第2話
今日は七月の第二土曜日。ここ最近、お日さまが急に元気を出し始めて外はカンカン照りだ。朝のニュースでお天気お姉さんが、今日の最高気温は三十度だと言っていた。
普段だったら、こんな日はエアコンの効いた家で過ごすことが多いのだけれど、珍しく今日のわたしは、お母さんの用意してくれた水筒片手に近所の図書館に来ている。
「やっと着いた~~。涼し~!」
両手を広げて、エアコンの冷気を全身に浴びる。炎天下の中、十五分くらい歩きっぱなしだったので汗だくだ。わたしはハンカチで首元を拭き、水筒の麦茶を勢いよくゴクゴクと飲んだ。ちなみに今日のハンカチはお母さんのものを借りてきている。朝のテレビの占いで、今日のラッキーアイテムは紫色のハンカチと言っていたけれど、わたしはそんなハンカチ持っていなかったからだ。
五分くらい経って、全身の汗がやっと引く。
よ~し! 探すぞ!
今日、わたしが図書館に来たのは少女漫画を読むためだ。どうして突然、少女漫画? って不思議に思うかもしれないけれど、これにはわけがある。
結局昨日、辞典で調べても「恋愛」が何なのかは分からなかったので、別の方法で調べようと思ったのだ。それで真っ先に思いついたのが少女漫画。この前、クラスメイトのみっちゃんも、少女漫画を読んだら恋愛したくなったと言っていた。わたしも読んだら、何かが分かるかもしれない。
え~っと、漫画はどこにあるんだろう?
わたしは、学校の図書室よりも随分と広大な図書館を歩き回る。ここには色々な本があった。図鑑、辞典、小説、参考書、雑誌……。わたしよりも小さい子どもからお年寄りまで、皆、好き好きに本を広げている。
これだけ沢山の本があるのなら、きっと少女漫画だってあるはず。
そう思ってわたしは本棚の間を縫うように歩き続けた。しかし、わたしの見当はあっさり外れる。一時間くらいかけて図書館を二周したけれど、肝心の少女漫画は、どこにも見当たらなかった。
「おかしいなぁ……」
もしかしたら少女漫画は本棚の上の方にあって、わたしの背丈では気が付かない所にあるのかも? そう思ったわたしは、三周目に突入するのを止めて、大人しく受付のお姉さんに場所を聞くことにした。
「すいません、少女漫画ってどこにありますか?」
そんなわたしの質問に、お姉さんは申し訳無さそうな顔をする。
「ごめんね、実はこの図書館、少女漫画は置いてないの……。学習漫画なら少しはあるのだけど……」
「そうですか……」
わたしはがっくりと項垂れた。
結局、何の成果も得られないまま、わたしは図書館を後にして、再び炎天下の中をトボトボと歩いていた。
「暑っつ~い……」
せっかく図書館で引いた汗が再び流れ出てきたので、わたしはポケットに手を入れてハンカチを取り出そうとする。
「あれっ?」
しかし、そこには何も無かった。反対側のポケットに入れたのかと思って探してみるけれど、そちらにもない。
もしかして、どこかで落とした?
そのことに気がついた途端、お日さまにジリジリと照らされているにも関わらず、わたしの背筋がゾッと凍る。今朝、お母さんが言っていたことを思い出す。
「それ、お母さんの大切なハンカチだから絶対になくさないでよ? なくしたら、一週間、毎日晩ごはんピーマンにするからね!」
ヤバい! どうしよう……。どこで落としたんだろう?
慌ててわたしは来た道を戻る。けれどどこにも、お母さんのハンカチは見当たらなかった。
図書館に置いてきた?
ゼーゼーハーハーと肩で息をしながら、わたしは図書館の受付カウンターに引き返す。
「すいません、落とし物届いてませんか? お母さんのハンカチが……!」
「あら? あなたはさっきの……っと、今はそれどころじゃないわね。落とし物のハンカチね? え~っと……あった、あった。もしかしてこれのことかしら?」
そう言ってお姉さんは、縁にレースのついた紫色のハンカチを差し出す。それは紛れもなくお母さんのハンカチだった。
「これです! 良かったぁ……」
全身の力が一気に抜ける。とりあえず一週間ピーマン地獄を回避することが出来て、一安心だ。
「お手洗いに置いてあったらしいわよ。あそこの女の子が私に届けてくれたの」
そう言ってお姉さんは、遠くを指差す。
「閲覧スペースの一番奥の席に座ってる、あなたと同い年くらいの女の子。見える? 水色のワンピースを着ているのだけれど……」
わたしはじっと目を凝らす。そこには確かに、水色の服を着た女の子がいた。一心不乱に何かを読んでいる様子だ。
「もしかして、
わたしは、クラスメイトの名前を挙げた。本名は
「あら? もしかして、お友達だった? じゃあ、お礼言わないとね。ほら、いってらっしゃい」
お姉さんは、わたしの肩を軽く押した。お姉さんにもお礼を言うと、わたしは閲覧スペースに向かって歩みを進める。
やっぱり麗華ちゃんだ!
残り五メートルくらいの距離まで来たところで、わたしは確信する。麗華ちゃんは、じっと何かを読んでいた。
何を読んでいるのかな?
そう思ったわたしは、後ろから覗き込んだ。そこには可愛らしい女の子とカッコいい男の子のイラストが描かれている。これってもしかして……。
「少女漫画?」
思わず溢れたわたしの呟きに、麗華ちゃんはビクッと肩を震わせる。どうやら驚かせてしまったみたいだ。
「香織さん?」
恐る恐る振り返った麗華ちゃんは、ぱっちり二重でわたしを見つめてそう言った。
「驚かせちゃってごめんね……。これ、見つけてくれたの麗華ちゃんなんだよね?」
わたしは受付のお姉さんから受け取った、お母さんのハンカチを見せる。
「う、うん……トイレの洗面所に置いてあったよ。目立つ色だったから、すぐに分かったの」
洗面所? あっ、そう言えば……髪型が少し気になって、洗面所にある鏡の前で整えたような……。その時にハンカチを置きっぱなしにして、そのまま忘れちゃったのかな。
「あの時か~、思い出した……。とにかく、麗華ちゃんありがとう! お陰でピーマン地獄を味わわずに済むよ……」
「ピーマン?」
麗華ちゃんは不思議そうに首を左に傾げた。右耳にかかっていた髪の毛の束が、サラリと落ちて首にかかる。こういう仕草の一つ一つに落ち着きがあって、わたしはちょっぴり憧れる。
「ピーマンは……こっちの話だから大丈夫。それより本当にありがとね」
「ううん、気にしないで。たまたま見つけたのが私だっただけだから」
返しの一つ一つが凄くカッコいい。わたしだったらきっと、少しくらい恩着せがましく言ってしまうと思う。
どんな生活をしていたら、麗華ちゃんみたいに大人っぽくなれるんだろう……。
これまで麗華ちゃんとはあまり話す機会が無かったけれど、どんな子なのか少し気になってきた。けれど麗華ちゃんは「じゃあね」と言うと、そのまま少女漫画の世界に戻ってしまう。
もう少し麗華ちゃんのことを知りたい。
そう思ったわたしは、思い切って口を開く。
「ね、ねえ!」
再び麗華ちゃんは、ゆっくりとこちらを向く。
「それ、どこにあったの? わたしも探してたんだけど、受付のお姉さんに、ここには漫画は置いてないって言われちゃって……」
わたしは、麗華ちゃんが読んでいた少女漫画を指差した。
「これは図書館にあったんじゃなくて、私が家から持ってきたの。香織さん、恋メロに興味あるの?」
麗華ちゃんはわたしに、手元の少女漫画の表紙を向ける。そこには「恋する君のメロディー」と書いてあった。それを略して『恋メロ』ということらしい。
「うん」
わたしは小さく頷く。本当は恋メロに興味があるというよりは、少女漫画全般に興味があるのだけれど、余計なことを言う必要は無い。そんなことを言ったら、麗華ちゃんに空気読めない人だと思われるに決まってる。友達を作るには、空気を読むスキルは必須なのだ。
「本当!?」
麗華ちゃんは、表情をぱっと明るくさせる。麗華ちゃんのこんな顔を見るのは、はじめてだ。
「麗華ちゃんは恋メロのファンなの?」
「うん。恋メロは、わたしにとって凄く大切な作品なの……」
麗華ちゃんは胸に恋メロを抱きしめる。彼女をここまで虜にする少女漫画。それは一体どんなものなのか、わたしは凄く気になった。
もしかしたら、これを読むことで「恋愛」という言葉の意味が分かり、そして麗華ちゃんのように大人っぽい人になれるかもしれない。
「そうなんだ……。わたしも買ってみようかな」
わたしは堅実にお小遣いを貯める方なので、漫画数冊くらいなら今の貯金でも買えるはずだ。
「あ、あの、香織さん!」
私が頭の中で金勘定をしていると、突然、麗華ちゃんは恋メロをわたしの方へ突き出した。
「どうしたの? 麗華ちゃん?」
「この恋メロで良ければ貸すけれど……香織さん読んでみない?」
「……」
わたしがしばらく無言でたたずんでいると、麗華ちゃんは申し訳無さそうな顔をする。
「ご、ごめん……迷惑だったよね。持って帰るの大変だし、新品のほうが良いもんね……。余計なこと言ってすみません」
そう言って麗華ちゃんが引っ込めかけた恋メロを、わたしは慌てて両手で捕まえる。
「違うよ! すっごく嬉しい。ただ、貸してもらえると思ってなかったから驚いて……。あんなに大切そうにしてたから」
麗華ちゃんに恋メロを貸してもらえるのなら大助かりだ。金銭的にも、そして麗華ちゃんについて、もっと知るためにも。
「大丈夫、家にもう一セット恋メロはあるから……。それに大切な作品だからこそ、沢山の人に読んでもらえたら嬉しいの」
そう言う麗華ちゃんは、本当に嬉しそうな様子だった。これまで学校で見たことのなかった一面を見れた気がして、わたしも嬉しい気持ちになる。
「そっか……ありがとう! いつまでに返せばいい?」
「読み終わったらで大丈夫だよ。あと二巻と三巻も持ってきてるから、よかったら一緒に読んでみて!」
麗華ちゃんは、わたしに紙袋を差し出した。
これがわたしと恋メロの出会いだった。
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