第15話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

  〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        八月  



       〈一五〉



  「〔ママ〕リサの言葉を借りると、〈以前とまったくおなじように〉ミスター高野はまたほとんど毎晩お店に来るようになりました」。メルバはつづけた。

  [ピスタン・ピリピーノ]の中のショー・レストランは、相変わらず、うす暗く静かだった。

  「そのことでは、わたし、もちろん、ほっとしています。大事な友人を失わなかったことを感謝しています。でも、ミスター高野は…。あの人は実は、もう、〔以前とまったくおなじ〕人じゃないんですよ。

  「わたしがほかのお客さんについていないときはいつも、ミスター高野はわたしをテーブルに呼んでくれました。あのことがあったあとも、呼んでくれています。ですから、わたしにはそれが、違いが、分かるんです。…あの人はこのごろ、前に比べると、お店に来てもあまり楽しんでいません。そう見えます。

  「いえ、わたしやほかの女の子たちと話したり歌ったりしながら十分に楽しませてもらっているってミスター高野は言うんですよ。でも、間違いありません。あの人の目は違うことを告げています。本当は、あまり楽しんではいないんです。わたしたちと時間を過ごすのが幸せだって振りをしている、というのでなかったら、そう思い込もうとしているだけなんです」

  前夜高野さんの目の中に見た深い孤独の影を再び思い浮かべながら、わたしはメルバの話に耳を傾けていた。

          ※

  「ミスター高野は、もちろん、いまでもわたしに親切にしてくれるんですよ。優しいんですよ。…すごく同情してくれているんですよ」。メルバは不意にそこで言葉をとめた。

  間を置かず、わたしは彼女が少し前に、自分の母親と、のちに継父となった母親のボーイフレンドとの関係を話したときに、やはり〔同情〕という言葉を使ったことを思い出した。〈男と女のあいだの同情ってどういうことなのか、わたしにはまだよくは分からないんですけど…〉

  「というより…」。メルバは話に戻った。「あの人はもともと、わたしにだけではなく、お店で働くだれにもとっても親切なんです。ですから、みんなの方もミスター高野のことを自分たちの家族の一員みたいに親しく思っています。でも…。ミスター高野は少し親切すぎます」

  「〔親切すぎる〕?」

  「そうです」。メルバは答えた。「ほんとにそうなんです。どんなふうにかって…。たとえば、誕生日を迎えた子を、その子の一番親しい友だち数人といっしょにちゃんとしたレストランに招待して、誕生日を祝ってやったり、そうじゃなきゃ、その子に何かを贈ったり…。お客さんと気まずいことがあった女の子たちをボウリングとかディスコとかに連れていって、いやなことを忘れさせてやったり…。そういうことをずっとやってきているんです、あの人。

  「そんなに親切な人はほかにいません。でしょう?でも、そういうのって、ちょっと親切すぎると思いませんか。お客さんとホステスたちのあいだ柄としては、ふつうの範囲を少し超えているって思いませんか」

  「そうかもしれないわね」。わたしは答えた。

  「わたしは考えました。ミスター高野はなぜ、そんなに親切なんでしょう?そもそも、どういうわけでわたしを援助しようと言い出してくれたんでしょう?なんであんな大金をわたしにくれたんでしょう?

  「考えているうちに、わたし、だんだん、ミスター高野はとにかく、それがだれであれ、だれかに親切にしたくてしょうがなかったんだって思うようになりました。自分の親切さを必要としていそうな人になら、だれにだって親切に振る舞いたかったんだって。そんな〔だれか〕の中で、あの人から見て、一番親切にしてやれそうなのが、たぶん、わたしだったんだと思います。[さくら]の女の子の中で一番若くて、一番の新顔で…。しかも、その子に〔カレッジに進みたかった〕なんて話を聞かせられて…」

  「とにかく」。メルバはつづけた。「ミスター高野がだれにでもすごく親切な人だってことは、もうみんなが知っています。そのことはあの人自身も知っているはずです。…そして、それが、あの人が[さくら]での時間を楽しめなくなった原因なんだと、わたし、思います。だって、だれにでも親切だってことをみんなに示しきったあと、ほかに何ができるんでしょう?

  「間違いないと思います。ミスター高野はもう、自分が周囲の人たちに親切だというだけでは心が満たされなくなっているんです。わたしにあれほどの親切さを示したあと、あの人は心に風穴が開いたような気がしているに違いないんです。

  「ですから、わたし、こう思います。ミスター高野はいま、ほかでもない、〔自分に〕親切で優しくしてくれる人が必要なんです。真実ヤサシイ女性が、あの人には、いま、必要なんです。…わたし、昨夜、あの人に優しくしてあげられるのは、トゥリーナさん、あなただって分かりました」

  「待って、メルバ」。わたしは当惑しきっていた。「あなたはまだわたしのことをよく知らないからそんなこと…」

  メルバはわたしの言葉を遮った。「ミスター高野にはいま、トゥリーナさん、あなたのようなヤサシイ女性が必要なんです。わたしには分かります。…なぜって、わたし、あの人がとても好きだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る