第8話
白いチョークが黒板を叩く、コンコンという乾いた音が教室に響く。今は、お昼休み後の算数の授業中だ。
ついさっきまで校庭でボール遊びをしていた男子たちは、下敷きでバタバタと顔を仰いでいる。確か今日の最高気温は三十二度。よくもまあ、こんな暑い日に外を走り回れるものだと少しだけ感心する。
わたしの席は教室後方の窓際だから、半分くらい開けられた窓から風が吹き込んできて気持ちいい。教科書のページがギリギリめくれないくらいの穏やかな風だ。隣町の小学校は、全ての教室にエアコンを設置したという話を聞いて、ちょっぴり羨ましく思ったこともあったけれど、こうして自然の風を浴びるのも悪くないと今は思う。
「それじゃあ、この問題を解いてもらいましょう。はいっ、次は……香織さんですね!」
外を見ながら物思いにふけっていたわたしは、突然、由花子先生に当てられた。
ヤバい……全然授業聞いてなかった……。
わたしたちの担任の由花子先生は、先生の中ではまだ若い方で多分二十代くらい。サバサバとした性格でクラスの皆にも好かれている。わたし自身、今までの担任の中で由花子先生が一番好きだ。授業中に少しくらい別のことをしていても、うるさく咎められることはない。ただ、もちろんサボっても良いというわけではなくて、そのせいで授業の内容についていけなくなった場合は厳しい補修&宿題が待ってる。
ついさっきまでボーッとしていたわたしは、内心焦りながらも席から腰を上げて、出来るだけゆっくりと黒板へ向かう。その間に問題の答えを考えるためだ。黒板には、「2/7÷1/3=」と書かれていた。
確か分数の割り算は、分子と分母をひっくり返して掛け算すればよかったはず……。
そう思いながら、わたしはチョークをつかむと数式を書いた。出てきた答えは「6/7」。
あってるかな……。
内心不安に思いながら左横を向くと、先生は満足そうに大きく頷いていた。
「正解! 途中の式もあってますね。よく出来ました」
先生は赤のチョークをつかむと、勢いよくわたしの答えに丸をつけた。あまりの勢いの良さに、チョークが途中で折れてしまったほどだ。
良かった……。わたしは安堵の息を漏らしながら、スタスタと自分の席へ戻る。これでしばらくわたしが指名されることは無いはずなので安心だ。
さて、何しよう……。
再び席についたわたしは、残りの三十分ほどをどう過ごすか考える。今日の午前中は、ちゃんゆいやみっちゃんと、小さな紙切れを回して絵しりとりをやっていた。暇つぶしとしては中々楽しい。わたしが自慢の十色ボールペンを使って描いたウサギが、うなぎに間違われたのは少し悲しかったけど……。でも最初の文字の「う」と最後の文字の「ぎ」があってたから、しりとり的にはセーフだと自分に言い聞かせる。わたしは絵が苦手なのでしょうがない。
もしも麗華が絵しりとりに参加したら、上手な絵を描くんだろうなぁ……。
次に絵しりとりをする時は、麗華も混ぜてみるのも面白いかもしれない。そう思った時、わたしは、ある一つのことを思い出した。机の中をゴソゴソと漁って、一冊の自由帳を取り出す。表紙には「椎名麗華」と名前が書かれていた。
これは今日の三時間目と四時間目の間に休み時間に、麗華から貸してもらった自由帳だ。この前見た通り、様々なイラストや漫画が書かれている。パラパラとページをめくっていると、後ろの方のページに、この前は無かった漫画が追加されていた。恋メロ七巻のさくらんぼシーンを書き直したものだ。
わたしと麗華であのシーンの演技をしてから一週間弱。ようやく完成したものが、今、わたしの目の前にある。これの何ページか前にある、この前見せてもらった同じシーンと比べると、確実に雅人と菫の表情は柔らかくなって良くなっていた。
麗華、頑張ってたもんね……。
思わずわたしは顔をほころばせる。ここ最近の麗華は、新たな少女漫画を読み漁るわたしの横で、いつも真剣な顔でこのシーンの練習をしていた。きっとわたしが帰った後も、ずっと描いていたのだと思う。それだけ麗華が努力する姿をわたしは見ていたからこそ、麗華が凄いってことがよく分かる。凄すぎて、将来の夢すら良くわからないまま、努力もしていない自分が少し不安になってしまうくらいだ。
麗華のイラストは、ずっと見ていても飽きない。見れば見るほど、色々なことに気付かされる。雅人と菫の瞳は全然違う風に描かれていることとか、顔の輪郭は雅人の方が少し角ばっていることとか、そんなことを考えながら見ていたら、あっという間に三十分が過ぎてチャイムが授業の終わりを知らせた。
今日は五時間授業の曜日なので、これで授業は終わりだ。もっともっと麗華の作品を見ていたい気持ちを堪えて、わたしは自由帳をパタンと閉じる。これは麗華にとってとても大切なものだから、なくさないようにわたしはさっさとランドセルに閉まった。
いつも通り帰りの会と廊下の掃除を終わらせて、わたしは教室へと戻る。麗華のランドセルは、もうそこには無かった。多分、下駄箱でわたしを待ってくれているのだと思う。
帰り道で、麗華が新しく描いたさくらんぼのシーンの感想を沢山話そう。
そう思ったわたしは、ランドセルから麗華の自由帳を取り出した。そして急いで教室を出ようとする。
しかし出口の前には啓太がいて、なかなか出られない。啓太を含む教室掃除班の男子たちは、ほうきと丸めた雑巾をバットとボールに見立てて野球をしている。真面目に掃除をしている女子の手伝いもしないで遊んでいる啓太たちは、相変わらずバカだと思うのだけれど、これまではわたしに迷惑をかけていなかったので何も言わずにいた。けれど今日は話が違う。
「ちょっと啓太! あんたが出口の前で突っ立てるせいで、出られないんだけど。あっち行ってよ!」
わたしは声を張り上げる。けれど啓太は全く動じる様子が無かった。
「嫌だよ~だ。前の出口から出ていけばいいだろ? バッターボックスが、ここなんだから、俺がここから動くわけには行かないんだよ」
「嘘! ついさっきまで、もっと手前の方に立ってたじゃない!」
わたしが教室に帰ってきた時も啓太たちは野球をやっていたのだけれど、その時は出入りできないということは無かった。
「うるさいな~。ほら祥文、さっさと投げろ! ツーボールワンストライクだ」
わたしは大きくため息をつく。
もう、どうでもいいや……。
以前のわたしなら、もっと啓太たちと言い争っていたと思うけれど、最近、それは時間の無駄だってことにようやく気がついた。そんなことをしているくらいなら、早く麗華の所に行った方が良い。だから、わたしは大人しく前の扉から出ようと体の向きを変えた。ちょうどその時、祥文が雑巾を投げる。それは、勢いよく啓太が振った啓太のほうきに当たって……わたしの顔に向かって飛んできた。
「ヒャッ……」
わたしはビックリして後ろにこける。飛んできた雑巾が、視界を覆う。慌てて顔から雑巾を取っ払ったわたしは、これまで以上に大声で啓太に文句を言った。いくら時間の無駄とはいえ、ここまでされて黙ってはいられない。
「ちょっと啓太、ふざけないで! わたしの顔に雑巾が……」
そこでわたしは、自分の右足に違和感を覚えた。まるで大雨の中、スニーカーで外にでかけた時のジメッとした感じだ。そちらを見てみると、案の定バケツに入っていた水が盛大にわたしの右足を濡らしていた。そして濡れていたのはわたしの上履きと靴下だけではなくて……。
「嘘……」
そこには、派手に水をかぶった麗華の自由帳があった。急いでわたしは、それを手に取る。背表紙から、ポタポタと水が滴った。
恐る恐るページをめくる。それはひどい有様だった。どのページも滲んでイラストはグチャグチャ。それは、さくらんぼのシーンも例外では無かった。以前に描いたイラストも、この前描いたばかりのイラストも、どちらも滲んで見分けがつかなくなってしまっていた。麗華が心を込めて描いた雅人や菫の表情も全く分からない。
「か、香織が避けなかったのが悪いんだ……。ほら、これやるから足拭けよ」
そう言って啓太は、ブルーのハンカチをわたしの目の前に突き出す。その右手を、わたしは勢いよく振り払った。
「許さない……」
かすれた声が喉から出る。全身が小刻みに震えて上手く話せない。
「えっ、何?」
何食わぬ顔で啓太は聞き返す。麗華の大切な作品が、あんたのせいで……。
「絶対に、一生、あんたのことを許さない!」
先程までとは一転して、今度はこれまで出したこと無いくらいの大きな声だった。喉がボリューム調節の方法を忘れてしまったみたいだ。
目の前の啓太は、困惑した表情でわたしを見つめている。
「か、香織……?」
普段はうるさいくらい大きな声を出す啓太だけれど、今の啓太の声は弱々しい。けれど今のわたしにとって、そんなことはどうでもいいことだった。
「あんたなんて絶交! もう二度とわたしに話しかけないで。どっか行ってよ!」
わたしはすぐ近くに落ちていた雑巾をつかむと、そのまま啓太の顔に投げつける。ベチンという音が、教室に響いた。
目の前の啓太は、信じられないものでも見たような顔をしている。ここまでされて、わたしが怒らないとでも思ったのだろうか。だとしたら、それは大間違いだ。今のわたしは、全身の血液が沸騰しそうなほど怒っている。
しばらくの間、教室は静寂に包まれていた。雑巾を投げる時に振り下ろした右手をそのままにしている祥文、真面目に掃除をしていた教室の掃除班の女子たち、そして目の前の啓太。皆がわたしを見つめている。わたしはそれらの視線に耐えきれなくて、水浸しになった自由帳を胸に抱えたまま、勢いよく立ち上がって走り出した。
「お、おい……香織!」
後ろから啓太が呼ぶ声が聞こえてきたけれど無視する。一刻も早く、わたしは気持ちを落ち着けたくて、一人になりたくて、下駄箱に向かって走る。
「あっ……香織!」
下駄箱の影から聞こえてきた声を聞いて、わたしは立ち止まる。そこには、わたしに向かって小さく手をふる麗華の姿があった。その姿を見た瞬間、先程まで抱いていた啓太に対する怒りを大きく上回るほどの、麗華に対する申し訳無さや自分の不甲斐なさがこみ上げた。
「麗華……ご、ごめん……」
わたしは麗華の顔を見ることが出来なくて、俯いていた。
「香織?」
そんなわたしを、麗華は下から覗き込む。真っ直ぐな視線が、わたしの瞳をしっかりと捉えた。それがますます、わたしの心を締め付ける。真っ直ぐに夢に向かって進む麗華の、大切な作品を汚してしまったのは、他でもないわたしなのだから。
何も言えずに、その場で立ち尽くしていると、後ろから「おい香織、ごめんって! 俺が悪かったよ!」という啓太の声が聞こえてくる。わたしを追いかけてきたのだろう。
啓太の声に急かされるように、わたしは麗華の両手に自由帳を押し付けると、上履きのまま校庭へと駆け出した。
「どうしたの? 香織?」
急なことに戸惑う麗華の声が聞こえてくる。でも、こんな声を聞けるのもこれで最後かもしれない。だってわたしは麗華の努力の結晶を粉々にしてしまったのだから……。次に会う時は、もう麗華はわたしのことを友だちとは思ってくれないだろう。
ごめん……そして、さよなら麗華……今までありがとう。
心の中でそう呟きながら、一人でわたしは家へ続く道を全力で駆け抜けた。
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