第9話

 わたしは家のドアを乱暴に開けると、砂だらけの上履きを脱ぎ捨てて、二階の自分の部屋へ駆け上がる。


 「香織? 帰ってきたなら、ただいまくらい言いなさいよ。それに、早く麗華ちゃんのお家に行きたいのは分かるけど、もう少し扉は優しく開け閉めしなさい」


 一階からお母さんが呼びかける声が聞こえてくるけれど、今のわたしにはその返事をする余裕すら無い。


 部屋のドアをきっちり閉めて、ランドセルをその辺に投げ捨てると、わたしはベッドに飛び込んだ。タオルケットを頭までかぶって目をつぶり、限界まで身を縮ませる。


 「ねえペンちゃん。わたし、どうしたらいいのかな……?」


 わたしは、胸に抱いたペンちゃんに話しかける。


 ペンちゃんは、わたしが三歳の誕生日の時に買ってもらったぬいぐるみだ。今年で九歳になる、わたしの相棒。毎晩、一緒に寝ているし、嬉しいことも悲しいことも、わたしは全部ペンちゃんに報告している。当然、麗華と友達になった日のことだって、ペンちゃんは知っている。ペンちゃんはぬいぐるみだからもちろん喋らないけれど、わたしが嬉しいときは嬉しそうな表情をして、悲しいときは悲しそうな表情をしているような気がする。いつだってペンちゃんはわたしの味方だ。そして、今日みたいに誰にも話せないような相談事も、ペンちゃんだけは聞いてくれる。


 わたしは恐る恐る目を開けた。そこには、タオルケットから漏れたかすかな外の光を反射する、青色のビー玉製の瞳があった。ペンちゃんは、わたしをじっと見つめている。まるでわたしに話の続きを促しているみたいに……。


 「今日わたし、学校で麗華に酷いことしちゃって……。麗華の大切な自由帳を汚しちゃって……。それでわたし、どうしたらいいのか分からなくて……」


 ペンちゃんに向かって話しているうちに、目頭が熱くなってくる。


 「本当は今すぐにでも麗華に謝りに行かなきゃいけないのに……でも麗華に会うのが怖くって……。きっと今頃、麗華はものすごく怒っていると思う。そりゃそうだよね、わたしのことを信頼して大切な自由帳を預けてくれたのに、それを台無しにされちゃったんだから……」


 何を言っても、ペンちゃんは黙ってわたしの話を聞いてくれる。真っ直ぐな視線で受け止めてくれる。それに甘えて、わたしは胸の内を十分以上かけて全部吐き出した。


 啓太への怒り、麗華への申し訳無さ、自分の不甲斐なさ、これからのこと、色々なことを考えすぎて、ごちゃごちゃになっていた頭の中がほんの少しだけスッキリする。わたしは大きく息を吐く。今、わたしが本当にしなきゃいけないことは何なのか。段々それが分かって来た。


 「やっぱり麗華に謝りに行かなきゃ……」


 本当は麗華に会うのが怖くて怖くて仕方がない。けれどこのまま会わずにいたら、何も事態は解決しないことに、ようやくわたしは気がついた。いや、ペンちゃんが気づかせてくれた。


 「ペンちゃん、ありがとう。わたし行かなきゃ」


 わたしはタオルケットを頭から振り払うと、ベッドの上にそっとペンちゃんを置く。やっぱりペンちゃんは、わたしの最高の相棒だ。いつもわたしに正しい道を教えてくれる。


 わたしは自分の部屋を出て、勢いよく階段を降りる。玄関で上履きを、かかとを潰したまま履くと、そのままタワーマンションへ向かって駆け出した。


 「だからドアは優しく閉めなさいって言ってるでしょ!」


 お母さんの声が背中の方から聞こえてくるけど、今はそんなことにかまっている暇はない。

  後ろを振り返らずに「ごめんなさい!」と一言だけ言い返す。


 ついさっきまでとは打って変わって、今のわたしは一刻も早く麗華に会いたい気分だった。直接顔を合わせて、謝らないことには何も始まらないことにようやくわたしは気づいたのだ。


 家の近くの交差点を曲がって、正面にそびえ立つタワーマンションに向かってわたしは走る。すると少し離れたところに、わたしと同じ様に走る一人の女の子の姿があった。何故か自然と視線がそこに吸い寄せられる。本当は、そんなよそ見をしてないで真っ直ぐ走るべきなのだけれど、何か予感めいたものを感じたのだ。次第にその女の子との距離が近づいて、はっきりと見えるようになってくる。その子は左胸にノートのようなものを抱え、右手にはビニール袋をぶら下げていた。水色のワンピースがスレンダーな体型にとても似合っていて、セミロングの黒髪が風で少し右側に流れていて……


 「麗華!」


 わたしが麗華を見間違えるはずがない。大声で呼びかける。


 「香織?」


 澄んだ声で、でも少し息を上がらせながらわたしを呼ぶ声が聞こえる。


 やっぱり麗華だった。早くなにか言わないと……。


 しかし、いざ麗華を目の前にしてみると、色々な思いが一気に溢れ出てきて言葉に詰まってしまう。悩んで悩んで悩んだ挙げ句、最初にわたしの口から出てきた言葉は……


 「ごめんなさい麗華! 謝って許されるようなことじゃないのは分かっている。麗華の努力の結晶をわたしは砕いちゃったんだから……。でも、それでも、わたしは麗華と友達でいたい! お願い麗華、何でもするから、どうか絶交なんて言わないで……。お願い、ううん、お願いします……」


 麗華と友達でいたいという、自分の願望だった。あれだけ麗華に酷いことをした挙げ句、この期に及んでそんなことを言うなんて、なんて恥知らずなんだろうと我ながら思うけれど、それでもわたしは麗華とこれからも一緒にいたかった。


 わたしは、これでもかというくらい深く頭を下げる。麗華と友達でいられるなら、土下座だってする。それくらいの覚悟はあった。

 数秒間、麗華は黙ったままだった。それは、これまでのわたしの人生の中で一番長い数秒だった。車道を走る車のエンジン音と、セミの鳴き声がやけに大きく聞こえる。


 「頭を上げて、香織」


 いつもどおりの、透明な麗華の声が頭上から降ってきた。


 「そんなこと出来ないよ……。だってわたしは、わたしは……」


 それ以上は言葉にならなくて、ギュッとわたしは歯を食いしばる。その時、不意に視界に麗華の小さな顔が入ってきた。琥珀色の瞳が、わたしをじっと見つめている。


 「れ、麗華?」


 しゃがんだ麗華は、右手でわたしの顎を押し上げ、下からわたしの顔を見上げていた。柔らかな麗華の手の感触が、顎を通して伝わってくる。


 「香織、何でもするなんて言わないで。友達はなにかの見返りになるようなものではないでしょ? それに、私が香織の友達を辞めるなんてことあるはずないよ」


 そう言って、麗華はにっこりと微笑んだ。


 確かに麗華の言う通りだ。友達は、お願いされてなるようなものじゃない。頼まれて友達のふりをしたところで、誰も幸せにはならないのだ。

 

 そして麗華は、見返りも何も関係なしに、これからもわたしの友達だと言っている。

 

 「本当に? 本当に麗華は、これからもわたしと友達でいてくれるの?」

 

 「もちろん! 本当だよ」

 

 麗華はわたしの両肩をつかむと、そのまま立ち上がった。それにつられて、わたしもお辞儀から元の姿勢に戻る。

 

 「でも、わたしは麗華の大切な作品を台無しにして……」

 

 さっきから麗華は、ずっと微笑を浮かべている。けれど、本当は辛くないはずが無いのだ。わたしの為に無理して笑顔を取り繕っているのだとしたら、それはとても申し訳ない。

 

 「麗華はすっごく頑張っていたのに、それをわたしが……」

 

 後悔のあまり唇を噛みしめるわたしの目の前に、麗華は一冊の自由帳を突き出した。


 「これを見て、香織」


 言われるがままに、わたしはそれを手に取る。この自由帳は、わたしが台無しにしてしまったものとは恐らく別だ。全く濡れた気配がない。


 表紙をめくると、今まで見たことのないイラストが飛び込んできた。それは恋メロのさくらんぼのシーンに、すごくよく似ているけれど、ちょっぴり違う。


 これって、もしかして……


 「わたし?」


 「うん……」


 麗華は恥ずかしそうに小さく頷く。


 自由帳には、美味しそうにさくらんぼを頬張るわたしの姿が描かれていた。恐らくこれは、演技を終えた後、麗華と一緒にパックのさくらんぼを食べていた時のわたしだ。


 「凄い……生き生きしてる」


 気づかないうちに、わたしの口元には笑みが浮かんでいた。一週間前のことが、今のことのように思い出される。


 あの時のわたしは、麗華と呼び捨てあう関係になれて、嬉しいような、こそばゆいような気分だった。ここに描かれたわたしのイラストには、その時のわたしの感情の全てが詰まっていた。


 「雅人と菫のイラストも良かったけど、こっちはもっと上手に表情が描けてる……」


 麗華は、わたしの言葉に同意するように小さく頷く。


 「うん、私もそう思う。でも不思議だったの。雅人と菫のイラストは時間をかけた描いたイラストで、こっちは何となく思いつきで描いただけのイラストなのに、どうしてこっちの方が上手に描けたんだろう……って。ずっと、ずっと考えてた。けれどこの前、ようやくその答えが分かった」


 「その答えって……」


 「きっとあの時、わたしも香織と同じ気持ちだったからだと思うの。香織と呼び捨てで呼びあえる関係になれたのが嬉しくって、でも少し恥ずかしくって……。あの時の香織も、同じことを考えてたのかなって考えながら描いてたら、このイラストが出来たの。あのシーンの演技のお陰で、雅人と菫の気持ちも今までよりずっと分かるようになったけれど、どうやら香織には適わなかったみたい」


 そう言って麗華は、おどけるようにペロリと小さく舌を出す。


 「だから、私が香織の友達を辞めることなんてありえないの。このイラストを描けたのも香織のお陰なんだから。それに……そもそも香織、何も悪いことしてないでしょ?」


 「えっ……でも麗華の自由帳をビショビショにして……」


 「皆が言ってたよ。啓太くんに雑巾を当てられて、それで香織がビックリして転んじゃったって……。大丈夫だった?」


 「わたしは大丈夫だけど……」


 「良かった。香織が怪我してないなら、あとは全然大丈夫。雅人と菫のイラストなら、一時間もあれば描けるもの。あれを描くのに一週間かかったのは、ほとんどが練習で、本番の用紙に描いた時間は大したこと無いの。だから香織は、あの自由帳のことは気にしないで。それに、最高傑作の絵はここにあるから」


 わたしが今、手に持っている自由帳を麗華は指差した。


 「その自由帳、もし良ければ香織に預かっていて欲しいな」


 麗華の言葉に、わたしは耳を疑った。


 「えっ、わたし? でもわたしなんかが持ってたら、また水浸しにしちゃうかもしれないし……」


 麗華はゆっくりと首を横にふる。


 「そんなこと無い。香織なら大切にしてくれるって、私信じてる。それに、もしもまた今日みたいなことがあったら、その時は私がもう一回描くから大丈夫。あの時の私の気持ちと香織の表情は、全部ここに入ってるもの」


 麗華は人差し指で、自分のこめかみを指差した。


 「本当に……? 本当にわたしが持っててもいいの?」


 「うん。このイラストが描けたのも、香織のお陰なんだから。ありがとね、香織」


 「麗華……」


 麗華は、こんなわたしを嫌うどころかむしろ信頼してくれていた。そのことが嬉しくてたまらなくて、思わずわたしは麗華に抱きつく。甘いミルクのような落ち着く香りが、わたしの鼻孔をくすぐった。


 「ありがとう麗華! わたしも麗華にはすっごく感謝してる。麗華と一緒にいるようになってから、毎日が楽しい。だからこれからもよろしくね!」


 しばらくの間、驚いた様子だった麗華だけれど、少しして、ふわりとした穏やかな日差しのような笑みを浮かべる。


 「こちらこそ。私たちは友達でしょ? ねっ、香織!」


 麗華もわたしに両手をまわした。互いの心臓の鼓動が身体を伝わって分かりそうなくらい、今のわたしたちは密着していた。


 夏の日差しの中を走ったからかもしれない。わたしの心臓も麗華の心臓も、いつもよりもずっと激しく暴れまわっていた。


 でも、それが心地よかった。

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