第16話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        九月  



       〈一六〉



  わたしを必要としているはずだ、とメルバが信じていた高野さんは、けれども、わたしと初めて話したあの日を最後にして、二週間以上も[さくら]に姿を見せなかった。

          ※

  四日目を過ぎたころからリサは高野さんを案じる気持ちを声にし始めた。その数日後には、あの人のことで新たに分かったことがないかを、まずはメルバに、さらには、あの人と親しかったほかの女たちにたずねるのが彼女の日課になっていた。深いため息混じりに、おなじ類の質問をわたしにしてきたことも一度だけではなかった。

  リサを喜ばせる情報は、メルバを含めて、だれも持っていなかった。…高野さんとの会話を楽しむ時間がリサにはなくなりかかっていた。一週間後に日本へ発つことが決まっていたのだった。

          ※

  女たちの中には〈高野さんはとうとう、エルミタのどこかよその店でちゃんとしたガールフレンドを見つけたのかもしれない〉と当て推量する者もいた。〈[さくら]のサービスにすっかり飽きてしまって、もう日本に帰ってしまったのかもしれない〉と想像する者もいた。

  そんな話を耳にして、メルバは胸を痛めていた。それほど長いあいだ高野さんが店に来ないわけを自分が知らないことを恥じているようにも見えていた。わたしに再び、わたしが初めて[さくら]に出た夜に高野さんと何を話したのかをたずねてきさえした。…自分が高野さんの申し出を断ったあとあの人が数日店に来なかったことがあったように、高野さんとわたしとの会話のどこかに、あの人が突然姿を見せなくなった理由が見出せるのではないか、と考えてのことだった。

  理由はどこにも見つからなかった。

          ※

  それほど心配していたというのに、リサもメルバも、消息や安否を知ろうと高野さんのホテルまで出かけたり部屋に電話をかけたりしようとはしなかった。どんなに親しくなった人とであろうと、それが二人に共通した〔客とのつきあい方〕らしかった。…そうでなかったとしたら、高野さん自身が[さくら]の女たちとの関係をそんなふうに維持したがっていて、そのことを二人が察知していたのかもしれなかった。

          ※

  高野さんのことを案じる理由はわたしにも一つあった。最初の夜、ホテルまでの帰り道にタクシーを使うようちゃんと説得していなかったことだった。マニラの街路にはあの夜だって、いつもとおなじように、危険が満ちていたに違いなかったのだから。

  わたしの心配も、たぶん、リサやメルバの心配に負けないぐらいの速さで、大きくなっていた。…メルバと高野さんとのあいだに何があったかを知って、わたしもあの人のことがただの常連客だとは思えなくなっていたのかもしれない。…あるいは、寮での最初の夜、メルバに、高野さんがわたしを好きになるはずだと言われたことで、わたしの心が微妙に揺れ動いていたのかもしれない。

  けれども、わたしはあの人への心配をあまり表に出さなかった。…一度だけ、それもほんの数時間あの人のテーブルについたことがあるだけの、店で一番の新顔ホステスは、そんな事柄で目立ちすぎたり、でしゃばりすぎたりしない方がいいに違いない、と考えたからだった。

  代わりに、わたしは、高野さんはとうとう、メトロ・マニラで探していた〔何か〕を見つけ出したのだ、と思い込もうとしていた。それが何であるかは見当がつかなかったけれども、高野さんは[さくら]に顔を出せないぐらいその〔何か〕心を奪われているだけなんだ、〔ほかにガールフレンドができた〕とか〔日本に帰ってしまった〕とか、あるいは、病気だとか事故に遭ったとか、そういうのではないんだ、と自分に言い聞かせていた。

          ※

  わたしは[K&Tプロダクション]の小さなレセプション・ルームにいた。

  [K&T]は加藤良雄という日本人とジョセフ・トレンティーノというフィリピン人が共同経営する会社で、シンガーやダンサー、ミュージシャン―それに売春婦―などのエンターテイナーを日本に送り出す、いわゆるタレント・プロダクションの一つだった。

  その部屋で待つように告げられてからもう三十分間は過ぎていた。ルネタパークの一角を窓から見下ろすことにも飽きて、わたしは、無人のレセプショニスト用デスクの前に向かい合わせに据えられた二つの椅子の片方に腰を下ろしていた。

  日本への一週間のビジネス旅行から前日に戻ってきたばかりのジョセフは疲れも見せずに、レセプション・ルームと奥の事務室とのあいだに設けられたスタジオで、七人の女性ダンサーを相手に忙しくオーディションを行なっていた。

          ※

  ダンサーたちは、自分の能力が最高に発揮できるようにと自ら選んだ曲を、それぞれ踊り終えていた。

  ベンチに並んで腰かけている女たちにジョセフが説明をつづけていた。「くり返すけどね、今回ほしいのは三人だけだよ。分かってるね?この段階では僕は、君たちの写真、簡単な履歴書、君たちの踊りに関する僕の意見を、群馬にあるこの温泉ホテルのエージェントである東京のプロダクションに送るだけだから、このホテルが最終的に君たちの中のだれを選ぶかは、僕には分からない。まだ、君たち全員がだめだって言われる可能性もあるから、そのことも忘れないように。

  「ところで」。ジョセフは女たちの顔を見つめ回した。「僕がこのプロダクションと仕事をするのはこれが最初だから、プロダクションのシャチョウサンに日本で会ったときに、少なくとも、マニラで僕がどんな仕事をしているかを知るために、一度こちらに来るよう勧めておいた。で、けさ、そのシャチョウサンから電話があって、数日中にやって来ると言ってきた。だから、彼と〔直接〕会うチャンスが君たちみんなにあるかもしれない。僕は、みんなに〔公平に〕そのチャンスを与えるつもりでいる。…いいね?」。ジョセフはそこでにやりと笑って見せた。

          ※

  女たちの中の何人かが苦笑混じりに、ジョセフに向かって舌打ちした。

  「分かった、分かった」。ジョセフは片手を上げ、女たちを制しながら言った。「だけど、僕が暗示したことがよく理解できていない子もこの中にはいるようだから、あえて説明しておくよ。それはだね、もしそのシャチョウサンと寝れば、日本で働けるチャンスが大きくなるかもしれないってこと」

  また舌打ちが聞こえた。

  「〔かもしれない〕というだけのことだけども」。ジョセフはつづけた。「君たちのうちのだれかにとっては、その〔かもしれない〕が大きな意味を持つかもしれない。だろう?一か八かに賭けてみたい者がいたら、あとで僕に連絡してくれ。電話をかけてくれればいい。心配しなくてもいいよ。〔秘密〕は絶対にほかへ漏らさない。仮にだね、君たち全員がこの〔汚い取り引き〕に手を染めたとしても、だれが何をしたかは、互いには分からない。だから、君たちはそれぞれ知らん顔をしていればいい。だれも恥ずかしい思いをすることはない。ただし、日本行きは保証されているわけではないから、そのつもりで。…幸運を祈るよ」

  女たちのあいだにしのび笑いが起こった。

  「ついでに言っておくと」。ジョセフはいたずらっぽい笑顔をつくった。「君たちのチャンスは〔僕と〕寝るともっと大きくなる〔かもしれない〕から、そのことも頭に入れておくように」

  「いやらしい!」。どっと笑いだしながら、女の中の一人が叫んだ。ほかの数人がまた舌打ちした。彼女たちは前からジョセフをよく知っている様子だった。

  ジョセフは四十五歳ぐらいの、日本で働きたいといって彼の事務所を訪ねてくる女たちを決して食い物にしないことで名を知られている、良心的なプロダクション経営者だった。…女たちのあいだには、〔脇役クラスではあるがなかなかの美人女優である、しかもうんと年若い〕妻、アイーダが目を光らせていて、ジョセフにおかしなことをさせないのだ、というゴシップが広がっていた。

  「とにかく」。ジョセフはわざとらしい尊大さで言った。「そっちの方を選ぶこともできるということだ。分かったね」。女たちへの説明を終えるときの、ジョセフの決まり文句だった。

  「分かりました!」。だれかが大声で応えた。

  ベンチから立ち上がりながら、一人の女が甘え声をつくってたずねた。

「ね、〔あれ〕、ほんとにまじめな話なの、ジョセフ?」

  ほかの女たちがどっと笑い声を上げた。

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