第19話

 「佐川茜さん」「はい」「佐藤勇気さん」「はい!」


 朝の会で、いつもどおり先生は一人ひとりの名前を呼んでいた。


 「椎名麗華さん……は家庭の事情でお休みですね」

 

 しかし今日は、いつもとは違った。麗華の控えめで落ち着きのある返事が聞けなかったのだ。転校してきてから初めて、麗華は学校を休んだ。先生は家庭の事情と言っていたけれど、休んだ原因は、どう考えても昨日の出来事が関係しているとわたしは確信していた。

 

 麗華……。

 

 その日は一日中、何も手につかなかった。体育の授業でやったサッカーでは、味方のゴールにシュートを打ってしまい、算数の授業でも、簡単な問題でさえ解くことが出来なかった。とにかく、わたしの頭の中は麗華を心配する気持ちで埋め尽くされていた。

 

 今日は絵しりとりもやらなかった。やる気持ちになれなかった。いつも絵ばかりが並んでいるノートの切れ端は、今日は文字でビッシリと埋め尽くされていた。

 

 「麗華、どうしたんだろ? 風邪でも引いたのかな?」

 

 紙切れを開くと、そこには、みっちゃんが書いた少し大きめの文字があった。

 

 「昨日は元気そうな様子だったよね?」

 

 みっちゃんの下には、ちゃんゆい独特の丸っこい文字も書かれている。

 

 こんな様子で、わたしたちは授業中もずっと麗華の心配をしていた。

 

 「麗華、どうしちゃったんだろ……」

 

 わたしは二人の書いた文章の下にそう書いたけれど、当然二人もその答えは知らなくて、ただただ無意味に紙切れに書かれた文字の数が増えただけだった。

 

 

 

 「じゃあね……」

 

 授業が終わり、わたしは校門でちゃんゆい、みっちゃんと分かれる。わたしはトボトボと通学路を歩いた。思い返してみれば、こうして一人で学校から帰るのも久しぶりだ。麗華と友達になる前は、家が同じ方向の友達がいなかったから一人で帰るのも当たり前のことだったはずなのに、気がつけば、それも当たり前では無くなっていた。麗華がいない帰り道は、とてつもなく寂しい。

 

 普段の倍くらいの時間をかけて家につく。自分の部屋に戻ってからも、わたしは何をすれば良いのか分からなかった。ただただ何もせず、部屋の真ん中でペンちゃんを抱きしめながらボーッとする。

 

 麗華は大丈夫なの? 麗華が学校に来ないなんて……。明日は麗華、学校に来るのかな……。

 

 相変わらず、頭の中は麗華のことだけで埋め尽くされていた。ペンちゃんの瞳をじっと見つめながら、わたしは考える。そしてしばらくした後に、

 

 やっぱり麗華に会いたい

 

 という強い思いが残った。

 

 気がつくと、わたしの身体は勝手に動き出していた。

 

 「いってきます……」

 

 スニーカーを履いてドアを開けると、タワーマンションに向かって駆け出した。すぐに一階エントランス前に到着する。わたしは慣れた手付きで麗華の部屋番号を入力すると、そのまま呼び出しボタンを強く押した。オートロックも初めて見た時はビックリしたけれど、今となっては当たり前のように使いこなすことが出来る様になっていた。

 

 呼び出し音が一回鳴って、二回鳴って、三回鳴る。けれど返答は全く聞こえてこなくって、諦めたわたしが踵を返しかけたその時、スピーカーからか細い声が聞こえてきた。

 

 「香織ちゃん?」

 

 「そうです!」

 

 「昨日はごめんね。もしよければ、部屋に来て……」

 

 その言葉とともに、オートロックが解除されて扉が開く。

 

 今のって……澪さんの声?

 

 最初は誰の声か全く分からなかったけれど、話の内容やわたしの呼び方は完全に澪さんだった。いつもはハキハキとした大きな声で話しているのに、今日の澪さんの声は、小さくて聞き取りづらくて、まるで別人のようだった。

 

 「お邪魔します……」


 玄関では澪さんがお出迎えしてくれた。その顔は疲れ切っている様子で、目の下には薄っすらとクマが出来ていた。


 「いらっしゃい。さっきも言ったけれど、昨日は本当にごめんなさい。あの時は私も慌てていて……」


 「いえ、それは大丈夫です……。あの……麗華は大丈夫なんですか?」


 「あの子は、自分の部屋で寝ているわ。香織ちゃんには詳しい話をしたいから、私の部屋に着いてきてえる?」


 わたしは初めて、澪さんの部屋に足を踏み入れた。壁にはわたしの知らない音楽グループのポスターがいくつも貼ってあって、机の上には所狭しとグッズが置いてあった。その代わり、麗華の部屋とは違って本棚は無い。


 「じゃあ香織ちゃん、ここに座って貰っても良い?」


 澪さんに手渡された青のクッションに、わたしは体重を預ける。麦茶が二杯置かれた即席の小さなテーブルの向かい側では、澪さんのも同様に紫のクッションに腰掛けていた。


 澪さんは一口だけ麦茶を口に含むと、覚悟を決めたように話を始めた。


 「仙台に引っ越してから、今まで家族以外の人には言ったこと無かったんだけれど、香織ちゃんには言っておくね……。これから話すことは、あんまり他の人には言いふらさないでもらえる?」


 大きく開かれた澪さんの瞳が、わたしを見つめる。この時、わたしは初めて澪さんの瞳の色が青色であることを知った。


 姉妹でも瞳の色が違うことってあるんだ……。


 麗華のことは瞳の色どころか他のことだって色々知っているのに、それ以外の人のことには全然興味を持っていなかったことに、わたしは初めて気がついた。澪さんどころか、ちゃんゆいやみっちゃんの瞳の色でさえ、わたしは知らない。


 「言いません。絶対誰にも」


 けれど、これからは少なくとも澪さんの瞳の色もわたしは忘れないと思う。それくらい、青の瞳には色々な思いが籠められている気がしたからだ。だからわたしは、澪さんと同じくらい真剣に瞳を見返しながら返事した。


 「ありがとう、香織ちゃん……。それじゃあ私は回りくどいのは好きじゃないから、単刀直入に話すね。実は私と麗華のお母さん何だけど……」


 一旦言葉を詰まらせた澪さんは、大きく深呼吸を一度してから言葉を吐き出した。


 「重い心臓の病気で、ずっと入院してて……それで、いつ死んじゃうかも分からないの」


 「……」


 言葉の表面上の意味は分かったけれど、それは全く実感を伴っていなくて、わたしは訳がわからないまま押し黙っていた。


 死んじゃう?


 特に「死」という言葉の実感が全くわかなかった。もちろん、もう二度と動かなくなってしまうという意味はなんとなく分かっているし、漢字だって習ったから書ける。けれどそれ以上のことは想像もつかなかった。「死」なんて、本やテレビの中だけの話だと思っていた。


 「数年前に発症したのよ。最初のうちは大したこと無かったんだけれど、段々、少し歩いただけでお母さん、辛そうな顔するようになって……。そのうち家から出られなくなって、終いにはずっと病院にいっぱなしの生活になって……」


 話をしながら、澪さんの顔はどんどん歪んでゆく。


 「遂には、いつ死んじゃうか分からない状態になって……。もうダメだってなった時、一つだけ嬉しい知らせがあったの。もしかしたら手術を受ければ治るかもしれないって……。それを聞いて、私たちはすぐに仙台に引っ越したの。その手術が出来る先生や機材があるのが仙台らしいから……。でも、手術だってそんなすぐに出来るようなものじゃなくって、患者さんの順番とか色々あって……でも待っているうちに、お母さんの体調はどんどん悪くなっていって……昨日なんて本当に危なくて……」


 気づけば澪さんの目尻には薄っすらと涙が浮かんでいた。


 「自分でも何喋ってるのか、段々わかんなくなってきちゃった……。でも、とにかく昨日、わたしと麗華が突然いなくなったのは、お母さんの様態が悪化したからなの……」


 澪さんは手の甲で目元を拭いながら、再び麦茶に口をつける。わたしもイマイチ状況が飲み込めなくて、同じように麦茶を飲んだ。


 しばらくして、わたしは質問した。


 「あの……麗華は今、寝ているって聞いたんですけれど、大丈夫なんですか?」


 麗華のお母さんに関する質問はしなかった。いや、出来なかった。そもそも質問が出来るほど話を理解していなかったから。だからわたしは代わりに麗華に関する質問をした。


 「大丈夫……なのかは分からない。昨晩は私たち、ずっとお母さんの側に付きっきりだったから睡眠不足で……。一応、お昼前にお母さんの体調も安定してきたから、家に帰ってきたの。流石の麗華も張り詰めた緊張の糸が切れたみたいで、ベッドに入ったらすぐに寝ちゃった。だから今日は麗華とは遊べないの。ごめんなさいね」


 「いや、麗華は今、大変みたいなので……。むしろわたしが家に押しかけちゃって、ごめんなさい」


 わたしは澪さんに向かって頭を下げる。


 「そんなこと無いよ。学校を休んだ麗華のことを心配して来てくれたんでしょ? 今日は本当にありがとうね」


 それから、もう少しだけ澪さんと話をした。そのどれも、初めて聞く話ばかりだった。これまで木曜日と日曜日に麗華と一緒に遊べなかったのは、お母さんのお見舞いに行っていたかららしい。

 話が一段落した所で、わたしは普段よりもずっと早い時間に部屋を出た。澪さんも今は辛いだろうし、きっと眠たいだろうと思ったからだ。

 澪さんの部屋から出ると、目の前には麗華の部屋のドアがあった。わたしは、そこに向かって「大変だと思うけれど頑張って。これからも一緒に遊ぼうね、麗華……」と小声で呟いた。けれど麗華からの返事は、当然無かった。

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