第18話
夏休みが終わってからも、相変わらずわたしと麗華は毎日のように一緒に遊んでいた。それは本当に楽しくて幸せで、そんな平穏な日々が、これからもずっと続くものだとわたしは思っていた。けれどそんなわたしの日常は、ある日突然、消えて無くなってしまう。
「そう言えば恋メロの最新巻って、来月発売じゃない?」
九月中旬。夏休みが終わってから二週間ほど経ったその日も、わたしは麗華の家で少女漫画を読んでいた。麗華は、公園で四葉のクローバーを探すわたしのイラストを一昨日からずっと描いている。一昨日やった恋メロのシーンが、雅人と菫で四葉のクローバー探しをする場面だったのだ。
「元の予定ではそうだったね……」
「だよね! 楽しみだなぁ……。この二ヶ月長かったぁ……」
「それなんだけど……」
麗華はイラストを描く手を止めると、わたしの方を向いた。その顔は、何だか少し曇っているみたいだ。
「実は恋メロの最新巻、もうちょっと発売は遅れちゃうかも……」
「えっ、なんで? そういう発表があったの?」
この前本屋に行った時には、「恋メロ最新巻、来月発売予定!」と書かれたポスターを確かに見たのだけど……。
「いや、発表があったわけじゃないんだけど……」
「だけど?」
何だか麗華は歯切れの悪い様子だった。
「だけど……そういう噂を聞いたの……」
「えっ、誰から?」
「え、え~っと、お父さんから? ほら、お父さんも少女漫画大好きだから、そういう噂も流れてくるのは早いの」
「そんなぁ……お願いだから、その噂は嘘でありますように!! わたし、早く恋メロの続きが読みたいよ……」
「それは私も同じ気持ちだよ」
「そうだよね……。わたし、ここ数ヶ月でたくさん少女漫画読んできたけど、やっぱり恋メロが一番好き。絵も好きだし、話もすっごく面白い。麗華の一番好きな少女漫画は何?」
「もちろん私も恋メロだよ。前に言ったでしょ? 恋メロは私にとって、かけがえのない大切な作品だって」
「そっか……。わたしたち、好きな少女漫画も一緒なんだね。何だか嬉しい」
「私も嬉しい。自分の大好きな恋メロを、同じ様に好きでいてくれる人が、こんなに近くにいるんだから。図書館で初めて香織と二人で話した時に、恋メロを貸して良かったなって、すっごく思う」
「わたしが恋メロにハマったのは麗華のおかげだものね。早く最新巻の感想を麗華と一緒に語り合いたいな。これまでは既に麗華が読んだ話をわたしが後から読んでいたけれど、最新巻は麗華だって内容を知らないから、一緒に読んで一緒に感想を言い合えるし、きっと今までよりももっと楽しいよ!」
「そうだね。わたしも待ちきれないよ。噂が嘘だったら嬉しいね……」
そう言いながら、麗華は再び机に向かってイラストを描き始めた。「嘘だったら嬉しいね……」と言った直後、麗華が何だか悲しそうな様子に見えたのでわたしは声をかけようとしたけれど、イラストを描き始めた瞬間に顔はキュッと引き締まって、集中しているみたいだったので結局わたしは声をかけられなかった。
麗華が自分の作業に戻ったので、わたしも麗華の邪魔にならないように手元の少女漫画に視線を落とす。今読んでいる作品も、恋メロには敵わないけれどそこそこ面白い。しばらくの間、部屋にはペンが紙の上を走る音と、漫画のページがめくられる音、そして時たま聞こえてくる麗華の鼻歌だけが流れていた。近くに麗華の存在を感じながら、こうして静かに漫画を読んでいる時間がわたしは大好きだ。とても落ち着いた気分になる。
けれどそんな穏やかな空気は、突然部屋に乱入してきた澪さんによって一瞬で消し去られる。
「麗華、大変! お母さんが!」
ノックもせずに、澪さんが扉を勢いよく開けた。これまで見たことないくらい緊迫した様子で、表情も引きつっている。
「お母さんの様態が突然悪化したって!」
「嘘……」
対する麗華も、今までわたしが見たことのない顔をしていた。顔中が引きつって、今にも泣き出しそうだ。麗華の右手からペンの落ちる音がした。
「今すぐ病院行くよ! 香織ちゃん、ごめん! 今日はもう帰って!」
「えっ……」
わたしも麗華も、あまりに突然のことに動けなくなっていた。
「ほら行くよ!」
澪さんは麗華の腕を掴むと、そのまま引きずるようにして玄関へと連れてゆく。麗華は、それに抵抗することなく、かといって自分から動き出そうともせず、人形のようにただ引きずられていた。そして気がつけば、あっという間に二人ともわたしの前からいなくなってしまった。
「え、えっ……?」
ただ一人、麗華の部屋に取り残されたわたしは、どうしたら良いのか分からなくて、ただクッションの上で呆然と座っていた。
ほんの数分前までゆったりとした時間が流れていたということが信じられないくらい、部屋は不気味な静寂に包まれていた。わたしには、一体何が起きたのか理解できなかった。
お母さん? 様態? 病院? 一体、何の話をしているの?
澪さんの口から断片的に聞こえてきた単語は、わたしにとって、あまりにも現実からかけ離れすぎていて、頭が受け入れるのを拒否していた。代わりに麗華が最後に見せた表情だけが、ずっと頭の中をグルグルと回っている。
あんな麗華、見たことが無かった。いつも落ち着いていて、それでいて偶に小学生らしい表情を見せるのが、わたしの知っている麗華だ。それなのにさっきの麗華は、まるでこの世の終わりみたいな顔をしていた。
こういう時、一体どうすれば良いのかわたしは知らない。けれどいつまでもボーッとしているわけにもいかなくて、わずかに震える足を押さえつけながら、生まれたての子鹿のようにわたしは立ち上がる。視点が高くなったことで、ついさっきまで麗華が描いていたイラストが目に入った。
なんとなくわたしはそのイラストを手に取る。そこには笑顔で四葉のクローバーを掴むわたしの姿が描かれていた。表情は自然で、今にも動き出しそうなイラストだった。
本来ならば……。
このイラストには、たった一つだけ決定的な欠点があった。それは、イラストのわたしの頬のあたりから伸びた太くて長い一本の線だ。自由帳の端のあたりまで伸びている。おそらく頬の部分を描いていた時に、澪さんが突入してきて、その驚きのあまり、こんな線を描いてしまったのだと思う。例え消しゴムを使ったとしても完全には消せないくらい、その線は、紙に深く刻み込まれていた。
なんか嫌だな……。
その線は、ちょうどわたしの顔と四葉のクローバーを分断するような位置に引かれている。
誰もが知っている通り、四葉のクローバーには幸福の証だ。だから麗華の引いた線は、わたしと幸福を切り離しているみたいで、不吉な予感がわたしを襲う。
「気のせいだよね……」
わたしはそう呟くけれど、返事をしてくれる人はどこにもいなかった。
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