりする。


 「わたし、十二巻楽しみにしてます!」


 「もちろん私も。香織と感想を言い合うの、ずっと楽しみにしてるんだから」


 「じゃあ二人のためにも、お母さん頑張らないとね」


 それから、わたしたちは三人で時間を忘れて話し続けた。桜花さんは、聞き上手だ。わたしも麗華も、普段は照れくさくて中々言えないことが、桜花さんの前では何故か勝手に口から漏れている。この一時間ほどで、麗華はわたしのことをとても大切に思ってくれているということに何度も気付かされた。それはとても嬉しくて……けれど、その度に「恋愛」の二文字が頭をよぎって、少しだけ胸が痛くなる。


 「ちょっと私、お手洗い行ってくるね」


 麗華はそう言って、一度病室から離れる。桜花さんとわたしだけが病室に取り残された。


 「桜花さん、実は一つお聞きしたいことがあるんです」


 わたしは鞄から国語辞典を取り出しながら、話を切り出した。どうしても桜花さんの意見を聞きたくて、重かったけれど頑張って持ってきたのだ。


 「それは……辞書?」


 桜花さんは不思議そうな顔で、わたしの手元を見つめる。


 「そうです。桜花さんに見てもらいたいのは、このページなんですけれど……」


 わたしはピンクの付箋を目印に国語辞典をめくる。ここ最近、何度もこのページを見ているので、ものの数秒で「恋愛」のページを開くことが出来た。


 「桜花さんは、この国語辞典の『恋愛』の説明について、どう思いますか?」


 桜花さんは、わたしが手渡した辞書に視線を下ろすと、何回か視線を往復させる。


 「流石、国語辞典ね……。ここにかかれていることは、きっと多くの人に当てはまる『恋愛』だと思うわ。もちろん、前も言った通り『恋愛』を一言で言い表すなんてできっこないけれど、『恋愛』している人が、これを読んだらきっと、共感する部分はあるはずよ。私にだって、こういう気持ちに心当たりあるもの。きっと国語辞典を作った人たちも必死で頭を悩ませて、この文章を書いたはずよ」


 桜花さんは、感心した様子で小さく頷きながら何度も何度も同じ部分を読んでいた。対するわたしは、心の中でため息をついていた。


 やっぱり、わたしは変な人なんだ……。


 恋メロを描いて、日々、「恋愛」について考えている桜花さんも国語辞典の説明に納得しているのだ。だとしたらやっぱり、同性を好きになってしまったわたしはおかしい。やっぱり、この気持ちには厳重に鍵をかけて、一生、心の奥底にしまっておこう。わたしが、そう決意しかけた時、再び桜花さんは口を開く。


 「でもね……」


 桜花さんは、国語辞典から顔を上げると、まっすぐとわたしの方を向いた。


 「この国語辞典も少女漫画と同じように、多数ある『恋愛』のうちの一部を説明したに過ぎないの」


 「……それってつまり、どういうことですか?」


 「皆が皆、ここに書かれていることに完全に当てはまる『恋愛』をしているわけではないってこと。例えば、この文章の最初に『特定の異性に対して』って書かれているでしょ?」


 わたしの胸が、ドキリと飛び跳ねる。まさにそこが、わたしが一番気になっていた部分だからだ。


 「でもね、私は異性じゃなくて、同性の間でも『恋愛』は成り立つと思うの。もちろん、男の人と女の人で『恋愛』する人がほとんどだと思うし、私が描いている恋メロだってそうだわ。でも、もしも男の人が男の人に、もしくは女の人が女の人に、同じような感情を持っていたら、それは『恋愛』じゃない、とは私は言えない」


 桜花さんの話を聞くにつれて、封印しようとしていた気持ちの鍵が、再び開かれようとしているのをわたしは感じた。


 「でも、周りの人は皆、男の子と女の子同士で好きあっているのに、自分だけそうじゃなかったら、それっておかしいとは思わないんですか?」


 「確かにおかしいって言う人はいるかもしれないわ。でも、だからって自分の気持ちに嘘をつくことなんて出来ないでしょ?」


 確かに、わたしも薄々気がついてはいた。どんなにごまかそうとしても、自分には嘘をつけないということに。そして、麗華への気持ちを封印すればしようとするほど、その気持ちがむしろ強くなっていることに。


 「実は私、昔は両親に漫画家になることを反対されていたの」


 桜花さんは、自分の手のひらをじっと見つめながら呟く。


 「でも、私はお話を考えたり、絵を描くのが大好きで……。どんなに親に反対されても、その気持ちは抑えられなくて……。最終的には親の反対を押し切って少女漫画家になったのよ。辛いことはたくさんあった。途中で諦めそうになったことだって何回もあった。けれど、それでも自分の気持ちを信じて、頑張って、次第に親にも認めてもらえるようになって、やっとのことで、皆に自分の描いた漫画を読んで貰えるようになったの。大変だったけれど、それはとっても嬉しいことで、自分の気持ちに嘘をつかなくってよかったって今でも思ってる」


 今や売れっ子少女漫画家にも、そんな時代があったんだ……。


 わたしは黙って桜花さんの話に耳を傾けた。


 「ちょっと話が脱線しちゃったわね。つまり私が言いたかったのは、自分の気持ちに嘘をついちゃダメってことよ。無理やりごまかしたりしたら、きっと後で後悔するのは自分だもの……。だから『恋愛』だって、それは男の人と女の人の組み合わせだけじゃなくて、男の人と男の人、女の人と女の人の組み合わせだってあり得ると思うの」


 自分の気持ちに嘘をついちゃダメ……。


 桜花さんのその言葉は、わたしの心に深く突き刺さった。きっと今のわたしが一番求めていたアドバイスはこれだと思う。


 「桜花さん、ありがとうございます。最近ちょっと、色々と悩んでいたんですけど、今、その悩みが解決しました」


 「本当? それなら良かった……」


 桜花さんは微笑を浮かべながら、わたしに国語辞典を差し出す。わたしは、それを受け取ると鞄にしまった。


 「ねえ、香織ちゃん」


 桜花さんがわたしの名前を呼ぶ。


 「はい?」


 「もしかして香織ちゃんって……」


 桜花さんが何かを言いかけた時、病室の扉が開く音がした。麗華が戻ってきたのだ。


 「おまたせ。それでさっき、どこまで話したっけ?」


 「え~っと確か、香織ちゃんの運動神経の話だったかな?」


 「そうだった! ねえ、お母さん聞いてよ、香織って、私なんかと違って、運動すっごく得意なんだよ! ねっ、香織?」


 「麗華ったら褒めすぎ。わたしなんかより運動出来る人はクラスにたくさんいるんだから……。でも、確かにわたし、体育の時間は大好き」


 結局このまま三人での会話に花が咲いてしまい、最後に桜花さんが何を言おうとしていたのか、聞くことは出来なかった。


 けれど、それは今のわたしにとっては些細なことだった。何故なら、ここ最近、ずっと悩んでいたことが遂に解決したから。


 もう、わたしは自分の気持ちに嘘をつかない。間違いなく今のわたしは『恋愛』している。誰がなんと言おうと、わたしがそう思っているのだから。もう、わたしは迷わない。今のわたしは、自分の気持ちに絶対の自信を持っている。準備は既に整った。光のページェントの時は伝えられなかった気持ちを、今なら伝えられる気がした。




 病院から出ると、チラチラと雪が降っていて、地面は薄っすらと白くなっていた。


 「わぁ……雪だ!」


 前に向かって駆け出した麗華は、両手をいっぱいに広げて全身で雪の結晶を受け止める。それはもう、凄いはしゃぎようで、一昔前のわたしに、今の麗華の姿を見せてもきっと信じてもらえないだろう。でも、わたしはそんな麗華の笑顔が大好きで大好きでたまらない。気づけば、わたしの口は勝手に動いていた。


 「麗華」


 「どうしたの、香織?」


 可愛らしく後ろで手を組んで、上を向いていた麗華がこちらを振り返る。その姿はまるで、雪の妖精みたいに美しかった。


 「大事な話があるの……」


 「分かった」


 麗華は、わたしの真正面に移動する。雪を踏みしめるたびに、ギュッ、ギュッという心地よい音が聞こえた。


 「それで、話ってなぁに?」


 琥珀色の瞳が、じっとわたしを見つめる。そこに映っているわたしは、今、どんな表情をしているのだろう。不安な顔? それとも緊張した顔?


 わたしが麗華に自分の気持ちを伝えることで、今後、麗華との関係は確実に変わると思う。それが、わたしにとって良い方向に変わるのか、悪い方向に変わるのかは分からない。正直、怖い。今の関係のままでも十分心地よくて、本当に変える必要があるのか、わたしは不安になる。けれど、わたしはもう決めたんだ、自分の気持ちには嘘をつかないって。麗華と友達になれたのだって、わたしがもっと麗華のことを知りたいと思ったからだ。もしも、その気持ちを気のせいだと思って無視していたら、きっと麗華はわたしにとって、ただのクラスメイトのままだったと思う。自分の気持ちを抑え込んじゃダメなんだ。

 

 わたしは軽く目を瞑ってからパッと開いた。覚悟はできた。わたしの持っている、全ての勇気をかき集めた。きっと今のわたしは、これまでで一番かっこいい表情をしているとしていると思う。

 

 「麗華、わたし、ようやく『恋愛』の意味が分かったよ」

 

 わたしの言葉に、麗華は瞳をより一層輝かせる。

 

 「本当? 香織、凄い! 私にも教えて!」

 

 ほんの少し前かがみになる麗華に向かって、わたしはゆっくりと首を横に振る。

 

 「ごめんね、麗華。教えられるなら教えたいのだけど、これは、言葉で誰かに教えられるようなものじゃないの。『恋愛』の意味に知って、ようやくわたしにも分かった。これは……誰かに恋している人にしか分からない気持ちなの……」

 

 「……ということは、香織も遂に、誰かに恋したんだ! おめでとう香織! 香織に先を越されちゃったのは、ちょっぴり悔しいけれど、私も負けないからね! それにしても、一体相手は誰なんだろう……もしかして啓太くん? いっつも啓太くん、香織のこと見てるもんね」

 

 麗華は自分のことのように、わたしが恋に落ちたことを喜んでくれた。麗華のそんな所も、愛おしくてたまらない。それに、啓太がわたしを見ていることに気づいていたなんて、やっぱり麗華は凄い。わたし自身は、つい最近まで、そんなこと全然知らなかったのに……。


 こうして麗華のことを新たに一つ知るたびに、胸が高まる。麗華の些細な言動一つで、オロオロしたり、大はしゃぎしたくなる。間違いない、やっぱりわたしは……


 「麗華のことが好きなの」

 

 その言葉は、驚くほどスルリと口から出てきた。きっとそれは、わたしの中の迷いが完全に無くなったからだと思う。わたしは、今の自分の気持ちに絶対的な自信を持っている。

 

 「……えっ?」

 

 対する麗華は、まるで彫像になってしまったかのように動きを止めた。クラスの男子の名前を挙げながら、一本ずつ折り曲げていた指も微動だにしていなかった。

 

 「香織、それってどういう……」

 

 何とか麗華は口だけ動かして、その言葉を絞り出すように言った。

 

 「麗華が驚いちゃうのも無理ないよ。だってわたしの『好き』は、普通なら女の子が男の子に、もしくは男の子が女の子に対して思うような『好き』だもの……。麗華のことを見ているだけでドキドキして、麗華に触れる度に真っ赤になって、麗華に抱きつかれたりしたら、心臓がはち切れそうになるの。つい最近までは、それは気のせいだって思ってたんだけど、いつの間にか、それは無視できないくらいになっていて……。一度気がついたら、もう止まらなくって……。そしてついさっき確信したの。『あぁ……わたしは恋してるんだ……』って。いつからそんな状態になっていたのかは、今ではもう分からない。気づいたら、そうなっていたんだもん」

 

 麗華は、わたしが一言話す度に顔を赤くさせていた。

 

 「か、香織……わ、私……」

 

 何かを言おうとする麗華の唇を、わたしは右手で軽く抑える。麗華の柔らかな感触が、指先を通して伝わってきた。

 

 「返事は……今じゃなくても大丈夫。ただわたしは、麗華に自分の気持ちを知って欲しかっただけだから……」

 

 わたしはそっと手を離す。麗華はコクコクと小さく頷いていた。


 「か、香織の気持ちはすっごく嬉しい。だから、も、もう少し考える時間をちょうだい」


 何度も噛みながら麗華はそう言った。


 「もちろん。麗華が納得するまで考えて。わたしはずっと待ってるから」


 「きょ、今日はありがとね、香織。じゃあ、また明日、学校で会おうね」


 「うん。また明日ね」


 麗華は、やけに大げさに手を振ると、何度かつまづきそうになりながら、道を駆け抜けていった。


 ビックリさせちゃったかな……。


 ここまで動揺した様子の麗華を見るのは初めてだった。けれどそんな麗華も、凄く可愛くて愛おしい。


 麗華の姿が完全に見えなくなってから、わたしは大きく息をついた。全身の力が一気に抜けて、側にあったガードレールにもたれかかってしまう。


 誰かに告白することが、こんなに体力を使うことだなんて思ってもみなかった。ついさっき、体中からかき集めた勇気も一瞬で使い果たしてしまい、今のわたしはセミの抜け殻みたいな状態だ。


 別に激しい運動をしたわけでもないのに、しばらくこうしてないと、とても動けそうに無かった。


 数分経って、ようやく少し体力が回復してきた頃、聞き覚えのある声が前から聞こえてきた。


 「香織?」


 顔を上げると、そこには啓太の姿があった。


 「おい、大丈夫か?」


 啓太は、ガードレールに体重を預けるわたしの様子を見て慌てて駆け寄る。


 「大丈夫。ちょっと休んでただけだから」


 啓太に心配をかけないように、わたしはガードレールから離れる。いつもよりも少し、体が重い。


 「全く今日は、クラスの奴によく会うな……。さっきは麗華の奴がすごい勢いで走ってたし……。一体、何だったんだあれは……」


 啓太は不思議そうな表情で、自分が歩いてきた道を振り返る。


 そう言えば……啓太もわたしに告白した時は、きっとこんな感じだったのかな。


 啓太の横顔を見ながら、わたしはそんなことを考えた。あの時のわたしは、人に思いを伝えることが、どんなことなのか全然分かっていなかった。こんなにも大変なことなんて、これっぽっちも思っていなかった。


 「やっぱり凄いよ、啓太は……」


 「な、なんだよ……。突然どうしたんだ?」


 啓太はわたしに褒められ慣れていないから、訝しげな様子でこちらを見る。


 啓太になら、言ってもいいかな……。


 啓太はあの時、自分の思いをわたしに伝えてくれたのだから、わたしもそれに答える必要があると思う。


 「実はわたし、さっき麗華に告白したの……」


 わたしの呟きに、啓太は一瞬動きを止めた。けれど思いの外、すぐに元の状態に戻った。そして、


 「そっか……」


 と、たった一言だけ呟く


 「……驚かないの? わたしも麗華も女の子なんだよ? てっきり『気持ち悪り~』とか言われると思ったんだけど……」


 予想以上に啓太の反応があっさりとしていたので、わたしは驚いていた。


 「まあ昔なら言ってたかもしれないけど、もう、そういうのは卒業したんだよ。人を好きになる気持ちって、自分でどうこうできるものでもないしさ……。そりゃまあ、少しは驚いたけどな? ただお前、麗華と話しているときは、最高の笑顔を浮かべてることが多かったからさ、よく考えてみれば、そんなに不思議な話でもないなって思ったんだよ……」


 そっか……。わたしが麗華のことをずっと見ていたように、啓太はずっとわたしのことを見てたんだよね……。


 「やっぱ啓太は凄いよ」


 わたしはもう一度、さっきと同じことを言う。一昔前の啓太と今の啓太とでは、顔つきも全然違うように見えた。この短期間で、啓太は物凄く大人っぽくなった気がする。それは……わたしよりも一足先に「恋愛」を経験したからなのかもしれない。


 「やっぱり香織、俺のことからかってるだろ?」


 「からかってないってば。本当に啓太のことは尊敬してるって」


 「いやいや、だって今までそんなこと一度も言ったことないだろ」


 「じゃあこれから、たくさん言ってあげる。凄い凄い凄い凄い……」


 そんな風にふざけ合いながら、わたしたちは一緒に歩いた。次第に、体に元気が戻ってくる。


 何だか啓太とは、そのうち親友になれそうな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る