第21話

 翌日、わたしが登校したときには、既に啓太はいつもどおりだった。昨日の夕方の出来事が嘘だったんじゃないかと思ってしまうくらい、普通に周りの男子たちと良く分からないことをしている。普段だったら、またバカなことしているなぁ……と思っているところだけれど、昨日の啓太を見てからは一概にバカには出来ない。それに、わたしは昨日啓太を振ったのだから、何だか少し申し訳ない気分になる。


 そう言えば昨日、わたしは啓太と友達になるって言ったばかりだったんだ……。友達なら……。


 「おはよう、啓太!」


 わたしは、人生で初めて自分から啓太におはようの挨拶をした。啓太は、弾かれたようにわたしの方を向く。一瞬驚いた様子だったけれど、すぐに表情を緩める。


 「あぁ、おはよ~香織」


 今まで啓太とは、口喧嘩以外ほとんどしたことが無かったから、こういうのは物凄く新鮮だけれど、思っていた以上に気持ちのいいものだった。少しだけ気分が晴れる。

 しかし、それもすぐに再び曇り空に戻ってしまう。


 「あっ、麗華、おはよう!」


 今日も、チャイムギリギリの時間に麗華は登校してきた。わたしはいつもどおり麗華に挨拶する。


 「香織……。おはよう……」


 しかし今日の麗華の声は、いつにもまして沈んでいる様子だった。よくよく見ると、目にクマも出来ているような気がする。


 「れ、麗華? 何だか体調悪そうだけど大丈夫?」


 わたしは麗華の側に近づく。近くで見ると、より一層、麗華が疲れている様子が分かった。けれど麗華は……。


 「大丈夫! 香織は心配しないで」


 そう言い残すとすぐに自分の机に向かい、自由帳を取り出した。


 麗華……。


 どう見ても今の麗華は大丈夫なようには見えなくて、本当はもっと休んで欲しいのだけれど、わたしが余計な口出しをすることで、麗華の目標や夢を壊してしまうかもしれないと思うと、結局何もすることは出来なかった。




 「じゃあね、香織……」


 今日も麗華は、さっさと家に帰ってしまう。しばらくして、わたしも家に帰ったけれど、ここ最近色々なことがありすぎて、全く心が落ち着かなかった。


 啓太のことだって、本当なら真っ先に麗華に相談したいのに……。

 

 わたし一人とペンちゃんの胸だけに秘めておくには、昨日の出来事の衝撃は大きすぎた。気づけばわたしは、麗華の住むタワーマンションの目の前まで来ていた。オートロックの機械に麗華の家の部屋番号を打ち込む。後は発信のボタンを押すだけだ。しばらくの間、わたしは打ち込まれたデジタルの数字をじっと見つめていたけれど、結局取り消しのボタンを押す。頑張っている麗華を邪魔することなんてわたしには出来なかった。


 ため息をつきながら、わたしは来た道を引き返す。その時、ポニーテールを揺らしながら歩く、制服姿の女性を見つけた。あれは……


 「澪さん?」


 「あれっ、香織ちゃんだ」


 「お家に帰ってきた所ですか?」


 「うん。香織ちゃんこそ、どうしたの? うちのマンションの方から来たみたいだけど……」


 「実は……麗華と少しお話したかったんですけど、やっぱり麗華の邪魔をするのも良くないかなと思って、直前で引き返したところです」


 「あ~、ごめんね香織ちゃん。最近の麗華、家でもずっと部屋にこもりっぱなしで絵を書いてて……。わたしが何言ってもやめる気配は無いの……。ただ学校にはちゃんと行ってるし、お母さんのこともあるから私もあんまり強くは言えなくて……」


 「いえ、大丈夫です。本当は寂しいですけれど、麗華の邪魔はしたくないですから……」


 わたしはここで話を切り上げようとしたのだけれど、澪さんは顎に手を当てて何かを考えている様子だった。


 「……香織ちゃん、今日、この後時間ある?」


 「ええ、門限の五時までなら……」


 「じゃあちょっと、お姉さんに付き合ってくれない?」


 「えっ?」


 少し迷ったけれど、結局わたしは澪さんについていくことにした。澪さんは、わたしを近所のカフェに連れてくれた。




 「澪さん、ありがとうございます。飲み物をご馳走になってしまって……」


 わたしは澪さんに、マンゴージュースを奢ってもらった。


 「良いの良いの! 私が香織ちゃんを誘ったんだから」


 向かいの席に座る澪さんは、ストローでアイスコーヒーを吸っている。本当はアイスコーヒーじゃなくて、もっと別の名前が付いていたのだけれど、澪さんが唱えていた呪文のように長い注文は、わたしには全く理解できなかった。でも茶色くって、カフェで出てきて、冷たそうな飲み物だから、きっとアイスコーヒーだとわたしは思う。

 高校生になれば、わたしにもあの長い注文の意味が分かるようになるんだろうか。高校生になって、更に大きくなった麗華と一緒に、呪文を唱えている自分を想像する。凄く楽しそうだ。高校生になったら絶対に麗華と来たい。

 

 わたしも澪さんに倣って、マンゴージュースをストローで吸う。このマンゴージュースは、普通のジュースよりも濃厚で美味しかった。わたしも澪さんも、こんな感じでしばらくの間、ちびちびとストローに口をつけていたのだけれど、澪さんは突然話を切り出した。

 

 「ねえ香織ちゃん。香織ちゃん、この前、『恋愛』って何? って私に聞いたわよね?」

 

 「ええ……」


 「それの答えなんだけど……やっぱり私にも分からないみたい」


 「でも澪さん、雄一さんと付き合ってますよね? それでも分からないものなんですか?」


 「そのことなんだけど……実は私、ついさっき雄一と別れちゃった」


 サバサバとした軽いノリで、澪さんは打ち明ける。


 「えっ……えっ? それってつまり、雄一さんはもう彼氏じゃないってことですか?」


 「うん」


 「でも何で……。あんなに仲が良さそうだったのに……。もしかして喧嘩でもしたんですか?」


 わたしの質問に、澪さんはゆっくりと首を横にふる。


 「ううん、そういうわけじゃないの。喧嘩したとか、雄一が私に酷いことしたとか、そんなことは全然なくて……むしろ雄一は凄く優しかった」


 「なら!」


 それで別れる理由がわたしには全く分からない。


 「私は雄一と手を繋いだし、キスだってした。恋人らしいことをしてみたくて、ハグしたり色々なことをやってみた。でもね……別に胸がドキドキしたりとか、そんなことは全然無かったの。ふ~ん、こんなもんかっていつも思ってた。こういうのが『恋愛』なのかなって……。特に不満があるわけでは無いから、漠然と雄一の彼女として私は過ごしてた。でも、あの日、香織ちゃんに『恋愛』ってなんなんですか? って聞かれた時、私は上手く答えられなかった。あの時から、私は本当に自分が雄一の彼女で良いのかなって自問自答するようになって……。そんな時に、お母さんの様態が急変して……。いつの間にか、雄一のことなんてすっかり頭から消えちゃってて……。それでも雄一は私に優しい言葉をかけ続けてくれてたんだけど、今のままじゃ私にとっても雄一にとっても良くないと思って……。それで私から別れ話を切り出したの」


 「それで……雄一さんは納得してくれたんですか?」


 「私が別れ話を切り出した瞬間は、物凄く悲しそうな顔をしてた。でも、すぐにいつもの優しい表情に切り替えて……私に罪悪感を与えないように必死で取り繕って……。でも、最近の私の様子から、なんとなく、こういうことがあるかもしれないって予想はしてたらしくて……。雄一には、本当に悪いことしちゃったと思う。私なんかにはもったいなさすぎるくらい良い人だったもの」


 「そうだったんですね……」


 澪さんの話は難しくて、わたしには半分くらいしか分からなかった。けれど澪さんも、わたしと似たようなことを経験していたんだってことは分かった。


 「澪さん、実はわたしも……」


 わたしは、昨日の啓太の話を澪さんにした。一応、啓太にもプライバシーはあるから、名前はぼかしたけれど……。

 わたしの話の最中、澪さんは、目の前のアイスコーヒーっぽい飲み物にも手を付けず、真剣な表情で時折頷きながら、耳を傾けてくれた。


 「そっか……香織ちゃんも悩んでたんだね」


 澪さんに悩みを話したことで、わたしの心は、ほんの少しだけ軽くなった。悩み事を一人で抱え込まないというのは、結構大事だということを身を持って実感する。


 「『恋愛』って難しいよね……」


 「はい……」


 澪さんの呟きに、わたしも大きくうなずいた。二人揃って、同時に小さくため息をつく。その後、しばらくの間、わたしたちは黙ってドリンクを飲んでいたのだけれど、再び澪さんが話を切り出した。


 「突然何だけど……香織ちゃん、私と麗華のお母さんに会ってみない?」


 本当に突然の提案だったので、わたしは少しビックリした。


 「もちろん会ってみたいですけど……良いんですか?」


 麗華のことは何だって知りたいわたしにとって、澪さんの提案は当然魅力的だった。


 「むしろ、お母さんが香織ちゃんに一度会ってみたいって言ってたくらいだから大丈夫だよ。それに『恋愛』に関することなら、お母さんは結構詳しいから、よかったら今日話してくれたことも相談してみたら? もしかしたらいいアドバイスが貰えるかも。まあ私は、自分の親に恋愛相談ってのも、何だか恥ずかしくって出来なかったけど……」


 麗華のお母さんは、何故かわたしに興味を持ってくれているらしい。そういうことなら、わたしはますます会ってみたくなった。


 「そういうことなら、ぜひ、会わせて下さい!」


 こうしてわたしは、麗華のお母さんに初めて会うことになったのだった。

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