第10話

 わたしは、ここまで履いてきたスニーカーを下駄箱に入れて、手持ちのビニール袋から取り出したピカピカの上履きに履き替えた。


 昨日、上履きのまま学校から帰ってきたことがお母さんにバレて、随分と怒られたのだけれど、お母さんはたったの一晩で砂だらけだった上履きを、新品のように真っ白な状態にしてくれた。


 「もう二度と、上履きのまま学校から帰ってくるんじゃないのよ?」


 そう言ってお母さんは、ピカピカの上履きとともにわたしを送り出してくれたのだ。お母さんは怒ると怖いけれど、何だかんだで優しい。

 そして今日、ここまで履いてきたスニーカーは、昨日麗華がビニール袋に入れて持ってきてくれたものだ。上履きのまま下駄箱から駆け出したわたしを見て、自由帳と一緒にスニーカーも届けようと思ったらしい。

 お母さんと麗華のおかげで、わたしは今日、こうして普通に登校することが出来ている。


 「わたし、皆に助けられてばっかだな……」


 思わずポツリとそんな風に呟きながら、わたしは教室のドアを開けた。普段よりも、少しだけ多くの視線がわたしに集まる。その中には啓太の視線もあった。


 「かおりん、おはよっ!」


 そんな中、ちゃんゆいが威勢よくわたしに挨拶する。


 「おっは~」


 みっちゃんもわたしの席に集まってきた。


 「おはよ、ちゃんゆい、みっちゃん」


 わたしの挨拶を聞くやいなや、みっちゃんはわたしの方に向かって顔をぐいっと突き出す。


 「かおりん、あたし聞いたよ? 昨日は大変だったらしいね」


 「私も聞いた。ね~、誰かさんのせいで」


 そう言って、ちゃんゆいは啓太の方に視線を向ける。わたしもつられてそちらを向くと、慌てたように啓太はわたしたちから視線をそらして、周りの男子たちとくだらない遊びを再開させる。


 「あれだけのことしたのに、啓太は朝からあんな感じでいつもどおり。ううん、いつも以上にふざけた様子でバカな遊びしているよ」


 「ホント信じられないよね。あたし啓太のこと嫌いになったわ。もともと好きでもなかったけど」


 ちゃんゆいとみっちゃんは、そう言って口々に啓太のことを貶していた。しばらくの間、二人の間で啓太の悪口合戦が続いていたので、わたしは話を聞く側に徹していたのだけれど、急にちゃんゆいから話を振られる。


 「ねっ、かおりんも啓太のこと最悪だって思うでしょ?」


 「えっ? う、うん……」


 「だよね~」


 突然のことだったから、わたしはとりあえずちゃんゆいの意見に頷いた。いや、突然でなくても頷いていたと思う。ここで首を横に振るのは空気の読めない人がすることだ。わたしだけ意見が違ったら、ちゃんゆいやみっちゃんを困らせてしまうだろう。


 でも実際の所、今のわたしの啓太に対する気持ちはどうなのだろう? 昨日、麗華の自由帳が水浸しになった直後は、許せない気持ちでわたしの頭の中は一杯だった。二度と啓太の顔を見たくなかった。なんなら明日、転校してくれればいいのに……と思ったほどだ。


 けれど今のわたしは、不思議と啓太の顔を見てもそこまで怒りは湧いてこない。もちろん少し気まずい気持ちにはなるけれど、せいぜいそれくらいだ。


 どうして……?


 考えてみたら答えはすぐに出た。麗華が、これからもずっと友達でいてくれると言ってくれたからだ。もしも麗華がわたしと口も聞いてくれなくなっていたら、わたしは啓太のことをきっと一生許さなかったと思う。けれど今となっては正直、啓太のことなんてどうでもよかった。


 麗華の反応一つでここまで啓太に対する考え方が変わるなんて、わたしって勝手な人間だなぁ……。


 そんなことを考えていたら、ちゃんゆいが突然両手を勢いよく合わせた。パンッという気持ちのいい音が響く。


 「まあ啓太のことはこれくらいにしておいて……明日からのことを話そうよ!」


 「明日からのこと?」


 ちゃんゆいの言っていることが分からなくて、わたしは首を傾けた。そんな様子のわたしを見て、みっちゃんは大きく目を見開く。


 「えっ、かおりん……冗談だよね?」


 ひどく驚いた様子のみっちゃんを見て、わたしは頭を悩ませる。


 明日って何か特別な日だったっけ? 単なる七月最後の土日だよね? ん? 七月最後……?


 「あっ、明日から夏休みだ」


 昨日から色々なことがあったせいで、すっかり忘れていた。


 「そうだよ! 夏休みを忘れるなんて信じられないよ! あたしは今年の夏休み、家族で沖縄に行くの! 青い空に白い雲、シークヮーサーにサーターアンダギー。楽しみ~~!」


 みっちゃんは両手を広げて斜め上を向いている。そうやって沖縄に思いを馳せているのかもしれない。


 「みっちゃん良いな~。私はキャンプに行く予定だよ。自分で薪を割って、火をおこして。夜はテントで寝るの。星がすっごく綺麗なんだって! もう待ちきれないよ! かおりんは夏休み何する予定なの?」


 「わたしは……」


 わたしの一家は、この夏は草津温泉に行く予定だ。わたしのお父さんお母さんは大の温泉好きで、休みの度に色々な温泉宿にわたしを連れて行ってくれる。わたし自身も、お父さんお母さんに影響されたのかどうかは分からないけれど、温泉好きだから楽しみだ。だからそのことを話そうしたけれど、直前でわたしは口ごもる。沖縄、キャンプと来た後に温泉って言うのは何か違う気がしたのだ。わたし一人だけお爺さんお婆さんっぽいっていうかなんというか……。だからわたしは押し黙ってしまう。


 何か言わなきゃ。でも何を言えば……。

 

 焦りで頭が真っ白になる。たまにこうなってしまうことが、わたしにはある。普段は大体、周りから浮かないような発言が出来るのだけど、どうしても良い切り返しが浮かばない時、何も考えられなくなってしまう。

 全身を冷や汗が伝う。教室が暑いんだか、寒いんだか分からなくなっていた。

 

 誰か助けて……。

 

 心の中でわたしがそう祈ったタイミングで、教室の前の扉から麗華が入ってくる。琥珀色の瞳がわたしの方へと向けられる。それだけで、たったそれだけのことで、ついさっきまで真っ白だった頭の中は麗華に埋め尽くされた。

 

 「麗華、おはよ!」

 

 気づけばわたしは、少し離れた所にいる麗華に聞こえるくらいの、いつもより若干大きめの声で、おはようの挨拶していた。

 

  「香織、おはよう」

 

  麗華の声はボリュームが小さくても透き通っていて、耳に自然と届いてくる。その声を聞いていると、花壇に咲いているお花にあげた水が、土に徐々に染み込んでいくように、わたしの心にも穏やかな気持ちがじわりじわりと広がっていく。

 

 「麗華っちおはよう」

 

 「おはよう麗華ちゃん」

 

 わたしにつられて麗華に挨拶するみっちゃんとちゃんゆいを横目に、わたしは落ち着きを取り戻しつつあった。

 

 「美咲さん、結衣さん、おはよう」

 

 麗華が二人に挨拶を返して一段落したところで、みっちゃんはわたしに食い気味に質問した。

 

 「かおりん。いつの間に麗華っちとこんなに仲良くなったの?」

 

 「ね~、私もかおりんと麗華ちゃんがこんなに仲いいなんて知らなかった」

 

 みっちゃんもちゃんゆいも、わたしと麗華の関係に興味津々の様子だ。嬉しいことに、夏休みの話は一旦保留になったみたいなので、わたしは正直に麗華との関係を答えることにした。

 

 「実は麗華とわたし、家が近いから、それで最近遊ぶことが多いんだ。麗華って、すっごく絵が上手なんだよ?」

 

 「えっ本当? じゃあ麗華っちも絵しりとりに混ぜて遊んでみたいね」

 

 みっちゃんがそんな提案をする。

 

 「それ良いかも」

 

 ちゃんゆいも、賛成した。

 

 「実はわたしも、麗華が絵しりとりに混ざってみたら面白そうだなって思ってたんだ」

 

 「じゃあ決まり! あたし麗華っちにお願いしにいってくるね!」

 

 みっちゃんは、すぐさま麗華の元へ駆け出した。こういう時のみっちゃんの行動力はさすがだ。麗華はみっちゃんと二言三言言葉を交わした後に、目だけを動かしてわたしの方に向けた。わたしは、麗華にしか伝わらないくらい小さく頷く。それを見て、麗華もみっちゃんに向かって頷いた。

 

 しばらくして、上機嫌な様子のみっちゃんが帰ってくる。

 

 「麗華っち、絵しりとり参加してくれるって! これは楽しみの幅がまた広がるねぇ」

 

 「これはますます、かおりんの絵の下手さが目立っちゃうかもよ?」

 

 「もう、ちゃんゆいったら!」

 

 そんな軽口を言い合っていたら、朝の会のチャイムが鳴った。いつの間にか冷や汗は、すっかり引いていた。

 

 

 

 あっという間に一日が過ぎて、気づけば放課後になっていた。

 

 「麗華っち、かおりん、またね~」

 

 「また夏休み明けに絵しりとりしようね!」

 

 みっちゃんとちゃんゆいが、校門でわたしと麗華に向かって手をふる。二人はわたしたちとは逆方向に住んでいるのだ。

 

 「みっちゃん、ちゃんゆい、じゃあね~!」

 

 「今日はありがとうございました」

 

 わたしたちも二人に手を振って、しばらくしてから家の方向に向かって歩き始めた。

 

 「麗華、今日はどうだった?」

 

 「初めて絵しりとりってやってみたけれど、結構楽しいね」

 

 麗華はわたしの顔をじっと見ると、突然「フフッ」と笑い声を出す。

 

 「麗華~。今ちょっと、失礼なこと考えてるでしょ!」

 

 「そんなこと無いって……。私は香織の絵も独特で良いと思ったよ?」

 

 「別にわたしの絵の話なんてしてなかったのに、麗華はどうして突然そんな話をし始めたのかな~?」

 

 わたしの指摘に、麗華はハッとした様子で「あっ……」と声をあげる。

 

 こうして麗華をいじるのも楽しいな……。

 

 また一つ、麗華に関する知識が増えて、わたしは上機嫌になる。でも、これ以上いじるのは可愛そうだから止めておいてあげよう。悔しいけれど、わたしの絵が下手なのは本当のことだから……。

 

 「まあ、それはともかく、麗華が絵しりとりを楽しんでくれたみたいで良かった」

 

 それに、麗華がちゃんゆいやみっちゃんと友達になってくれたのも嬉しかった。前々からクラスの皆にも、麗華の魅力を知ってほしいとわたしは思っていた。麗華は学校ではどちらかというと一人のことが多いから、皆あまり麗華がどういう子なのか知らない。それはすごくもったいないことだと思う。だから麗華には、これからも友達を増やしていって欲しい。

 

 「うん。本当に楽しかった。夏休み明けもまた、香織と美咲さんと結衣さんでやってみたいな」

 

 「もちろんだよ!」

 

 それまでに少しはわたしも絵の練習をしたほうが良いかもしれない。せっかく夏休みで時間もあるわけだし……。

 

 「そう言えば麗華は、この夏休み何か予定とかあるの?」

 

 「う~ん、特には無いかな……。香織は?」

 

 「わたしの所も、せいぜい家族で一、二泊温泉宿に行くくらい。あとは暇かな……」

 

 「一緒だね~」

 

 自分の発言から数秒経ってから、わたしは気がつく。今朝、あれだけ言えなくて苦労した温泉宿の話を、麗華の前では自然としていたことに。

 

 どうして?

 

 わたしは慌てて自分の口を軽く押さえる。ここ最近、わたしは麗華の前で口が軽くなっている気がする。

 

 麗華と話すようになったばかりの頃は、そんなこと無かったはずなのに……。

 

 いつも周りの空気ばかり読んでいるわたしだけれど、不思議とここ最近の麗華の前では無意識に空気を読むことを止めている気がする。良く言えば、自然体になっているということなのかもしれない。

 

 じっと考え込むわたしの様子を見て、不思議そうに麗華はわたしの顔を覗き込む。

 

 「どうしたの? 香織?」

 

 わたしを見つめる琥珀色の瞳、それを縁取るパッチリ二重、薄いピンク色の唇、それらを見ているだけで、不思議とわたしの全身の力は抜けて、気づけば空気を読むことさえ忘れてしまうのだ。でもそれは、決して嫌な感覚ではない。

 

 「いや、なんだか麗華って不思議だなぁって……」

 

 「ええっ、それってどういうこと?」

 

 「凄いってことだよ!」

 

 いつの間にか、全身が羽のように軽く感じられて、たまらずわたしは駆け出した。全身を撫でる風も、うなじを照らす太陽も、頭上から降り注ぐ蝉の鳴き声も、その全てが心地よかった。

 

 こうしてわたしの小学校最後の夏休みが始まった。

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