第7話

 穏やかな昼下がりの午後。近所の公園には、ゆったりとした空気が流れていた。鉄棒で友達と逆上がりの練習をしている女の子、お母さんに見守られながら滑り台で遊ぶ年少さんくらいの子、持ってきたボールでサッカーをしている男の子たち。皆がそれぞれ、自由な時間を過ごしている。


 そんな中、わたしと麗華ちゃんは木製のベンチに隣同士で座っていた。


 「よし……大体のセリフは覚えられたと思う。でも細かい所は微妙かも……。わたしが菫の役で良いんだよね?」


 「うん。香織さん、今日は本当にありがとうね。セリフ覚えるの大変だったでしょ?」


 「全然大丈夫だよ。改めてじっくり恋メロを読み返せて楽しかったし。まあ、もしかしたら途中でセリフ間違えちゃうかもしれないけど、その時は勘弁してね」


 わたしは麗華ちゃんに向かって両手をあわせる。


 「それは私も一緒だよ」


 そう言いながら、麗華ちゃんは持ってきたさくらんぼのパックを開けた。


 「わぁ……綺麗……」


 夏の日差しを反射したさくらんぼは、ピカピカと光っていて宝石みたいだった。


 「早く食べたいなぁ……。ねっ、麗華ちゃん、早速始めようよ!」


 「えっもう? まだ心の準備が……」


 「そんなの要らないって! じゃあ今からわたしが菫で、麗華ちゃんが雅人だからね! はい、ヨーイスタート!」


 「えぇっ!」


 わたしの突然の掛け声に戸惑っている様子の麗華ちゃんだけれど、もう演技は始まっている。わたしは早速さくらんぼを口に含んだ。


 あっ、美味しい……。

 

 久しぶりに食べるさくらんぼは、甘くてほっぺがこぼれ落ちそうなくらいだった。しばらくの間、その風味を堪能していたわたしだったけれど、演技中だったことを思い出す。


 「わたし、さくらんぼって食べるの久しぶりだなぁ。雅人はどう?」


 わたしは菫になりきる。この時の菫は確か、上目遣いで雅人のことを見つめていたはずだ。だからわたしも同じ様に、麗華ちゃんをじっと見つめる。


 「お、俺はそうでもないかな。ここ最近は毎日さくらんぼ食べてるし……」


 わぁ、麗華ちゃんが「俺」って言ってる……。


 わたしは女の子である菫になりきっているから普段とそこまで言葉遣いは変わらないけれど、男の子である雅人になりきった麗華ちゃんは、いつもと全然口調が違っていた。

 鈴を転がしたような、澄んだ美しい麗華ちゃんの声質と、「俺」という一人称のギャップが凄い。でも何故か不思議と、これはこれでありな気がする。


 っていけない……麗華ちゃんに見とれてないで、次のセリフを言わないと……。


 「雅人って、いやらしい人だったんだね……」


 「何でそうなるの! さくらんぼ毎日食べてるって言っただけだよね?」


 少し目を大きく見開いた麗華ちゃんが、勢いよくわたしの方を向く。


 「知ってる? さくらんぼのヘタを口の中で結べる人はキスが上手なんだって。雅人も毎日、さくらんぼ食べるついでに練習してるんじゃないの?」


 わたしは新しくさくらんぼをパックから一つ取って、ヘタの先っぽをつかむと雅人……じゃなくて麗華ちゃんの前で小刻みに揺らす。


 「いや、してないって! そもそもそんな知識、今初めて知ったよ!」


 「本当かなぁ……」


 「本当だよ! じゃあ今から証明してやるよ。俺がさくらんぼのヘタで結び目を作れなければ良いんだろ?」


 麗華ちゃんは勢いよくわたしの右手からさくらんぼを奪うと、ヘタだけもぎ取って口へ放り込んだ。


 「そんなの証明になんないよ。雅人が手を抜けばいいだけの話じゃん……」


 「俺がこういうことで手を抜くような奴に見えるか?」


 「それは……見えないけど……」


 確かこのタイミングで、菫は少し俯いて顔を赤らめていたはずだ。本当は雅人の演技をしている麗華ちゃんの姿をもう少し見ていたかったのだけれど、出来るだけ正確にシーンを再現したかったので、わたしは視線を下にずらした。顔の色は……自分の意思では変えられないのでそのままだ。


 「おい菫、そう言うお前はどうなんだよ? こんな訳わからない知識があるくらい何だから、お前の方こそいやらしいんじゃないのか?」


 「ち、違うもん!」


 「じゃあお前も証明してみろよ……ほら」


 麗華ちゃんは新しく、さくらんぼからヘタをもぎ取るとわたしに手渡した。


 「わ、分かったわよ……」


 わたしはそれを受け取って口に入れる。ここからしばらく、雅人と菫が無言で口をもぐもぐとさせるシーンが続く。


 結局ヘタ結びに成功するのは雅人だけで、菫に「やっぱり雅人はいやらしいんだ……」と言われてかわかわれる、というのが今後の展開だ。だから菫役のわたしはヘタ結びを成功させてはいけないのだけれど、せっかくなので麗華ちゃんが成功するまでの間、わたしもチャレンジしてみることにした。


舌の先の方でヘタを抑えて、そして輪っかを作って……よし、輪っかできた! 次に端っこをこの輪っかの中に入れられれば!


 でもそこからが中々上手くいかなかった。端っこを通そうとすると、どうしても輪っかが崩れてしまうのだ。


 何度チャレンジしてみても、なかなか上手くいかない。けれどわたしは次第にコツをつかみ始める。どうやら歯の裏側の部分を使うと、輪っかを固定しやすいみたいだ。そのことが分かってから三回目くらいのチャレンジでわたしは遂に……


 出来た!!


 さくらんぼのヘタ結びに成功した。チャレンジする前は多分無理だと思っていたけれど、やってみると意外に出来るものだなぁと、わたしは少し感動に浸っていた。けれどすぐに、本来、菫役であるわたしはヘタ結びに成功してはいけなかったことを思い出して、慌てて結び目をほどこうとする。


 しかし頑張って結んだおかげで結び目はとても固くて、全くほどける気配がない。麗華ちゃんが完成させる前にどうにかしないと……と思えば思うほど、ますます結び目は固くなる。


 そこから五分以上悪戦苦闘しても結び目は一向にほどけず、これはもうどうにもならないと思ったわたしは、麗華ちゃんに謝る覚悟を決めて横を向く。


 そこには、難しい顔をしながらもぐもぐと口を動かす麗華ちゃんの姿があった。わたしに遅れること数瞬、麗華ちゃんもこちらを向く。


 「ごめん! 香織さん……」


 「ごめん! 麗華ちゃん……」


 わたしと麗華ちゃん、二人の声が綺麗にハモる。一瞬の間を置いて、わたし達は同時に吹き出した。何故だかわからないけれど、麗華ちゃんと声が揃ったことが、嬉しくって面白かった。


 「麗華ちゃんからお先にどうぞ」


 わたしの言葉を受けて、麗華ちゃんはピンク色の小さな舌をペロリと出した。そこには少しカーブした黄緑色のヘタが乗っている。麗華ちゃんはそのヘタを手で取ると、さくらんぼパックのふたに置いた。


 「香織さん、ごめんね……。本当は結ばなきゃいけないのに、私には難しかったみたい……」


 麗華ちゃんはシュンとした顔で俯く。


 「それを言ったらわたしも同じだよ……。わたしは結んじゃダメだったのに、暇だったから口の中で転がしてたら結べちゃって……。それでなんとかしないとって思って、ほどこうとしたんだけど、結局ほどけなかった……」


 わたしも麗華ちゃんと同じ様に舌を突き出す。「香織さん凄い!」と麗華ちゃんが小さく歓声を上げる。


 「もしかしたら私と香織さん、役を逆にしたほうが良かったかもね」


 確かにわたしもそう思う。わたしが雅人の役をしていれば、結び目を作っても何の問題も無かったのだから。


 「でも、わたしは麗華ちゃんの雅人も凄く良かったと思うよ? 『俺がさくらんぼのヘタで結び目を作れなければ良いんだろ?』っていう麗華ちゃん、すっごくカッコよかった」


 わたしは、雅人を演じる麗華ちゃんのマネをする。


 「ちょっと、香織さん……恥ずかしいよ……」


 「そんなこと無いって。『俺』って言う麗華ちゃんも、わたしのことを菫って呼び捨てにする麗華ちゃんも、いつもと違って良かったもん」


 麗華ちゃんはいつも、他の人を呼ぶ時「〇〇さん」とさん付けで呼んでいる。だから呼び捨てする麗華ちゃんは新鮮だ。


 「ねっ、麗華ちゃん。ちょっとわたしのことも呼び捨ててみて!」


 それは、ちょっとした好奇心だった。


 「ええっ?」


 「良いでしょ~? さっきまで『菫』って呼び捨てしてたんだから」


 「でも、あれは恋メロのセリフを読み上げてただけで……」


 「細かいことは良いからさ。ほら、ほらっ!」


 わたしは両腕を広げて麗華ちゃんを促した。一、二秒のためらいの後、麗華ちゃんは小さな声でボソリと呟く。


 「か、香織……」


 「……」


 しばらくの間、わたしと麗華ちゃんは無言になる。近くでサッカーをする男の子たちの掛け声だけが聞こえてくる。


 「ほらっ、やっぱりわたしに呼び捨ては似合わないよ。ねっ、香織さん?」


 「……もう一回」


 「えっ?」


 「もう一回」


 「でも……」


 「もう一回!」


 わたしは必死に畳み掛ける。


 「は、はいっ! ……香織?」


 ……凄く良い!


 麗華ちゃんに呼び捨てされるのは、思っていた以上に気分が良かった。今まで以上に友達として距離が縮まったような感じがする。それに、皆に対してさん付けをする麗華ちゃんが、わたしだけを呼び捨てしてくれる優越感みたいなものも感じた。

 そもそもわたしが同学年の子に呼び捨てにされるのは、これが初めてだ。……いや、よく考えたら男子たちはわたしを呼び捨てている。じゃあ訂正して、同学年の女の子に呼び捨てにされるのは、これが初めてだ。大体の子は、わたしを「香織さん」か「香織ちゃん」と呼ぶし、ちゃんゆいやみっちゃんは「かおりん」とあだ名で呼ぶ。だから女の子の声で聞く「香織」という言葉の響きも凄く新鮮だった。

 他にも色々と理由はあるのだけれど、とにかく、麗華ちゃんに呼び捨てされるのは最高の気分だった。


 「ねえ、麗華ちゃん」


 「どうしたの? 香織さん……」


 呼び方が元に戻ってる……。


 「これからは、『香織さん』じゃなくて『香織』って呼んでくれないかな?」


 わたしの言葉に麗華ちゃんは、少しだけ体を震わせる。そしてそれから、右手の人差し指で髪先をくるくるといじっていた。


 「でも……」


 「お願い!」


 「私がちゃん付けで呼んでもらっているのに、一方的に呼び捨てなんて出来ないよ……」


 「……言われてみれば……」


 さっきからわたしは自分のことしか考えていなかったけれど、よく考えたらわたしだって麗華ちゃんのことを、ちゃん付けで呼んでいた。


 「じゃあ、わたしも麗華ちゃんのこと呼び捨てにするからさ……。いくよ?」


 麗華ちゃんは小さく頷く。


 「れ、麗華……」


 いざ口に出してみようとすると、何故か顔が少し熱くなる。


 麗華ちゃん……じゃなくて、麗華の気持ちが少しだけ分かった気がした。確かに呼び捨ては少し恥ずかしい。同学年の女の子に呼び捨てにされるのが初めてだったわたしだけれど、呼び捨てにするのもこれが初めてだった。今まで付いていたものが急に無くなる違和感がむず痒いような、それでいて新たな一歩を踏み出せて嬉しいような……そんな気持ちになる。


 「ほら、ちゃんと呼んだよ。これで麗華ちゃ……麗華も、わたしのこと『香織』って呼んでくれるよね?」


 「うん……」


 一瞬、迷ったような表情を浮かべた麗華だったけれど、最終的にはコクリと頷いた。


 「香織」


 「麗華」


 「香織」


 しばらくの間、わたしたちは互いの新しい名前を呼びあった。何度か口に出しているうちに、次第に「麗華ちゃん」ではなく「麗華」が馴染んでいく。


 互いに耳まで赤くさせながら、こうして見つめ合って名前を呼び合っていると、益々恥ずかしくなってくる。慌ててわたしは麗華から視線を逸らすと、さくらんぼを一つ手に取った。それを口に放り込むと、最初に食べたものよりも少しだけ酸っぱい味が広がった。


 さくらんぼは甘ければ甘いほど良いと思っていたけれど、甘酸っぱいのも意外に美味しいことを、わたしは今日初めて知った。

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