第25話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        九月  



       〈二五〉



  ステージではグロリアが歌っていた。リサが日本へ去ったあと次の〔ママ〕になるはずの、店では最年長、二十九歳のシンガー・ホステスだった。

  いつもどおりに、大きな音量の音楽が店を満たしていた。わたしはいつの間にか、自分の肩 が高野さんの腕に触れそうなところにまで近づいて座っていた。

  「だけどね、トゥリーナ」。高野さんは言った。「これまで言ってきたことと逆に聞こえるかもしれないけども、僕は、小林も初めのうちは、なんというか、悪気?…そういうのは全然なかったんじゃないか、とも感じているんだよ。小林の胸のどこかには、うまい商売をしたいとか、〔国際ビジネスマン〕になりたいとか、そういうようなことと並んで、エヴェリンを彼女の境遇から出してやりたいというような、言ってみれば〔誠実〕な思いもあったかもしれないって。…少なくとも、貝殻ビジネスを手伝ってくれないかと熱心に頼みつづけていたあいだはね。

  「もちろん、〔誠実〕な気持ちがあればいつも事がうまくいく、と言っているんじゃないんだよ。いや、それどころか、そんな、どうしようもない自己満足の〔誠実〕さはしばしば周囲の人たちを傷つけてしまったりするんだよね」

          ※

  間違いなかった。高野さんはここでも、自分とメルバのことを思い返しながら、小林という人物とエヴェリンの関係について話しているのだった。…話しながら、メルバとのあいだにあったこと、彼女に一度は大きな〔夢〕を見させ、それを最終的にはすっかり捨てさせてしまったことを悔いているのだった。悔いて、自分を責めているのだった。

  けれども、わたしは高野さんに、そんな比較はしない方がいい、あなたのためにならない、とは言わなかった。…言えなかった。

  なぜといって…。高野さんとのあいだにあったことをメルバがわたしに話したのは、そんなことがあったという事実をほかのだれかに明かすようなこと、ましてや、〔メルバから話を聞いた〕と高野さんに直接告げてあの人に恥ずかしい思いをさせるようなことは、わたしは決してしないはずだ、と彼女が信じていたからに違いなかった。…自分の〔自己満足の誠意〕がメルバの最後の夢を壊してしまったと思い込んでいるらしい高野さんが、メルバとのあいだにあった話を二人以外のだれかが知っていることを知って、気まずい、気恥ずかしい思いをしないわけはないのだった。

          ※

  高野さんのテーブルについてから初めて、わたしはメルバの方に視線を向けた。

  わたしの動きに気づいたメルバがほほ笑みながら、わたしに向かって手を振った。おなじような笑みを浮かべて、わたしは彼女に手を振り返した。

  そんな二人のやり取りを高野さんは見ていなかった。

  「小林はエヴェリンをどこまでも信じつづけるべきだった。…と思うよ」。あの人は、たぶん、できるだけ淡々とした口調になるように努めながら、言った。「エヴェリンと、地獄へだろうといっしょに行くべきだった。最後の最後まで二人でその夢を追いつづけるべきだった。その覚悟がなかったのなら、そもそも彼女に夢を与えてはいけなかったんだ」

  「高野さん、わたし、思うんですけど…」。わたしは重い口を開いた。「人生って、いつもそんなふうなんじゃないでしょうか。最初に考えていたようには事がなかなか進まなくて」。それから、胸の中で言い足した。〈わたしにはそれがよく、きっと、十分すぎるぐらい、分かっています〉     「イカウ イ(君は)」。高野さんは言葉をとめて、しばらくわたしの顔を見つめていた。

   話に戻った高野さんはどこかためらいがちに見えた。「トゥリーナ、小林はなぜエヴェリンを、まるで大詐欺師ででもあるかのように、疑うようになったと思う?」

  わたしは大きく数度、首を横に振った。…高野さんのその問いが、ほとんど〈君のボーイフレンドはなぜ、子供ができた君に急に冷たくなったと思う?〉という問いに聞こえたからだった。そんな問いへの答えなど、まだ知りたくなかったからだった。

  「彼の思惑を超えて彼女がカネを使いすぎたから?」。高野さんはつづけた。「たぶんね。彼女のシステムが身内をたくさん雇ったから?…それもあったかもしれないね。だけど、トゥリーナ、彼がエヴェリンに疑いの目を向け始めた〔これ〕といった理由は、そういう個々の事実にはなかったんじゃないか、という気がいまの僕にはしているよ。

  「こんなことを結論にするのは嫌いだし、ひどく間違っているかもしれないけども、小林が彼女を怪しみだしたのは、トゥリーナ、結局は…。結局は、彼女がフィリピン人だったから、ではないかと思えて仕方がないよ、僕には」

  「高野さん…」。わたしの声は少し高まっていたかもしれない。「ヒンディ コ ナララマン クング アノ アング イビッグ モング サビヒン(何がおっしゃりたいのか、わたしには分かりません)」

  もちろん、わたしにはあの人が何を言っているのかが十分すぎるほど分かっているはずだった。

          ※

  わたしの不意のタガログに高野さんは少し当惑させられたようだった。

  「つまりね」とあの人は言った。「こんなことを言うのは本当にいやだけど、それは結局、エヴェリンが豊かではない国に生まれた女性だったからだったと思うよ。そうだな…。こんなふうに言った方がいいかもしれない。…小林は、言ってみれば、貧困や困窮、そういうものを恐れたんだって。彼は、自分を〔持てる者〕の一人と見て、〔持たざる者〕、貧困が怖くなったんだって。…そういうものに怖じ気づいたんだって。

  「エヴェリンから送られてきた報告書を見ているうちに、ミスター・フェルナンデスやガブリエル・グスマンなどという名前に出会うたびに、この国で貧困の中で暮らしている人たちから守るべき何かが自分にはあるのだ、と小林は思い込むようになったんじゃないかな。…断言はできないよ。でも、小林が怪しんだのはエヴェリンその人ではなく、エヴェリンが属している―と彼が思った―何かだったんだ。そう思うよ。

  「エヴェリンは大学を出ているということだった。だから君の意見に従えば、トゥリーナ、エヴェリンは当然、暮らし向きのいい家庭で育ったんだよね。幸いなことに、ひどい貧困とは無縁に生きてきたんだよね。…でも、小林にはそういうところが見えなかった」

          ※

  「小林の気持ちが落ち着かなくなり始めたのは、エヴェリンが日本を去って間もなくだったと思うよ。…想像してみると。エヴェリンはいま、小林が事実上何も知らない、彼女自身の国にいる。彼が知っていることといえば、自分の国での苦しい暮らしをいくらかでもましにしようと、毎年、何万人ものフィリピン人が働くために日本にやって来ているということぐらい。ひと月、ふた月と経っていく。エヴェリンは貝殻を送ってこない。代わりに、もっと資金を送ってくれと言ってくる。小林の目はだんだんエヴェリンから離れて、彼女が置かれているらしい状況―人々の困窮ぶり―に向かい始める。英語が話せないということが、彼の不安をいっそう大きくさせる…。

  「僕自身が妄想にとりつかれているように聞こえるかな、トゥリーナ。いや、実際、僕はとんでもなく間違ったことを言っているのかもしれない。だけど…。僕は一方で、僕には日本人のことが分かっている、という気がしている。一部の日本人がどこまで傲慢になれるかが分かっている、という気がね。

  「ほら、エヴェリンが二人の事業に、彼女の夢に、どれほどの思いを注いでいたかを、小林は考えた?彼自身のことだけだったんじゃない?小林は、ある意味では、典型的な、傲慢な日本人の一人なんだよね。…僕がそうであるように」

          ※

  高野さんが〔彼女の夢〕と言ったとき、あの人の頭にあったのは〔メルバの夢〕だった。あの人はまだ、小林という男性がエヴェリンにしたことを自分がメルバにしたことと比較しつづけているのだった。

  「高野さん、あなたは違います」。きっぱりとわたしは言った。「〔傲慢な日本人〕なんかではありません」

  「ありがとう」。高野さんの顔にまた、あの、自分を侮蔑するような、ゆがんだ苦笑が浮かんだ。「でも、僕も小林とおなじなんだよ」

  「違います。だれかほかの人がしたこと、その小林という人がしたことで、高野さん、あなたが自分を責めることはありません」

  「トゥリーナ、君は本当に」。高野さんはそこでちょっと言葉を切ってからつづけた。「だけど、僕も、小林と同様に、持っているいくらかのカネを深い考えなしに使い、結果として、たまたま経済的に困窮しているたちを傷つけてしまう、そんな日本人の一人なんだ」

  高野さんが頭に思い浮かべているはずの当のメルバがそんなふうに受け取っていないことがわたしにはよく分かっていた。「違います」。口調をいっそう強めてわたしは言った。

  高野さんは一瞬わたしの目を見つめただけで、何も言わなかった。

  わたしはつづけた。「そんなことを言っちゃいけません。わたし、そういうの嫌いです。…確かに、あなたは豊かな国の人です。わたしたちはフィリピン人で、あなたは日本人です。だから、あなたには使えるお金がわたしたちよりたくさんあるかもしれません。でも、それのどこがいけないんですか。自分が日本人だからといって自分を責めるなんて、それ、自分がフィリピン人だからといってわたしが自分を嫌うのとおなじぐらい、ナンセンスです。ソレ シカタガナイ デショ?日本人にもフィリピン人にもいろんな人間がいて、高野さんは高野さん、わたしはわたし…。ディバ(でしょう)?」

          ※

  高野さんのためにだけではなく、娘ユキのためにも、あの人のそんな意見を認めてはいけない、ということが、たぶん本能的に、わたしには分かっていたのに違いなかった。…克久も結局は一部の日本人―ほかでもない、彼の母親―とおなじように、フィリピン人カラオケシンガーに対する偏見から抜けきれなかったのだ、あるいは、克久がわたしに対する態度を変えたのは、結局はわたしがフィリピン人だったから、などというような結論につながりそうな考えは全部拒んでしまわなければならないということが。

  一度そんな考えを受け入れてしまえば、ユキに対する父親らしい気持ちを克久に抱いてもらおうと努力することなどもう二度とできなくなってしまうに違いなかった。…そんなどうしようもなく暗い宿命の海の底にユキを沈めてしまうわけには、わたしはいかないのだった。

          ※

  しばらく黙り込んでいた高野さんがまたタバコの箱に手を伸ばした。

  けれども、そのタバコに火をつけたのは、わたしではなく、高野さん自身だった。

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