第22話

 麗華のお母さんが入院している病院は、わたしがこれまで行ったことのあるどんな病院よりも大きくて立派だった。そのスケールに圧倒されながら、わたしは迷子にならないようにひたすら、澪さんの後ろをついていく。


 「ここがお母さんの病室」


 澪さんが手を向けた先には、「椎名 桜花おうか 様」と書かれたプレートがあった。恐らくこれが、麗華のお母さんの名前なのだろう。

 澪さんは、中指でコンコンと扉をノックする。


 「お母さん、入るよ?」


 声をかけてから、澪さんは扉を開ける。そこにはピンク色のパジャマに、白のカーディガンを羽織った一人の女性がいた。


 「澪、今日もありがとうね。そして、あなたが香織ちゃんね? はじめまして」


 麗華のお母さん、いや、桜花さんは、そう言って小さく頭を下げた。


 「こ、こちらこそ、はじめまして! 麗華のクラスメイトの朝比奈香織って言います!」


 緊張を抑えきれないまま、わたしも挨拶した。少し噛んでしまったのが恥ずかしい。


 それから澪さんと桜花さんは言葉のキャッチボールを何往復かしていたけれど、しばらくして澪さんは、「せっかく香織ちゃんが来てくれたのに、私ばっかり話しててもしょうがないよね!」という呟きを残して病室からいなくなってしまった。わたしと桜花さんだけが病室に取り残される。


 わたしはますます緊張してしまう。聞きたいこと、話したいことはたくさんあったはずなのに、いざとなると、上手く口が回らない。わたしは、ただただ桜花さんを見つめることしか出来なかった。


 目の前の桜花さんは、麗華にそっくりだった。肌は白くて、瞳の色は麗華と同じで琥珀色、二重な所も一緒だ。


 麗華はお母さん似だったんだな……。


 思わず心の中で、そう呟いてしまうほどだ。とはいえ、全てが麗華と同じというわけでもない。一番目立つ違いは髪だ。麗華は肩まで届くくらいのセミロングだけれど、桜花さんの髪はそれよりも短くて、わたしと同じくらいだった。それに髪の色も、麗華は黒だけど桜花さんは若干茶色がかってる。


 「そんな風にじっと見つめられると、照れちゃうわね……」


 桜花さんは頬に手を添えながら、わたしにチラリと視線を向ける。


 「す、すいません!」


 わたしは慌てて桜花さんの顔から目をそらす。たまたま視界に桜花さんの腕が映る。その腕は点滴に繋がっていて、桜花さんが病人だということを強く意識させられた。


 「ふふっ……冗談よ。今日は、お見舞いに来てくれてありがとうね。一度、香織ちゃんには会ってみたかったの」


 桜花さんは、笑い方も麗華そっくりだった。


 「最近の麗華は、いつもお見舞いに来るたびに、楽しそうに香織ちゃんのことを話してくれるのよ? あんな表情をする麗華を見たのは久しぶりだったから、最初は驚いたわよ。昔の麗華は、いつもニコニコしている子だったんだけど、私が病気になってからは、すっかり笑顔が消えちゃって……。感情の起伏も乏しくなって、妙に生き急いでる感じなの。多分、私も旦那も、あんまり家にいられなくなって、家事も炊事も、自分のことは全部自分でやらなきゃいけなくなったからでしょうね……」


 そうだったんだ……。


 特に出会ったばかりの頃は、麗華は大人っぽいというイメージしか無かったけれど、それにはこういう理由があったらしい。


 「でもね、香織ちゃんの話をしている時のあの子の表情は凄く自然で、それでいて子供っぽいの。もちろんいい意味でね? だから、麗華をそんな表情にさせてくれた香織ちゃんってどんな子なんだろうって、ずっと気になっていたのよ。麗華と友達になってくれて、本当にありがとね」


 桜花さんはニコリと微笑む。でも、その笑顔が今のわたしには少しプレッシャーに感じられた。


 「すみません、そのことなんですけど、最近の麗華、何だか少しそっけないんです……」


 気づけばわたしは、麗華のことを桜花さんに相談していた。


 「もちろんわたしは麗華のことを友達、いえ、親友だと思っているんですけど、麗華はそうは思ってないんじゃないかって……。もしかしたらわたし、気づかないうちに麗華に嫌なことしちゃったんじゃないかって、不安なんです。わたしは、もっと麗華と一緒に遊びたいし、一緒に恋メロの最新刊だって読みたい。でも麗華の邪魔はしたくない。一体どうすれば……」


 「ごめんなさいね香織ちゃん。それは全て私のせいだわ。この前、私の体調が急に悪くなった時から、麗華はずっと部屋に閉じこもってるって澪から聞いたわ。その理由は麗華に聞いたけれど、教えてくれなかった……。私が注意しても、多分あの子はやめないわ。そういう頑固な所あるから……。でも、麗華が香織ちゃんのことを嫌っているってことは無いと思う。あの子の瞳を見ていれば、それくらいのことは分かるもの。ただ今は、色々と悩んでいるだけだと思うから……。本当にごめんなさい」


 澪さんはわたしに向かって頭を下げる。


 「い、いえ、桜花さんは悪くありません! 頭を上げて下さい!」


 慌ててわたしはそう言ったけれど、それでも桜花さんは一向に頭を上げようとしなかった。


 「いいえ、それだけじゃないわ。実は恋メロの最新巻だけれど、それも延期が決まったの。ごめんなさい……私の体調のせいで……」


 「とりあえず頭を上げて下さい! それに、恋メロの延期と桜花さんは全く関係無いじゃないですか」


 「いいえ、大アリよ。だって恋メロを描いているのは私なのだから……」


 「えっ……!」


 桜花さんが、恋メロの作者のサクラ先生?


 「本当ですか?」


 にわかには信じられなくて、わたしは聞き返す。すると桜花さんは、近くにあった裏紙を一枚手にとって、ペンを走らせた。


 「本当よ」


 そこには、雅人と菫のイラストが描かれていた。確かにそれは、恋メロに描かれているものと全く同じ雰囲気を纏っている。


 「わたし、恋メロ大好きなんです……」


 まさか自分の好きな漫画の作者が目の前にいるなんて夢にも思わなかった。


 私のお母さんは、「恋愛」に関することに詳しいって澪さんが言ってたのは、こういうことだったんだ……


 「あの、桜花さん……いえ、サクラ先生……」


 「桜花でいいわよ」


 「桜花さん……実はもう一つお話したいことがあるんです……」


 わたしは澪さんに相談した時と同じように、啓太との間にあった出来事を話した。一通り話を聞き終わって、桜花さんはゆっくりと小さく頷いていた。きっと恋メロを描いている桜花さんなら、啓太の気持ちだって分かるはずだ。


 「なるほど……その男の子は香織ちゃんのことが好きで、それなのに香織ちゃんに意地悪しちゃうのね?」


 「はい」


 「しかも、自分でもその理由が分からない……」


 「はい、そう言ってました……」


 桜花さんは顎に手を当てて、しばらくの間考え込む。


 「う~ん、残念だけれど、本人も分からないことは私にだって分からないわ」


 「えっ……? 桜花さんでも分からないんですか?」


 想定外の答えに、わたしは拍子抜けした。


 「ええ。他人の気持ちってのは、そう簡単に分かるものじゃないもの……」


 「そうですか……」


 わたしは項垂れた。桜花さんなら、きっとこの謎を解決してくれると思ったのに……。


 「でも、私なりの想像なら出来るわよ」


 「想像……ですか?」


 「ええ。これが正しいかどうかは分からないけれど、もしかしたらこうだったんじゃないかなっていう想像。それでも良ければ、話すけど……」


 「ぜひ聞かせて下さい!」


 わたしはベッドに向かって身を乗り出した。


 「多分だけど、その子は香織ちゃんに興味を持ってほしかったんじゃないかな?」


 「興味……ですか?」


 「ええ。からかうってことは、その子は香織ちゃんとお話したかったんだと思う」


 「でも……それだったらからかうのは逆効果じゃないですか? 普通に話しかければいいのに……。からかうくらいなら、何もしない方が良いと思いますけど」


 「うん。冷静に考えれば、もちろんそうなんだけどね。でも、中々その通り行動するのって難しいの。恋メロの雅人と菫だって、どちらかが告白すれば全てが解決するはずなのに、出来てないでしょ?」


 「確かに……そうですね」


 「それと一緒で、本当はその子だって普通に香織ちゃんに話しかけたかったんだと思う。けれど、どうしても香織ちゃんを前にすると恥ずかしくなちゃって……それで気づいたら意地悪なこと言っちゃうんじゃないかな。で、それを繰り返していたら、いつの間にかからかうことでしか香織ちゃんとコミュニケーションが取れなくなっちゃったんだと思う。もちろん、さっきも言った通り、これは私の想像だけど」


 桜花さんの説明は、凄く分かりやすかった。これなら、啓太がわたしにちょっかいばかりかけていた理由も説明がつく。やっぱり恋メロの作者というのは伊達ではない。


 「あの……桜花さん。桜花さんは『恋愛』って一言で表すとどういうものだと思いますか?」


 今まで、誰に聞いても分からなかったこの質問。桜花さんならもしかしたら答えられるかもしれない。そう思ってわたしは尋ねる。


 窓の外を見て、しばらく考えてから桜花さんは答えを口にした。


 「『恋愛』っていうのは、一言では到底言い表せないものだと私は思う。ううん、『恋愛』に限らないわ。人の感情っていうのは一言では絶対に表せないもの」


 これまで質問に答えてきた人とは違って、桜花さんは分からないとは言わなかった。


 「一言では言い表せないもの……ですか?」


 「うん。一口に『恋愛』って言っても。それには色々な形があると私は思う。そして、それぞれの『恋愛』は、少しづつ違う意味を持っているの。だから『恋愛』が何かって聞かれても、一言では言えない。一言では言えないから、多くの『恋愛』の内のたった一つを切り取って、その様子を描くのが、私みたいな少女漫画家の役目……だと思ってるわ。でも、その一つの『恋愛』を追うだけでも、凄く難しいの。雅人と菫の恋愛だけでも、私は既に何年間も追い続けているもの。多分、本当に『恋愛』が何かを理解するためには、自分で体験することが不可欠なんじゃないかしら」


 「自分で体験することが不可欠……」


 わたしは桜花さんの言葉を復唱して噛みしめる。


 「そう、体験が大事なの。そして少女漫画は、その体験のきっかけになるためにあるんだと思う。例え少女漫画を読んだって、『恋愛』がどんなものはきっと分からないけど、『恋愛』がどんなものなんだろう? って気分にはなるでしょ?」


 「はい……」


 わたしが「恋愛」に興味を持ったのは、映画がきっかけだけれど、その興味は恋メロや、その他の少女漫画を読むことによって更に増幅されたと思う。


 「そうやって『恋愛』に興味を持ってもらって、最終的には自分で『恋愛』を体験してもらえれば、私は嬉しいわ」


 「そうなんですね……。わたしはこれまでずっと『恋愛』がどんなものなのか知りたかったんですけど、それじゃあ当分知るのは無理そうです。だって、相手がいませんから……」


 わたしは、心の中で大きくため息をついた。これまで、「恋愛」が何かを知るためにわたしがやってきたことは、あまり意味のないことだったと知って……。まあ、その過程で麗華と友達になることが出来たのだから、全てが無駄だったとは思わないけれど……。


 「香織ちゃん、それは違うわよ」


 そんな風に落ち込んでいたわたしの言葉を桜花さんは、はっきりと否定した。


 「でも本当に、わたしが好きになりそうな男子なんていないんです」


 「そんなこと分からないじゃない。世の中『一目惚れ』って言葉だってあるくらい何だから。それに、既に恋愛感情を抱いているけれど、自分が気づいていないだけっていうことだってあるのよ? わたしが今の旦那に会った時は、そうだったもの。最初はただの友達だったのに、いつの間にか彼のことばかり考えるようになっていて……それでもしばらくは友達だと思っていたのだけれど、別の女の子の友達とお話していた時に言われちゃったの。『最近の桜花って、一成さんのことばっかり話してるよね。もしかして好きなの?』って。あっ、一成ってのは旦那の名前ね? その時、私も自分がいつの間にか恋に落ちていたことに気がついたわ。その瞬間、わたしは『恋愛』がどういうものなのか理解したの。うまく言葉には言い表せないけれど、強いて言うなら世界の色が変わったような感じかしら……。私が少女漫画家としてデビュー出来たのもその頃で、物語に深みがあるって褒められたわ。きっとそれも、恋に落ちる感覚を経験したからだと思う。だから香織ちゃん? あなただって、いつ『恋愛』を経験するかなんて分からないの。もしかしたら、既に恋に落ちているかもしれないわ。明日、突然それに気づく可能性だってあるんだから。決して焦る必要なんて無いのよ」


 「分かりました……」


 桜花さんの言っていることは難しくて、全て理解できたわけでは無いけれど、焦る必要が無いということは分かった。少女漫画家の桜花さんが言っているのだ、きっとそれに従うのが良いだろう。きっといつか分かる日が来る。まあ、流石に明日ってことは無いと思うけれど……。


 「桜花さん、ありがとうございました。おかげでちょっぴりスッキリしました」


 「いえいえ、こちらこそ、香織ちゃんと話が出来て楽しかったわ」


 それからしばらくの間、わたしは桜花さんと色々なことを話した。麗華の話とか恋メロの話とか。いつの間にか緊張も無くなっていて、わたしは滑らかに話すことが出来るようになっていた。話に一段落ついたタイミングで、澪さんが病室に戻ってくる。


 「香織ちゃん、そろそろお家に帰ろっか。時間も時間だしね」


 壁にかけられた時計の針は四時半頃を指していた


 「そうですね……。門限もありますし、わたしは今日はこれくらいでお邪魔します。桜花さん、今日は本当にありがとうございました」


 わたしは桜花さんに向かって深く頭を下げた。


 「こちらこそ本当にありがとう。それと、これからも麗華のことをよろしくね。あと……これは私のわがままなお願いなのだけれど、もしも麗華が暴走しそうになったら止めてあげて。あの子、強情だから、これからも無理し続けるかもしれないわ。本当なら、そういう時は母親である私が何とかするべきなのだけれど、この通り私はダメダメだから……」


 桜花さんは、管の繋がれた自分の右腕をやるせない表情で見つめた。そんな桜花さんの負担を少しでも減らしたいと思ったわたしは、はっきりとした声で返事をした。


 「もちろんです。わたしは麗華の友達、いいえ、親友ですから」


 実際の所、わたしが麗華を止められるのかも全く分からない。けれど何故か、この時のわたしには自信が満ち溢れていた。桜花さんの口から直接、麗華のことを頼まれたのが、嬉しかったから……かもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る