第二章『後輩のいる日常』 その4

「いやあ、盛り上がっちゃいましたねえ、おりくんせんぱいっ!」

 店の入口を出たところで、とうが伸びをしながら言った。

 もうとっくに暗くなり始めている。こういうのも久し振りだ、と僕は黄昏たそがれ色を仰ぐ。

「……そうだな。カラオケがこんなにカロリーを使うとは知らなかった……」

「手、震えてません? おもしろーい」

「あれだけ楽器を使わせておいて、よく言うよ……」

「伊織くんせんぱいが真顔でマラカス振ってるのが面白すぎるからいけないんですよ! カスタネットも、カポカポたたいてるザマに、なかなかクるものがありましたし!」

「ザマっつったぞ、こいつ……楽器鳴らしてただけでそこまで言うか?」

「まあ、それでもタンバリンがやっぱり今日一でしたね! ね、ね、伊織くんせんぱい! 次に来るときはコスプレとか借りましょうよ! メイドとか絶対似合うと思うんですっ」

「────────」

「う、わ……や、やだなあ、伊織くんせんぱい。目がこわーい……」

 笑い者になるなど二度と御免だ。

 今日はあくまで《デート》という前提があったから、甘んじて受けたに過ぎない。僕は僕の、エスコートをするという約束を、ただ果たしただけなのだ。

 ところで、エスコートという言葉のスマートさに反して、僕はただ笑われまくっただけという気がするのだが、これはなぜだろう。こんなに格好悪いものなのか?

「……太陽が、隠れちゃいますね」

 小さく、灯火はつぶやいた。

 夏前とはいえ、もうすぐも完全に沈む時間だ。灯火がぶるりと肩を震わせていた。

「そういえば、寒がりなんだったか」

 と、そう言った僕に、灯火はなぜか数秒黙ったあと。

「いえ? わたしはむしろ暑がりです」

 この前と言っていることが違う。

「あー、あっついなー。あつーい」

 制服の胸元をぱたぱたさせながら、隣の灯火はこちらを斜めに見上げてくる。

 何かのアピールなのだろうか。僕が無言を保ち続けると、灯火もすぐにそれをやめた。

「……やっぱり、おりくんせんぱいにはか」

「なんの話だよ?」

「いえ? ……まあ、胸元アピールというか」

かなきゃよかったよ」

 ふと、僕はりゆうが暑がりだったことを思い出した。

 小学生当時は気にもめなかったが、ときどき際どい格好もしていた気がする。

 逆に妹のほうは、いろいろ姉とは反対の部分が多い気がした。その割に妙に話しやすく感じるのは、その振る舞いがどこか姉を想起させるから──かもしれない。

「寒がりと言いますか。わたしは、あったかいものが大好きなんです」

 とうつぶやく。だとしたら、僕のことは好きではないだろうに。

 そう思ったが、それを口にはしなかった。灯火はほう、と息を吐く。

「だから、わたしはあんまり、夜が好きじゃないんですよね」

「……近くまでなら送っていくぞ。流希の……お前らの家の場所なら覚えてる」

「そこそこ距離あると思いますけど? あはは。てか、別に気を遣わなくていいですよ」

「昨日、さんざ説教した手前な。僕が理由で暗い中を帰らせるのも悪い」

「いろいろ理由つけても、結局優しい伊織くんせんぱいなのでしたーって感じです」

 そんなつもりはない。僕はただ、僕の責任を果たしたいだけだ。

 親友だったおさなみの妹に、融通を利かせるくらいはする。

「……知ってるだろ。夜は悪いことをしていい時間なんだって話」

 だから僕はそう言った。

 昼間っから悪戯いたずらだった、かつての幼馴染みの言葉。

「お天道様が見てませんからね。いや、だからって悪いことしたらダメだと思いますけど」

「その通りだな」

「まあお姉ちゃんは、あえてお天道様に見せてたんだと思いますけど」

 それも、僕は知っていた。本人から聞いたのを覚えている。

 ──だから僕は、確認するのが怖かった。

 僕が、それを怠ってきたからだ。自分のことだけに精いっぱいで、りゆうが今、何をしているのか、どこでどんなふうに暮らしているのかを、一度だって確かめはしなかった。

 友達であった、はずなのに。

「……僕から見ても、元気なやつだったよ」

「元気すぎて、困っちゃうくらいでしたもん」

 とうの姉、ふたはら流希は、ふゆつきおりにとって初めてできた友達である。

 いや、それこそ物心がつくかどうかの頃、もう覚えていない友人も何人かいただろう。ただ認識の上では、少なくとも流希が最初の友達だった。

 初めて会ったのは小学校一年生。

 当時のことは正直ほとんど覚えていない。六歳の頃の記憶をしっかり持っているほうがだろうが。思い出せるのはイメージが大半で、欠けた記憶は断片しか残っていない。

 それでも、初対面のときのことだけは、今もはっきり記憶していた。

「森があったの、覚えてるか?」

「はい? え、森ですか?」

 突然の僕の言葉に、灯火は目を白黒とさせる。

「小学校の、校舎のすぐ裏手側だ。今はもう切りひらかれて家が建ってる」

「ああ、ありましたね。よく男子が遊び場にしてた森が」

 本当は私有地だろうから、入ってはいけない場所だったかもしれない。

 今思い返せば、おそらく黙認というか、開放してもらっていたのだと思う。

「流希とは、あそこで会ったんだ。入学式の日だった」

「お姉ちゃんと……」

「式が終わって帰る前に、しれっと抜け出したんだよな、僕。ひとりで。両親は知らない誰か別の保護者の人と話してたから、今がチャンスだとか思って。森に行ったんだ」

「い、意外とやんちゃなことしますね……あ、でも考えてみれば別に意外でもないかも」

 ぽつりと納得したような灯火。彼女はこちらを見上げて、

「昔はなんというか、結構ぐいぐい系でしたよね。なんでこんなふうに……」

「……そういうとうだって、昔はもうちょっと大人しくておしとやかな女の子だったのにな」

「そ、それはいいじゃないですかっ! そんなことより、お話の続きをしてください」

 むくれる後輩は、割とかわいらしい気がした。だから気づかないことにした。

「続きなんてほとんどないよ。僕は森を見てみたくてこっそり抜け出した。そこでりゆうに会った。それだけだ。それが初対面だったことだけは覚えてる」

 森、なんて表現は実は似合わない。こぢんまりとした雑木林があっただけだ。いちばん奥からでも外が見える、子どもの足でも簡単に制覇できる程度の、ちょっとした遊び場。

 それでも、六歳の僕にとっては盛大な冒険の舞台だった。

 だから、なのだと思う。自分と同じことを考え、同じように抜け出してきたライバルの存在が、最初はかなり気にわなかった。初対面でけんになったことが懐かしい。

「どんな話をしたんですか?」

「どっちが先に森に入るかで言い争いになった。お互い譲らなかったからな」

「……お姉ちゃんらしい」

 ──ここはぼくが見つけた森だ! だからぼくが先に入る!

 ──違うよ、先に来たのはこっちだよ! あとにしてよっ!

 まさしく小学生らしい、どうでもいいいさかいだった。

「で結局、そうこうしてるうちにお互い親に見つかってな。そのまま連れ戻されて、僕も流希も、森に入ることすらできないまま帰ったわけだ」

「あ、そうなんですか。おりくんせんぱい、よくそんなこと覚えてましたね」

 確かに、それだけなら覚えていなかったもしれないが。

「……その次の日、だったかな。今度こそ森を冒険しようと向かってみたところで」

「また、お姉ちゃんに会った……と」

「そういうこと。んで、一回ふたりで邪魔されたからだろうな。今度は仲間意識みたいなものが芽生えてて、ふたりでそのまま森で遊んだ。仲よくなった──そういうオチだよ」

「そっか。そうだったんですねー……はー、初めて聞きました……」

「他人に言ったことないし」僕は言う。「流希だって覚えてるか怪しいし。僕はたまたま覚えてたけどな。でも印象の話をするんなら、もっと強いものがいくらでもあった」

「あっちこっち駆け回ってたみたいですもんねー。伊織くんせんぱいと、お姉ちゃんは」

「三、四年になる頃には、グループっぽいものも固定化されてたしな」

 だいたい似たような連中とばかり遊ぶようになって。

 違うやつらとつるみ始める頃には、元の連中とは気づかないうちに疎遠になっていく。

 そういうものだった。

 そういうものであるというだけのことに、感想など持つべきじゃない。

「でもまあ、りゆうは家に帰るのは早かったんだよな。いつも」

「……そうでしたっけ」

「元気そうに見えて、あんま体力なかったのもあるけど。でも言ってたぞ、流希。いつも。とうが寂しがるから早く帰るんだ、って」

「なんですかー、それ?」

 灯火は言う。わずかにあきれたような口調だった。

「だからわたしも早く帰れ、ってつなげようとしてるんですか? 遠回りするものですね」

「別に、そんなつもりはなかったけど。でも、そういうことにしてもいい」

 年上ってのは、ウザくて面倒臭いことを言うのが役目みたいなところもあろう。

 灯火は、流希の妹だ。大事な友達の大事な妹なのだ。それ相応の気は僕だって回す。

「……まったく。デート中に早く帰れとか言う男がいますかねっ。普通ならむしろ、引き延ばそうとがんばるところでしょう? おりくんせんぱいには熱意が足りませんよ!」

 ぷんすか怒って見せる灯火。その姿はどこか大仰に見えた。演技臭い。

「あるわけないだろ、熱意なんて。僕に」

「……今日、伊織くんせんぱいはやっぱり楽しくなかった、ですか?」

 灯火はこちらを見上げてたずねてきた。これは本当に、どこか不安そうに見える。

 否定は、しづらい。楽しくなかったと言えば、たぶんうそになる。

 だけど肯定もできない。

 僕の感情は、氷点下に保たれていなければならない。最低限、表面上は。

「むしろ僕はお前にきたい。灯火、お前は楽しかったのか?」

 だから僕は、卑劣な言い回しで回答を拒否した。

 いずれにせよ訊くべきことだ。

「わたしは、とっても楽しかったですよ。こんなに楽しかったのは久し振りです」

 灯火は答える。ごく普通に。

「そうか。灯火の気が済んだなら、それでいいが」

「済んでませんよ、何言ってんですか! 一回じゃわたし、満足できませんからねっ!?」

「約束は今日一回のはずだろ?」

「い、いや……そこは『僕も楽しかった』とか言ってデレるところじゃないんですか?」

「……お前さ、何が目的なんだ? ただ僕を遊びに連れ出す意味がわからない」

 仮に。もし仮に灯火が僕のことを好きなのだとしたら。

 告白なりなんなり、してもいいはずだろう。だが灯火は決定的なことを口にしていない。

 僕だって、何も自分の一方的な考えだけで他人の内心を推し量る気はない。その意味で僕は灯火に訊いているのだ。いったい何が目的なのかと。

「……では。伊織くんせんぱいは、ひとれって信じますか?」

 とうは地面を見つめながら、小さく漏らすように言った。

「人によっては、まあするんじゃないのか」

「自分はしたことがない、と……想像してた中でいちばん面白くない答えですね」

「笑いを取らなきゃいけなかったとは気づかなかった」

「できますよ、おりくんせんぱいなら。タンバリンとか持てば」

「ただの皮肉だよ、拾うな」

 かぶりを振る。灯火は苦笑するように肩を揺らして。

「わたし、お姉ちゃんに似てますよね?」

「え? あ──ああ、まあ、そりゃ姉妹だしな」

 急な話の方向転換に、少し狼狽うろたえた。

 実際、顔はよく似ている。丘で会ったときはりゆうのほうかと思ったほどだ。

 僕は小学生の頃までの流希しか知らないけれど。それでも、あのまま育てば今の灯火のようになっただろう。そう確信できるほどには、流希をほう彿ふつとさせる。

 いや。それでも違うということもわかる。似ているとは結局、異なるということだ。

 それでも流希を思わせるのは、灯火の外見ではなく、むしろ態度のほうで──。

「だから結構、見た目は悪くないと思うんですよ。それなりにはかわいいんじゃないかと思うわけですね。伊織くんせんぱいの好みを、割と突いているのではないかと」

 続く言葉に思わず閉口した。

 こちらへ近づいてくる灯火。その温度を、どうしても意識するほどの距離。

「どうですか。伊織くんせんぱいは、わたしを彼女にしたいとか思いませんか。こうしていっしょにいて、ドキドキしたりしないですか……?」

 潤んだ瞳が僕を見上げていた。ほんのりとほおが朱に染まった、灯火の表情は色っぽい。

 きゅっと、片方の袖を灯火につかまれる。すがるような、弱々しい力だった。

 僕は。

「しなくはないけどな。しなくはないって程度だ」

 それでも、僕はそう答える。無理に否定するより、認めた上でらすように。

 灯火はわずかに息を吐き、肩を落とした。

「……はーあ。やっぱりわたしじゃダメですかね……それもそうか」

「お前、本当に何がしたいんだよ……」

「そりゃ、わたしも高校生ですし。彼氏くらい欲しいと思って当然じゃないですか。結構アピールしてるつもりなんですけどねー。伊織くんせんぱいがガード固すぎなんですよ」

 実は揺らぎまくっているのだが、それは隠しおおせているらしい。安心する情報だ。

 実際、灯火の好意は明け透けでわかりやすい。もし本当に僕が嫌いなら、彼女はそれを隠すことができないだろう。態度のどこかに、灯火はきっと本心をにじませてしまう。

 感情を隠すことの難しさを、僕はよく知っている。

おりくんせんぱいは、こういうのがお好みだと踏んだのですが。ぜんぜんでした」

「……こういうのってなんだよ?」

「あっけらかんと明るい系がお好みなのかなー、と。でも後輩なので、アドリブで小悪魔入れてみたりして。アレンジ的な? まさかここまで通じないとは予想外です……ふっ」

 乾いた笑いであった。

 いや、だってお前の小悪魔系、まったく徹底できてないんだもん……。

「わたしだって、そりゃお姉ちゃんほど魅力はないってわかってますけどね。だからってここまで響かないとは思わないじゃないですか。男子なんてちょっとあざとく振る舞ってみせれば簡単に落とせるって、中学のときクラスの子が言ってたんですけどね……なぜ」

「いや……それは一面の真実ではあるけど、同時に偏った意見でもあるというかね?」

「いえ、いいんです。すみませんでした……わたしが調子乗ってました……」

 どうしよう。とうの自信を失わせちゃったんですけど……。

 いや、かわいいんだよ。灯火って結構、男子から人気あるとは思うんだよ。ただそれを僕が表沙汰にするわけにはいかないって話であって、いや、……どうしたもんかなコレ。

「まあその、なんだ。そういうのが好きってやつもいると思うぞ、僕は。うん」

 ちょっと迷って、僕はフォローを入れてみた。

 灯火は死んだ表情で僕を見上げて、

「いや、伊織くんせんぱいに通じてないなら意味ないんですけど。トドメなんですけど」

「……ごめんて」

 フォローのつもりが追い討ちをらわせてしまった。

「いいんです。わたしじゃせんぱいをドキドキさせられないと、わかっただけで収穫です」

「……そんなに彼氏欲しいのか?」

「──。伊織くんせんぱいってもしかしてアホですか?」

 灯火は僕を、ゴミを見るタイプの目で突きした。

 いや、誰でもいいなら別に僕じゃなくてもいいと思っただけなんだが……悪かったよ。

「あのですね。言っときますけど、わたし、ほんとは男の子とかそんなに得意じゃないんですからね? 伊織くんせんぱいが相手じゃなきゃ、いっしょに出かけるとか無理です」

「え。でもさっきの様子だと、結構デートとか慣れてるんじゃないの?」

「いや行ったことないですから。初めてですから。わたし、めっちゃ緊張してましたから」

「──、馬鹿な」

 そ、そういうことは先に言っておけよ……。

 えぇ、めっちゃ申し訳ないじゃん。初デートが僕とか、お前、それ、……どうしよ。

 いやでも、あの小悪魔できなさ加減を思えば、気づくべきだったのだろうか。

「……てっきり、それなりに男慣れしてるもんかと。いきなり家来るし、軽く誘うし」

「いや、してませんから、失礼な! 男友達すらいないレベルです」

「マジかー……」

「……男の人って手とか大きいですよね。普段ぜんぜん見ないので、なんか新鮮です」

 とうが、僕の袖を持つ手をそのままてのひらへと移した。

 にぎにぎと、妙に興味深そうに僕の手をいじくる灯火。……何これ恥っず。

おりくんせんぱい、手はあったかいですよねー。心が冷たいからなのかな……?」

「────」こういうことは素でやるわけ?

 やっぱ実は慣れてんじゃないの? 平気でボディタッチしてくるじゃん。怖い。

「も、もういいだろ。ほら、離れとけ」

 僕は顔を背けて灯火の手から逃れてみる。

 小さく柔らかな手で、掌をで回されているのに耐えられなくなった。

「ああ……カイロ」

 ぼそっと、名残惜しそうにつぶやく灯火だった。──いやカイロて。今カイロって言った?

 うそだろ。こいつ本気で僕の手のこと、暖を取るための器具だと認識してたのかよ。少し気恥ずかしがってた僕がひとりでただただ間抜けじゃん……。

「ったく、ちぐはぐだな。さっきまで平然と個室にふたりきりでいたくせに……」

 僕は顔を背けながら言う。まっすぐ顔を向けられなかった。

「──へ?」

 しかし。僕のそんな逃げに、灯火はなぜか目を見開く。

「……灯火?」

「え、あ、……そ、そうですよね。そうでしたね……あははは」

「……おい?」

「はひっ!?」

 びくりと手を跳ねさせる灯火。軽く握られた両手が顔の横に来る。耳が真っ赤だった。

 このままあおけになれば本当に犬だなあ。なんて思いながら、僕は突っ込む。

「……お前、まさか……」

「な、なな、なんですかっ!? ててててか今思ったんですけど近くないですか距離っ」

「近づいてきたのはお前だけどな」

「ですよね!?」

「それより。まさかお前、今さらふたりっきりだったこと思い出して照れてんのか?」

「は、はあ──!? ぜーんぜん違いますけどぉ!? あんなのちょー余裕ですしー!?」

 ぐい、と身を乗り出してきた灯火が、余裕を示そうと僕の袖をまたつかむ。

 この子はさあ……本当にもう。

とう

「なんですか!?」

「近い」

「ひゃやわぁいっ!?」

 パッと手を放して、灯火がよろめいた。つかむところのない手が、わたわたと空を泳いでいる。転びそうで危なかったため、僕は今度は自分から灯火の手首を取った。

「──わふんっ!?」

「おい、落ち着け。危ねえ」

「く……、や、やりますねせんぱい……っ!」

「いやもうすの無理があるでしょ」

 勢いだけで動きすぎなのだ、灯火は。あたふたせわしない、まだ幼いいぬのようなやつだ。

 ただまあ確かに、あまり男に慣れていないというのは本当らしかった。なるほど。

「せ、せんぱいこそ、なんか女子慣れしてませんかね……っ。釈然としません、なんか!」

「なあ、灯火」

「な、なんですかっ。まだからかうつもりですかっ!」

 ぎょっとしてウルトラマンみたいなポーズで身構える灯火に、僕は。

「はい」

「……え? なんですか?」

 てのひらを上に向けて右手を差し出した。それ以上は何もしないし、何も言わない。

 灯火は首をかしげ、それから上目遣いに僕の顔を見た。意味を考えているらしい。

 それでも僕は黙り続けた。この状況で、灯火がどのように出るか見てみたかったから。

「えー……、と?」

 やがて、灯火は自分の右手を軽く握った状態で、そっと僕の手の上に乗せた。

 ……乗せちゃったよ本当に……お手しちゃったよ、この子。何も言ってないのに……。

「こ、こうですか? あれ? 何か間違えてますか、わたし? おりくんせんぱい?」

 てしてし、と何かをアピールするみたいに、右手を上げたり下げたりする灯火。ふに、とした柔らかで女の子らしい小さな手の感触なのに──ダメだ、犬にしか思えない。

 もうこれ以上は耐え切れない。何かを耐えられない。僕は腕を下ろした。

「……まさか、本当にするとは……」

「え──あ、ああっ!! 謀りましたね!? トラップとかずるいんですけどっ!」

 僕は何も言ってないんだよなあ。

 完全に自分からしたんだよなあ。

「いいじゃん、なんか、わんこって感じで。そのほうがよっぽどかわいらしいだろ」

「うぇ!? む──ぐ、ぬ……っ。ばかにしてぇ……!」

 むくれるとう。もう本当に小悪魔うんぬんは忘れたほうがいい。

 攻めてきては反撃に遭って照れる様子が、ボール遊びを思わせた。もし「取ってこーい」と言って何か投げたら、灯火はどうするだろう。取ってきちゃいそうな気がして怖い。

「……はあ。そろそろ帰るぞ、ほら。ついて来い」

 もうそこそこいい時間だ。

 お天道様がいるうちに、いい子におうちに帰っておこう。

「あれ。せんぱいのお家、こっちじゃないですよね?」

 灯火の言葉に、軽く肩をすくめて。

「一応、デートだからな。家の近くまでは送ってやるよ。エスコートしてほしいんだろ」

「むぅ」

 その言葉に、灯火は肩を縮こまらせて。

 ねたみたいに不平を言う。

「そういう、上げたり下げたりがズルいですよね、おりくんせんぱいは……」

 僕は取り合わずに歩き出す。どうせ灯火は、言わなくても後ろをついて来るだろう。

 現に、ふとこぼれたような言葉が、僕の背中に追いついてきた。


「やっぱり、わたしじゃ……ダメなんだなあ」

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