第26話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

     〜フィリピン〜


      =一九八四年=


         九月  



        〈二六〉



  マネジャーのマヌエルがステージでアメリカのヒット・ラブソング[ユー・アンド・アイ]を歌っていた。つやとのびのある声、確かな音程、豊かな表現。マヌエルの歌唱力は、店の女たちが一致して〔ほとんどプロ級〕だと認めるほどのものだった。…そんなことを思っているときだった、彼が店で日本の歌を歌ったり練習したりしているところを一度も見たことがないことにわたしがふと気がついたのは。

          ※

  「結局、トゥリーナ」。高野さんが再び口を開いた。「僕がタンブリビーチで四日間過ごすことになったのは、そういうことがあったからだったんだ。…もちろん、〔ひとりで〕ね」。はにかみがあの人の顔に浮かんでいた。リサに大仰に〔だれといっしょに?〕とたずねられたことを思い出していたのだ。

  あの人はつづけた。「ローランドの〔作業場〕を訪ねた翌朝は、僕はずいぶん早く目を覚ましてしまって…。ひどい疲労感があったのにね。僕は何もしたくなかった。エヴェリンのシステムを調査して分かったこと、僕が感じていることについて、電話で矢部と話すのは億劫だったし、そういう精神状態で何かを報告するのはまずいという気もしていた。マニラに戻る気にもならなかった。僕はビーチで、できることなら、頭を空にして過ごそうと思いついた。セブに来てから見たこと知ったことはすべて忘れて、ぼんやり時間を過ごしてみたいと思った。いや、そんなふうに過ごせると信じていたわけではなかったんだけど…。

  「さっきリサに、タンブリでは日光浴を楽しんだんだ、と言ったよね。ああ、見てもらえば分かるように、トゥリーナ、本当に、日光浴はしたんだよ。でも、それは〔楽しんだ〕というようなものではなかった。…気がひどく塞がっていて、何もほかのこと―現実的なこと―ができなかったからそうしただけだったんだ」

          ※

  「タンブリビーチを離れる朝、ホテルから空港へ向かう途中や空港で出発を待っているあいだに、僕はこんなふうに考えるようになったよ。…〔システム〕は、エヴェリンが報告していたとおりに、ちゃんとセブにあった、ということ以外は何も小林には告げないことにしよう。

  「小林は僕に〔システム〕とその中で働くことになっていた人たちの評価もしてもらいたがっていたようだけど、僕の目には、評価されなければならないのは小林自身で、エヴェリンの側ではなかったからね。ローランドとベニート、ガブリエルたちがとっくに、〔遅すぎる〕という結論を出していることも、僕は小林には告げないことにしたよ。

  「気持ちの上では、その時点で、僕の〔任務〕は事実上終わっていたんだよね。だから、マニラに戻る飛行機の中でなんで自分が〈エヴェリンのマニラ・オフィスを訪ねてみよう〉と思うようになったかは、ちゃんと説明できないんだ。…僕がセブ島の〔作業場〕を訪ねてから五日後のことだったから、彼女のオフィスももう閉鎖されてしまっているかもしれなかったのにね。仮に、まだ閉鎖されていず、エヴェリンがそこにいたとしたら、彼女と何をどう話せばいいのかの見当もまったくついていなかったのにね。

  「そうだな、トゥリーナ、強いて言えば、そのオフィスも見ておかないと彼女が抱いていた夢の大きさが正確には分からない、という思いがあのときの僕にはあったかな。…でも、彼女の夢の大きさが分かるということにどんな意味があるのかについては、僕は、やはり、ほとんど何も考えていなかったような気がするよ」

          ※

  「ちょっと前に触れたように、トゥリーナ、マニラのホテルに戻ってみると、エヴェリンが小林に送っていた四半期報告書のコピーが矢部から届いていた。そして、そのコピーには、小林が矢部を通して僕に渡した調査対象リストからは外されていた彼女のオフィスのことが、ちゃんとアドレスと電話番号つきで記されていたよ。僕は翌朝、ホテルの前でタクシーを拾い、マニラ国際空港近くのニコラス・ボニファシオ通りにあるそのオフィスに向かった。

  「オフィスがあるとされていた二階建てのビルは簡単に見つかった。僕は、急ぎ足になるのを抑えながら、アドレスの部屋番号を手がかりに、ビルの二階に上がり、その部屋の前に辿り着いた。一、二度大きく深呼吸をしてから、僕はドアをノックした。応答がなかった。またノックした。やはり応答はなかった。僕はドアのハンドルに手をかけ、回してみた。鍵はかかっていなかった。僕はゆっくりとドアを押し開けた。…その小さな部屋の中はすっかりがらんどうだったよ」

  「〔がらんどう〕?」。わたしはたずね返した。口調には失望感のようなものが含まれていたかもしれない。

  「そう、机も椅子も…」。高野さんは答えた。「まったく何もなくて、ただ、プラスティック製のグレイのブラインドが窓の上半分をおおっているだけだった。僕は部屋番号を間違えたのかもしれないと思って、廊下に出てみた。出て、もう一度ドアを見てみた。番号は間違っていなかった。

  「のろまなことに、そのときだったよ、そのドアにあの[ノラスコ・シェル・ディストリビューション]という会社名のサインが掲げられていないことに気づいたのは。…そう、トゥリーナ、エヴェリンのマニラ・オフィスは、やはり、もう閉鎖されていたんだ。

  「僕は部屋の中に戻った。そのがらんどうの部屋は、トゥリーナ、ベニートがなんとか妹を説得して、小林から資金が送られてくるのを待ちつづけるのをあきらめさせたこと、〔システム〕を動かしつづけたいという望みを捨てさせたこと、つまりは、エヴェリンの夢が完全にどこかに消え去ってしまったことを、何より明らかに示しているようだった。…僕は、せめてドアに〔移転通知〕でも貼ってあったなら、と思わずにはいられなかったよ。どこかよそに移転しただけで、彼女の夢はまだ、何らかの形で生きつづけているんだ、と思いたかったんだね」

          ※

  「〈エヴェリンはどこに行ってしまったんだろう〉。空っぽの部屋の中に立ちつくしているあいだに、僕は何度もそう思った。…彼女が僕の、長いあいだの親しい友人ででもあったかのようにね。

  「運がよかったのかどうか…。その問いへの答えは、トゥリーナ、ドアをノックして入った隣の航空貨物輸出入代行会社のオフィスで思いのほか簡単に得ることができたよ。短い期間のつきあいだったけれどもエヴェリンとは良い友だち同士だったという、ルエーラという名の、髪に白いものが混じったレセプショニストが、エヴェリンの消息を聞かせてくれたんだ。…セブで出会ったある人物に〈あなたがマニラに戻ったら、僕の従姉のオフィスを訪ねたらいい。おもしろいビジネスの話が何か聞けるかもしれないから〉と言われて訪ねて来たんだ、という僕の言葉を怪しみもせずに。

  「だけど、ルエーラの話は、トゥリーナ、残念なことに…」。あの人はそこで間を取り、呼吸を整えてからつづけた。「聞いて快いものではなかった。…ルエーラはエヴェリンにとても同情的に、怒りさえ顔に浮かべながら、僕にこう言ったんだ。〈エヴェリンはいま、外来患者として毎日治療を受けているはずです。…マンダルーヨンにある精神科の病院で〉」

          ※

  わたしは「まさか」としか言えなかった。

  高野さんの声はなんとか平静さを保っていた。「ガブリエルが〔作業場〕で〈もう遅すぎます〉という言葉で僕に伝えたかったのは、トゥリーナ、たぶん、このことだったんだね。彼が〔作業場〕で、ためらったあと、結局は口にするのをやめたのは、このことだったんだね。

  「ガブリエルが〔もう遅すぎる〕と言ったとき、彼とローランドには、エヴェリンがもう、六か月前の彼女とはおなじではない、ということが分かっていたんだね。僕が〔作業場〕を訪ねたときにはすでに、ベニートはマニラから二人に、エヴェリンが自分のビジネスをやっていくことができない精神状態になっていることを報告していたんだね。

  「ルエーラによると、彼女がエヴェリンのセブ港のオフィスに〔二度目の〕電話をかけたのは、僕と話した日の二週間ほど前だったそうだ。エヴェリンの精神状態がどれほど普通ではなくなっているかを今度こそ自分の目でみるよう、ベニートに訴えるためにかけたのだそうだ。

  「僕の問いに答える形でルエーラは、エヴェリンがどんなふうに少しずつ変になっていったかを、こんなふうに説明してくれたよ。…エヴェリンは六か月ほど前に彼女のオフィスを開いてから何週間も経たないうちに、ひどく気を苛立たせたり、憂うつになったりするようになった。日本にいる彼女のビジネスパートナーと〔ちゃんと会話ができない〕からだった。ほどなく彼女は、そのパートナーへの不満を、オフィスの中で、独り言の形で表すようになった。その独り言の時間が長くなり、やがて、ルエーラとの日常的な世間話のあいだでも、ときどき、わけもなく急に泣きだすようになった。ルエーラが〔最初に〕ベニートに電話をしたのはそのころだった。妹の言動に気をつけるよう警告するための電話だったんだ。二か月ほど前のことだったそうだ。

  「覚えてる、トゥリーナ?〔作業場〕でガブリエルが僕に、僕の訪問が〔二か月ほど前〕だったら僕とビジネスの話をしていただろう、と言ったのを?そのころだったら、彼らのボス、エヴェリンの精神状態はまだ精神科での治療が必要なほど悪くなかったろうし、新たなビジネスの話で彼女の憂うつも解消しただろうから、彼女をリーダーにして、〔僕の顧客〕を相手にビジネスを展開していくチャンスはあった、とガブリエルは考えていたんだね。

  「だけど、不幸なことに、ルエーラの〔最初の〕電話へのベニートの反応は鈍かった。〔エヴェリンは強い性格の、賢い人間だから心配することはない〕〔いまは新たなビジネスを始めたばかりで、少し気が入りすぎて興奮しやすい状態になっているかもしれないけれども、すぐに落ち着くはずだ〕というのがベニートの回答だったそうだ。ルエーラは悔しそうに僕に言ったよ。〈わたしの話し方に、ベニートを説得するだけの切迫感がなかったのかもしれません〉って」

          ※

  「ルエーラがベニートに〔二度目の〕電話をかけたのは、頻繁に、というほどではなかったものの、ルエーラが〔危ない〕と感じる頻度で、エヴェリンが正気を失うようになったからだった。そのころのエヴェリンはルエーラのあいさつや問いかけをときどき無視するようになっていたし、物音に気づいてルエーラがエヴェリンのオフィスを覗いてみると、大声を上げながら、椅子を押し倒したり書類を床に投げつけたりしていることもあったそうだ。

  「ベニートはその〔二度目の〕電話から四、五日あとにやって来た。…〔飛行機を使うだけのカネが集まらなかったから〕船で、丸一日かけてね。ベニートはまずルエーラを訪ねた。彼女は、数日前からその日までの―比較的に穏やかだった―エヴェリンの様子をベニートに話してから、彼を隣のオフィスに案内した。

  「エヴェリンを見たベニートはたちまち、彼女が自分たちのボスとしてビジネスをやっていける状態にはないということに気づいたそうだ。…オフィスのドアを開けたのがベニートだと分かるやいなや、エヴェリンがどっと―幼児のように―泣きくずれたからね。エヴェリンはもともと、そんなふうに感情を表わす性格ではなかったんだね。

  「見ていたルエーラが悲しい思いをいっそう深くしたのは、エヴェリンが涙を流しつづけながらベニートに謝りだしたときだったそうだ。〈ごめんなさいね、お兄さん〉〈なかなか資金を送ってもらえなくて、わたし、恥ずかしい〉〈待ちくたびれたでしょう?〉〈懸命にやっているんだけどうまくいかなくて〉〈お義姉さんもわたしのこと、怒っているでしょうね〉〈ローランド兄さんには一生口をきいてもらえないかもしれない〉〈わたしのこと見そこなったって、ガブリエルが言ってない?〉〈本当に、みんなに申し訳なくて…。恥ずかしくて…〉。ベニートが何度も、そんなことを気にすることはない、と伝えたんだけど、エヴェリンは長いあいだそんな詫びの言葉をくり返していたらしいよ。…小林との話が進まなくなってから、エヴェリンが何を一番苦にしていたかが、トゥリーナ、この話からよく分かるよね」

  多くの思いが胸の中で渦巻いていたのに、わたしは何も言葉にはできなかった。

          ※

  「ルエーラの目には」。高野さんはつづけた。「このエヴェリンの詫びは、どう話して彼女に貝殻ビジネスをあきらめさせるかを決めかねていたベニートを助けたようだった。そんなふうに詫びたあとのエヴェリンは彼の〔セブのみんなのことは気にしなくていい〕〔今回は話が途中でとまってしまったけれども、貝殻ビジネスの様子はだいたい分かった。それだけでも収穫だ〕〔また機会がやって来るかもしれないから、それまで一時的にマニラ・オフィスも閉鎖して、しばらく英気を養い、そのときに備えよう〕などという話を―あとでベニートが〔驚いた〕と言ったほど―素直に聞き入れたんだ。

  「ルエーラはこう考えたそうだ。〈エヴェリンは、どうしてもビジネスを成功させたいという思いに捕らわれてはいただろうけれども、一方、頭の中のどこかでは、自分は疲れきっているし、もうビジネスをやっていける状態じゃない、と分かっていたに違いない。オフィスの入り口にベニートが立っているところを見た瞬間に彼女は、自分にかけていた圧力、精神的な苦痛からさっと解放されたに違いない。自分のことを―それこそ親身になって―心配してくれる者がとうとうやって来てくれたと感じて〉

  「トゥリーナ、エヴェリンが正気を完全になくしていなかったことは、みなにとって、本当に幸いなことだったと思うよ。そうでなかったら…」   長い沈黙のあと、高野さんはつづけた。「それにしても、ガブリエルが言ったように、彼らのセブ・オフィスを僕が訪ねたのが、もし二か月早かったら…。小林が矢部に電話をかけたのが二か月早かったら…。僕は小林に何をどう報告していただろうか。その結果、彼らのビジネス、いや、エヴェリンは、どうなっていただろうか。

  「エヴェリンが身を寄せている、彼女の叔母の家のアドレスを紙に書いて僕に渡しながら、ルエーラは最後にこう言ったよ。〈いいニュースがあるとすれば、それは シャイ パ サ ラバス ナング マンダルーヨング ホ(彼女がまだマンダルーヨングの外にいることです)ってね。

  「僕が滞在しているホテルのベルボーイで、僕の友人でもあるティムがあとで説明してくれたところによると、ルエーラは〔エヴェリンはまだ、マンダルーヨング市内にある、人々によく知られた、あの精神病院に入院させられてはいないのだから、どちらかといえば、幸運だと思った方がいいのかもしれない〕と僕に言いたかったんだね。…悲しい話だね。

  「エヴェリンのオフィスがあった建物を出ると、トゥリーナ、僕は、ルエーラからもらっていた、エヴェリンのアドレスが書かれた紙をポケットから出して、いくつもの小さな紙片に引き裂いてしまった。…引き裂くごとに、胸の中の空洞が大きくなるような気がしながら」

          ※

  口の中がひどく乾いていた。わたしは〔ソフトドリンク〕をなめた。なめて口の中の渇きをやわらげながら〈本当に〉と思った。〈あのとき、もう少し長く日本にとどまっていたら…。お腹の中の子のことで、もう少し長く克久と言い争いをつづけていたら…。母親の反対に抗しきれない様子だった克久に、わたしも気が変になるところまで追い込まれていたかもしれない〉  耳の中でまた、克久のあの声がこだましていた。〈中絶するんだ、トゥリーナ。何が何でもそうするんだ〉

          ※

  高野さんの声が克久の声にとって代わった。

  「エヴェリンがそんな状態になっていると聞いたことも、トゥリーナ、小林には伝えないつもりだよ。自分のビジネスパートナー、自分の愛人にしたこと、もっとはっきり言えば、自分の振る舞いがエヴェリンの夢を打ち砕き、彼女の人生を土台から破壊しかけたことに、彼はまったく気がついていないだろうし、僕の報告でそれを知ったところで、申し訳ないことをしたとは考えないかもしれないからね。いや、それどころか、彼は、そんな状態になりかかっていたエヴェリンにさらに資金を渡さなかったことを賢い選択だったと思うかもしれないね。

  「その守ったカネを持って小林は地獄に行けばいいんだ。…もうエヴェリンといっしょにではなく、ひとりきりでね。どこに行くにしろ、小林といっしょじゃ、いまではエヴェリンが嬉しいとは思わないだろうからね」

          ※

  タバコをまた一本、灰皿の中でもみつぶしてから、高野さんは言った。「マヒラップ。タラガング マヒラップ アング ブハイ コ リト サ ピリピナス(難しい。このフィリピンで暮らすのは本当に難しいよ)」

  「そんなふうに考えないで、高野さん」。できるだけ明るい声になるよう努めながら、わたしは応えた。「もう一度言わせてもらいますね。…他人のおかしな振る舞いの責任を、高野さん、あなたが背負い込むことはないんですよ。あなたは自分を責めすぎています。自分に目を向けすぎています」

  高野さんは顔をわたしにまっすぐ向け、わたしの目をしばらく覗いていた。

  わたしの頭に突然メルバの声が浮かんできた。〈ミスター高野はいま、ほかでもない、〔自分に〕親切で優しくしてくれる人が必要なんです。真実ヤサシイ女性が、あの人には、いま、必要なんです。…わたし、昨夜、あの人に優しくしてあげられるのは、トゥリーナさん、あなただって分かりました〉

          ※

  「君が言うとおり…」。高野さんが口を開いた。「自分が何者かということについて意識過剰なところがいまの僕にはあるかもしれない。だけど、エヴェリンと小林のあいだに何が起こったかを知ったあとの僕の目は、どうしても自分自身に向いてしまう。〈自分はここ―フィリピン―で何をしているんだろう〉〈何のためにここにいるんだろう〉〈いったい自分は何者なんだろう〉と考えてしまう。〈いや、そもそも、自分たち日本人というのは何者なんだろう〉と考えてしまう。

  「そして、そんなふうに考えたおかげで、トゥリーナ、僕はいま、自分のこと、日本人のことが、過去のどんなときにもまして、よく分かっているって気がしているよ。…エヴェリンと小林のあいだにあったことを知ればそれで日本人のことが何もかも分かる、と言っているんじゃないんだけどね」

  「もちろんですよ、高野さん。その二人のあいだに起こったことは、結局、二人のあいだの出来事にすぎないんです。日本人全体やフィリピン人全体を代表することなんか、その二人を含めて、だれにもできっこないんです」

  「それも分かるんだけど…」

  高野さんの言葉を遮って言った。「ただ楽しむようにしてください、高野さん、わたしの、この国を。ここで過ごす日々を最大限に楽しむようにしてください」

  「この国が本当に好きなんだよ、僕は」。高野さんは応えた。「ここでできた友人たちが本当に好きなんだよ。だけど、変なんだよね、トゥリーナ。なぜだか、まだよく分からないんだけど、この国では、自分自身でいることがひどく難しいんだ。フィリピンとフィリピン人のことを知れば知るほど、ここでは、自分は自分自身である前に典型的な日本人の一人なんだって感じてしまうんだよね。…おかしいんだけど、そうなんだよね」

          ※

  わたしはすっかり言葉をなくしていた。…ふと〈リサは何をしているんだろう〉と思った。

  彼女は遠くのテーブルで客をもてなしていた。…彼女がその瞬間を心底から楽しんでいることをこの上なく示す、うそ偽りのない明るい笑みを顔いっぱいに浮かべながら。

  わたしは、高野さんのためだけではなく、わたし自身のためにも、彼女のその笑みがほしくてならなかった。

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