第三章『取り返しのつかない過去』 その1

「おはようございます、おりくんせんぱい! いっしょに学校へ行きましょうっ!」

 明くる水曜日も、とうは朝から僕の家までやって来た。

 結局、この《明るくって悪戯いたずらっぽい後輩》ムーヴをやめるつもりはないらしい。

 両親の朝が早くてよかった。灯火が来る頃には、もう通勤に出ているから。もし朝から後輩に迎えに来させている(させてない)なんて知られたら、まあ面白くはない。

 とはいえ、二日目ともなれば僕も慣れる、というか対処も考えてある。灯火が来るより前に、ひと通りの身支度は済ませておき、チャイムが鳴ると同時に家を出た。

「今日は家に入れてくれないつもりですね……むむむっ。昨日は見られなかった伊織くんせんぱいの自室を、今日は見せてもらうつもりだったのに……」

「許可が出る前提で予定を立てるな。僕が部屋にまで上げてやると本気で思うのか?」

「ちっちっち、伊織くんせんぱいこそ甘いですね。このわたしが、許可をもらえない程度のことで諦めるとお思いですか? 狙った獲物は逃がさないのが灯火ちゃんですよ?」

 とんでもないことを当たり前みたいに言わないでほしい。

 こういうところは厚かましいのにな。昨日はおごってやろうとしたら強く遠慮された。

 なんというか、気の遣いどころを間違っている。

「男の子の部屋に入って、やってみたいことがあるんですよね、わたし」

 とうは言ったが、やらせる気がないので僕は掘り下げない。

「そっか。興味ない」

「……あの。そこは『何を?』っていてほしいなー、って乙女心がですね?」

「お前、本当に面倒臭いよな……何を?」

「文句言いつつも結局は訊いてくれるおりくんせんぱいだって、充分に面倒臭いですよ」

「ああ言えばこう言う……」

「えへへ。さておきですね、彼氏の部屋で女の子がやることなんて、ひとつしかないって思いません……? ね、伊織くんせんぱぁい? わたし、別にいいんですよぉ……?」

 人差し指を唇に当てて、灯火はのぞむような上目遣いで僕に視線を流した。

 艶っぽいとか色気があるとか思ってほしいのだろうが、ニヤケ面が隠しきれていない。

「はあ……何をしたいって?」

「あー、気になります? 気になっちゃいますぅ? それはもちろん、えっちな本を探すことに決まってるじゃないですかっ☆ きゃー、伊織くんせんぱいったら、もーう♪」

「…………」今どき、さあ……、ねえ?

 あきれの無言を、灯火は都合よく解釈して満面の笑みになる。

「おやおやー? 伊織くんせんぱい、なーんか期待しちゃいましたー? おやあー?」

「そうだな。最後の期待を、裏切られたという気分だよ」

 ある意味では。

「あっは、残念でしたね、せーんぱーいっ。もう、伊織くんせんぱいも、なんだかんだで意外とムッツリさんですよねー。これは本当にお部屋に隠してるんじゃないですかぁ?」

「……その通りだよ」

「わふぇっ!?」

「そんなに興味があるなら、何冊か持って帰ってもいいけど」

「は!? え、いや、ちょお待っ、せんぱっ、ええっ!? そんなの想定してな……っ!?」

 自分から振っておいて、打ち返されるだけで負けないでほしい。僕が困る。

 からかい上手を気取るには、あまりに隙が多すぎる。そろそろ諦めりゃいいのに……。

「だあっ、なんですかその馬鹿にした顔っ! またからかいましたねっ!?」

「知らねえよ。自爆だろ、ほとんど」

「くぅ、むかつく……いつか絶対ぎゃふんと言わせてやるぅ……!」

「お前そのためにまだやってんの?」

「そうですけどー!? わたしは、せんぱいを照れさせるまで、絶対に諦めないっ!!」

 そうじゃなければよかったなあ……。

 もうただただ僕に対する対抗心でやってんだもん……。ぎゃふんって言えばいいの?

「ぎゃふん」

「ほらそういうとこぉっ!」

 本当に、朝からやかましいやつだった。元気なことで結構である。

 そうこうしているうちに、昨日の昼食を買った店の前まで辿たどく。

「ところでとう。そろそろコンビニだが──」

「ところでおりくんせんぱいっ!」

「うぉ──え、どうした」

 僕の言葉へかぶせるようにして、いきなり声を張り上げる灯火。

 驚いて隣に目をると、灯火は少し緊張した面持ちで、ほうと息を吐く。

「あのですね。お昼は、二年生の教室にお邪魔しないという約束をしたじゃないですか」

「したな。……撤回する気はないぞ」

「約束ですので守りますよ? 別にお昼以外はぜんぜん行きますし」

「……そういえば、昼としか言ってなかったっけか、僕は」

「ですねー。意外と詰めが甘いです、ふふ」

 契約の内容にがあったか。僕も間が抜けている。

 デート程度の対価なら、まあそんなものだと思っておこう。

「ですので!」灯火はかばんから何かを取り出し。「このお弁当を渡しておきます!」

「……作ってきたのか? わざわざ?」

「はい! あ、まさかいらないとか言わないですよね? さすがにないですよねっ!?」

「…………」

「だ、黙らないでもらえます!? あ、あの、さすがにこれを断られちゃうと、わたしもかなりショックというか、結構立ち直れない感じなんですが……えと」

「……わかったよ。ありがたく頂くことにする」

「ほんとですかっ!」

 ぱっ、と花が開くみたいに、灯火は笑みを見せた。素直な表情だと思った。

 仕方がない。弁当があるとか、買ってしまったならともかく、持っていない以上は断る理由も見つけられない。せっかくの手作りを、にするのもさすがに悪いし。

「弁当箱は洗って今日中に返すよ」

「はいっ! これでお昼も、伊織くんせんぱいはわたしのことを思い出してくれますねー」

「……灯火みたいな強烈な奴、忘れろってほうが難しいだろ」

「あ──」

 なんの気なく告げたその言葉に、灯火はきょとんと目を見開いた。

 普段のように照れている、というわけでもない。純粋に、何かに驚いたような様子だ。

「……とう?」

「え。あ、えと、……いえなんでも! あ、あの──わたし先に行きますねっ!」

「は? おい、お前──」

「ちなみにおりくんせんぱい! 今日のお昼は、わたしは中庭でお弁当を食べる予定だという情報をお渡ししておきますのでっ。それはでお先に失礼しますっ!」

 それだけ言うなり、灯火は小走りで学校へと向かってしまった。

 僕は置いていかれた形だ。最後につけ足した言葉の意味も──いや、これは。

「……そういうことか」

 やられた。というか予想より灯火がしたたかだった。

 今日の放課後、僕には予定がある。水曜日の放課後は付き合えないと灯火にも言った。

 これは、つまり昼休みの間に弁当箱を返さなければ明日まで会えないかもしれない、ということになる。だから灯火は、いっしょに食べようと遠回しに誘ったのだ。

 これは僕の負けだろう。

 教室まで来ないと約束したなら、僕のほうから来させればいい。なるほど考えている。

「まあ、ウチの学校の中庭なら目立たないだろ……」

 どうやら今日の昼休みも、灯火といっしょになるらしい。

 負けを受け入れ、僕は再び歩き始める。ただ、少しだけ疑問だった。

 灯火が逃げるように走り去ったのは、本当にこれが理由なのだろうか──と。


 ──結局、灯火は大半の休み時間で僕に絡んできたし、昼も中庭に行くことになった。

 その次の日も変わらない。木曜日も金曜日も、灯火は僕のところに来た。

 クラスの中では、さすがに話題になってしまったらしい。それをとおから聞いた。

 まあ、そりゃそうだ。これはさすがに。

 二年の《氷点下男》に猛アタックをかける女子がいるといううわさは、小規模ながらクラスメイトたちに、昼休みの雑談のネタとして供された。

 ということは当然、彼女の耳にもその話は届いているはずで。

 土日を、僕は久々にぼうっとして過ごした。

 さすがに灯火が家まで押しかけてくることはなかったが、連絡先を教えてしまったからだろう。一日に何度か連絡が来た。

『今、何してますかー?』『今日のお昼はパスタです!』『実はわたしは、ちょうどお風呂上がりなのです! どうですかー、変な想像しちゃってませんかー?』などなど。

 特に中身のない、本当にどうでもいいような文章。若干もう捨て身入ってきたな……。

 一度、返事を打つのがおつくうになって、スタンプで返してやったところ、

おりくんせんぱいがスタンプ使うとか超意外なんですけど! マジ似合いませんね!』

 と返ってきた。

 僕は千円使ってダウンロードランキング上位のスタンプをあさり、以降それを使った返答以外の一切をやめてやった。十回目で『謝るので文章で返事ください!』と来た。

 勝った。

 正確には千円負けたという気がするが、千円で勝ったということにする。

「何がしたいんです、それ? 伊織先輩は意外と馬鹿だ」

 日曜日。散歩に出かけた先で会ったおりには、そんなことを言われてしまったが。

 今日も今日とて、露店を広げている小織。本来の店主は、どこを遊び歩いているのか。

「まあ、必要経費だよ。馬鹿だったとは思うけど、後悔はしてない」

 そう僕は言う。とうと最近よくいることを、彼女は当たり前みたいに知っていた。

「……はあ。本当、伊織先輩は一度でも懐に入れた相手には死ぬほど甘い。あまり後輩をやきもきさせるものじゃないよ。かわいいと思うなら、ちゃんと向き合わなくちゃ」

「……灯火に対してそんなこと思ってねえよ」

「違うよ、伊織先輩」くすり、と小織は色っぽく微笑ほほえむ。「今言った後輩は、私のことだ。釣った魚のこと、簡単に忘れてもらっては困るからね。私もかわいい後輩、だろう?」

「お前な……よく言うよ」

「あはは。ま、後輩との付き合い方は、少し考えてみたほうがいいと私は思うかな」

 からからと笑う小織には、ばっちりからかわれる僕だった。

 灯火には悪いが、こっちの後輩は本当に色っぽくてかわいかった。小織が本当に後輩かどうか、僕は知らないけれど……まあ、それはさておき。

 小織が言うほど、僕は現状を不安視していない。このまま状況がこうちやくするなら、むしろ歓迎したいくらいだ。

 その場合は、単に新しい友人がひとりできるというだけの話なのだから。

 何も問題はない。このままの日常を過ごせるのなら、それ以上の望みは僕になかった。

 何か特別なことが起きることもなく。このままふたはら灯火とは、ひとりの先輩として付き合っていけるのなら。この日々が日常の枠の中に納まり続けてくれるなら──それで。

 それで、よかったのだ。


 ──けれど。

 世界がそうくコトを運ばないことも、僕はまた知っているのだ。

 状況は、小織に会ったさらに翌日。

 七月一日。灯火と再会した、その翌週の月曜日に動いた。

 いな──僕が気づいていなかっただけで、もうとっくに動き始めていたのだ。

 それは、決してありがちな表現としてではなく。

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