第27話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        九月  



       〈二七〉



  もうセサールはいなかった。

  わたしは疲れ果てて、リサとリカルド夫婦の家の、居間のラブシートに深々と体を沈めていた。

  リサはストールに腰をかけ、背中でピアノにもたれかかりながら、リカルドはソファーに半ば身を横たえながら、共に、胸の中の不快さを隠しきれないといった面持ちで、黙り込んでいた。

  部屋はまだ、セサールの自己弁護の言葉で満たされているようだった。〈君は何も分かっていないよ、トゥリーナ。マニラにテレサと二人きりで残されて、僕がどんなに淋しい思いをしていたかが…。家に一人で残された夫にとって、君のようにかわいい妻といっしょに暮らしていた―毎晩ベッドを共にしていた―夫にとって、妻のいない半年がどんなに長いものかが…〉〈自分の妻の肩や腰が毎夜毎夜、ほかの、日本人の、男たちの腕に抱かれていると想像することが夫にとってどんなに辛いことか、君には分からないんだ〉〈君の手、腕、腰に手をやることが許されている日本の男たちに僕がどんなに激しく嫉妬したか、君は分かっていないんだ〉〈あんなふしだらな女たちと僕が喜んで遊んでいたと、君は、本当に思うわけ?とんでもないよ。あんな連中を相手にしたくなんかなかったんだ、僕は。だけど、僕が自分を慰める方法がほかにあった?〉〈君には男のことが何も分かってはいないんだ〉

          ※

  わたしは頭を空っぽにしたかった。リサのサイドボードに目をやった。中には、マニラに戻る彼女に彼女をひいきにする客たちがみやげとして贈った多種多様、大小さまざまの飾り物がぎっしりと並べられていた。百個以上はあるはずだった。その半分近くはコケシやハカタニンギョウといった伝統的な日本人形で占められていたけれども、美しい絵柄と色彩の磁器の花瓶や皿も少なくなかった。

  サイドボードの上ではキンカクジ時計が時を刻んでいた。彼女に執心する京都の客の一人から贈られた、精巧なつくりの、真鍮製の置き時計だった。

  その上の板壁には、長さが三メートル以上はあるはずの紙の鯉がピンでとめてあった。リサが広島で働いていたときの客の一人で、熱狂的なプロ野球ファンだった酒屋店主から贈られたという赤いコイノボリだった。

  ずっと前に、途中で何度か笑いをこらえきれずになりながら、その人物のことをリサが話してくれたことがあった。

  その酒屋店主は、四十代半ば、広島カープの本拠地での試合は十年間以上一度も見逃したことがないということを大きな誇りと自慢にしていて、店でのリサとの会話には、ほとんど例外なく、カープに関する話題から入る人だった。リサ自身は野球に詳しくはなかったけれども、カープが勝った日にはすこぶる上機嫌、負けた日にはひたすら打ちひしがれている、つまりはそのときの気分が読みやすいこの男性は、むしろ気楽に応対できる客だった。一方、〔気楽〕でいられなかったのはこの男性の妻だった。というのは、この酒屋店主には、カープが勝つたびに紙製の鯉、コイノボリを記念品として買うという趣味があったからだった。男性の家の中はその十数年のあいだに大小数百のコイノボリでいっぱいになってしまっていたのだった。男性がリサに話したところでは〔俺のこの趣味と多すぎる紙の鯉に辛抱しきれなくなった女房〕は数年前に〔ほとんどかってに離婚手続きをすませて家を出ていった〕ということだった。…〔おかしなことに、昼間は酒屋にやって来て店員として働きつづけているのだけども〕

          ※

  そんな話をしたあと、リサは言った。〈その人ったらね、わたしが次に日本に働きに来るとき、またおなじ町に戻ってきたら、〔彼女の〕、だから、ほら、この壁の赤いののね、〔夫〕として、今度はうんと大きい黒いコイノボリをわたしに贈るって言ったのよ。わたしと結婚したいって、それで言いたかったんだと思うわ。いえ、悪い人じゃなかったのよ。でも、もう一匹、もっと大きな紙の鯉のために割けるスペースなんか、わたしの家の中にはもうないじゃない。まして、リカルドがいるのだから、二人目の〔夫〕のための、なんかね〉。リサはもう一度どっと笑いだした。〈それにしても、トゥリーナ、あの人、赤いのがメスだってどうして分かったんだろうね。鯉って、色では性別分からないんじゃない?〉

          ※

  「わたしたち」。リサがストールから立ちあがりながら言った。「時間を無駄に過ごしてしまったみたいね、トゥリーナ」

  ラブシートからリサを見上げ、わたしはつぶやいた。「本当にごめんなさいね、リサ。日本へ発つ前の貴重な時間だったのにね」

  「そんなつもりで言ったんじゃないのよ、トゥリーナ」。リサは急いで応えた。「そうじゃなくて…。セサールにはすっかり失望させられてしまったって、そう言いたかっただけ。今日は、あの人がどうしようもない人間だってことが改めて分かったという以外には何も収穫がなかったから。…あの態度、わたしが恐れていたのよりも、うんとひどかった」

  「それでも、リサ」。ソファーに半ば体を横たえていたリカルドが口を開いた。「あすの話し合いにはエミルデをよこすって、最後には約束させたじゃないか。それに、テレサを渡せと主張しているのは、実はセサールではなくて、これまで自分に子ができなかったエミルデだってことをはっきりさせただけでも大きな成果だよ。これまでよりは話が前に進みそうじゃない」

  「そうかも知れないけれど…」。リサは言った。「でも、きょうあの人と会ったもともとの目的はそんなところにはなかったわけだから」。彼女はわたしに視線を向けた。「何よりも前に、セサールに謝ってもらいたかったの、わたし。あの人があなたに心底から謝るようだったら、まだ望みがある、二人のあいだに、こんな果てしない諍いの代わりに、何か好ましい雰囲気が生まれるかもしれない、そうなればテレサもいま以上に幸せになれる…。そんなふうに考えていたから。でも、あの人は謝らなかった。それどころか、あんなふうに居直って…」

          ※

  「トゥリーナ」。リサはソファーに移り、リカルドの横に腰を下ろした。「自分に子供ができないからテレサを引き取って育てよう、暮らし向きは自分の方がいいからテレサもいまより幸福になれるはずだ、なんて考えが身勝手すぎるってことを、あす必ず、エミルデに分からせてやるからね、わたし。死んだ父親に残してもらった財産がいくらかあるといっても、テレサを渡せとあなたに要求する権利なんかないんだってことを彼女に思い知らせてやるからね。<…心配しないで。あすの話し合いできっと何もかも解決するはずよ」

  「ありがとう、リサ。わたし、自分では何もできなくて…」

  「あなたは何もしなくていいの。うんざりするほどいやな思いをこれまで二年間もさせられてきたんだから。それに、あなたにセサールを紹介したのはわたしなんだし、最後はわたしがなんとかしなくちゃね」

  リサの口調は決然としていた。

          ※

  けれども、ほんのちょっとあとで聞いたリサの声は驚くほど感傷的だった。「セサールも以前はすごく知性的で勤勉な学生だったのにね。ある程度の成功を将来収めるのに必要な資質と能力はみんな備えているように見えていたのにね。

  「マカティのあのホテルの中のディスコにゲストシンガーとして出演した際に、おなじホテルの中のレストランで、ウェイターとして働いていたセサールにたまたま出会ったとき、あの人は、大きな望みを抱えて、燃えるような目をしていた。…少なくとも、そんなふうに見えていた。それがいまは…。

  「五年間も経ってからだけど、トゥリーナ、いまは、わたし、彼をあなたに紹介したことをすまないと思うばかり…」

  「リサ、〔すまない〕だなんて…。あのころのあの人は、わたしにもそんなふうに見えていたのだから」

  「そう言ってもらえると、少しは気が楽になるけど…。あのころのセサールに欠けていたのは、たぶん、お金だけだったと思う。あの人、精一杯に働いて、そこのところを補おうとしていたわ。あのレストランでウェイターとしてせいぜいだれよりもまめに働く、ぐらいしかできなかったにしてもね。

  「でも、ほかに何ができたかしら。ミンダナオ島から、たった一人で、このメトロ・マニラに出てきたばかりの身で?わたしの目には、彼は彼にできる限りのことをしているように見えていたわ。あのころのあの人には、自分の状況から抜け出し社会の階段を昇り上がっていくだけのエネルギーがあったはずよ」

          ※

  「リサ」。つぶやくようにわたしは言った。「こんなふうには、わたし、いままで考えないようにしてきたんだけど…。彼のために―一部はわたしの両親のために―カレッジをやめて働こうと決めたことは、わたしのこれまでの人生で最大のミステイクだったかもしれない。あのときは単純に、彼がフルタイムの学生としてカレッジに戻ってくれれば、そうなれば、二人の将来の暮らしがましになるだろうって、夢見ていたのだけれど」

  「あのことはあなたのミステイクなんかじゃない」。リサは言った。「あなたの決心は、状況を考えれば、ちゃんと理にかなっていたし、うまくいきそうに見えていたわ。…もちろん、あなたがカレッジを中退するのを、わたし、喜んで見ていたわけじゃないけど」

  「仮に、あの決心が決定的なミステイクではなかったとしても、リサ、そのあとのわたしはやっぱり思慮が足りなかったと思う。思慮が足りなかったから、あの人をあれほど無責任に、あそこまでだめな人にしてしまったんだと思う。そうじゃない?」

  「違うわ、トゥリーナ」

  「そうだと思う」。わたしは言いきった。「セサールも初めは、わたしに〔できるだけわたしの目標を追いつづけた方がいい。カレッジは出る方がいい〕って言うぐらい、思いやりがあったのよ。それぐらい理解のある人だったのよ。なのに、わたし、彼を助けたいって言い張ったの。何の疑いもなく、自分は正しいことをしているんだって信じて…。

  「だから、レストランでの仕事をまたパートタイムに戻して彼がカレッジに復学してくれたときは、わたし、本当に嬉しかった。幸せだった。自分の決心が誇らしくさえ思えていた。…何もかもうまくいくんだと信じていた。

  「そうなの、リサ。わたしには思慮が欠けていたの。だって…。いえ、そのことをまったく考えていなかったわけじゃないんだけど、わたし、あんなにすぐに自分が妊娠しようなんて、予想していなかったもの。

  「…あ、わたし何てことを…。テレサのために言わせてね、リサ。…ええ、もちろん、初めて子ができることになって、わたし、とても嬉しかったのよ。テレサは、ユキと並んで、わたしのかけがえのない宝よ。でも、あのとき、あんなに早く妊娠してしまったことで、わたしたちの現実が変わってしまったという事実は否定できない。リサ、あなたが見つけてくれた、あのブティックでの仕事もやがてやめなきゃならなくなったし、セサールもまたフルタイムで働かなきゃならなった。…またカレッジを休学して」

          ※

  「このことはこれまであなたにも話したことなかったけど、リサ…。妊娠したことがはっきりしてから間もなく、わたし、セサールがちょっと変だ、前とちょっと違うって、ときどき感じるようになったのよ。たとえば…。ある日、あの人は、わたしのお腹に手を置きながら、お腹の中の子にこう語りかけたことがあったわ。〈りっぱに生まれてくるんだよ。…君に生を受けてもらうために、僕は大きな犠牲を払っているんだからね〉」

  リサは眉をひそめた。リカルドが首を振った。

  「そのときは、わたし」。わたしはつづけた。「あの人はただ冗談を言ってるんだって思うことにしたの。だから、あまりいい感じはしなかったんだけど、そのこと、やがて忘れちゃった。でも、いま思えば、あれは、あの人が変わっていく最初の兆しだったのかもしれない。自分以外のどこかに言い訳を見出そうという、あとで明らかになったあの人の性向が、初めて顔を出していたのかもしれない。

  「それからしばらく経ってからのこと…。ふだんと変わりない、わたしには〔穏やかで平和な〕と思えた夕食のあと、あの人が突然こんなことを言い出したことがあった。〈いつまで待っていても結局復学できないんだったら、僕の教科書なんか全部売り払ってしまって、テレサの服代にでもした方がましだ〉って。わたし、一方で、服が買えるほどの値段で教科書が売れるものかしらと訝りながらも、とにかく、説得して、そんなことをするのはあの人にとどまってもらったのだけれど…。

  「本当に、わたし、勘が悪くて…。手遅れになるまでぼうっとしていて…。あの人の胸の中の、そんな変化に気づかなかった。…あの人から警告のシグナルが出ていたのに、それを見過ごしてしまった。そのシグナルであの人、自分が夢を失いかけてどれほど失望しているかを、あの人なりの言葉で、わたしに伝えていたのに…」

          ※

  わたしは自分が〔夢〕という言葉を使ったこと―メルバと高野さんから聞いた話に自分がそんな形で影響されていること―に驚いていた。

  その驚きを隠してリサに言った。「もし、自分が働くとわたしが言い出していなかったら。あの人を助けてやろうなんて、わたしがうぬぼれていなかったら…。あの人はわたしに過剰な期待を抱いてはいなかったでしょうし、知性や向上心、勤勉さなどといった、わたしが初めて出会ったときに持っていたはずのものを、あの人はいまでも全部持ちつづけていたかもしれない。…そう思わない、リサ?テレサが生まれると生まれないとに関わりなく、なんとか道を切り開いて、とっくにカレッジを卒業していたかもしれないって思わない?少なくとも、あの人はいまのようにはなっていなかったんじゃないかって、リサ?」

  リサは答えた。「おなじ状況にあるからといって、皆がおなじことを考えて、おなじように行動するわけじゃないでしょう、トゥリーナ?みなが理性を失うわけじゃないでしょう?セサールは結局、わたしたちが思っていたほどには強くなかっただけなのよ」

  「リサ、誤解しないでね、これ。でも、もし、わたしが再び、今度は日本で、テレサとあの人のために働くって言い出していなかったら、あの人はどうなっていたかしら?あの人をあんなふうに仕向けてしまったお金だって、手にするチャンスはなかったはずでしょう?」

  「それでも、トゥリーナ、カラオケシンガーの夫たちがみんな、妻が日本で稼いだお金を使って女遊びをするわけじゃないわ」

  「それはそうだけれど…」

  「〔誤解〕して言うんじゃないのよ。でも、責められなきゃならないのは、トゥリーナ」。リサはため息をついてからつづけた。「やっぱり、あなたをそんな悲しい、苦しい状況に導いてしまったわたしかもしれない」

  「それは違うわ、絶対に」

  「でも、彼をあなたに紹介したのもわたしだったし、あなたが[さくら]で働こうって、やがては、日本で働こうって考えるようになったのも、みんなわたしがそう奨めたから、だったのだから」

  「ほら、あなた自身がいま言ったように、〔おなじ状況にあるからといって皆がおなじことを考えておなじように行動するわけじゃない〕わ。働くって決めたのはわたしなのだし、奨められた女とその夫がみんなこんな状態に陥るわけではないもの。わたしたちの人生を変にしてしまったのは、わたしとセサールよ。あのころあなたがしてくれた親切な助言や応援には、わたし、本当に、いくら感謝してもし足りないと思っている」

  「これは言い訳に聞こえるかもしれないけれど、トゥリーナ、セサールがいつかあんなふうにあなたを裏切ろうなんて、いったいだれに予想できたかしら?しまいには、遊んだ女たちの中の一人―エミルデ―と同棲するようになろうなんて?自分よりも七歳も年上の?たまたまいくらかのお金で彼を絡めとる力があっただけの女と?…だれにもできなかったんじゃない?こんなことになろうなんて、だれにも予想できなかったんじゃない?」

          ※

  リサはつづけた。「わたし自身のことを言えば、トゥリーナ、あなたに助言していたときのわたしは、あなたが[さくら]で、のちには日本で、一所懸命に働けば、あなたたちも経済的な土台がしっかり築けるはずだ、とだけ考えていた。二人の未来は明るくなると信じて、何も疑っていなかった」

  「わたしもそうなると思っていたわ」。わたしは言った。「実際に、[さくら]で働きだしたとき、わたしは希望にあふれ、とても幸せだった。パートタイムでセサールが手にするお給料と合わせて考えると、わたしたちの収入は、セサールの復学を近い現実として考えられるほどになっていたんだもの。だから、わたしにも日本で働くチャンスがありそうだって分かったときの嬉しさは…。

  「最初の日本行きが近づくにつれて、わたし、セサールが土木工学の学士号を取得してカレッジを卒業できる可能性がわたしたちの生活に戻りかけていると考えて、すごく気が昂ぶったわ。その学士号があれば、あの人、メトロ・マニラのどこかの市役所などで働けるかもしれない、そうでなければ、繁栄中のサウディ・アラビアでどこかの建設会社に雇ってもらえるかもしれないって考えて…。

  「わたしが何回か日本で働けば、数年後には、リース用のタクシーを何台か持てるようにさえなるかもしれない、とまでわたしたち話し合ったことがあるのよ。自動車とタクシーの営業権を買って、そんな資力のない運転手たちにそれをリースすれば、わたしたちの計算では、一台当たり、毎月四千ペソほどが入ってきそうだった。四千ペソというのは、卒業後にセサールが国内に就職先を見つけたとしてだけど、彼が最初にもらうお給料の二倍以上に当たるはずだったわ。すごい額でしょう?…わたしたち、実は、わたしが二度日本で働けば、最初のタクシーが買えるだろうと見積もっていたのよ。ほんの、そう、〔ほんの〕二年後には買えるだろうって。

  「セサールがわたしを当てにし始めているんじゃないか、学士号を取得しようという気持ちを失いかけているんじゃないか、なんて考えは、ほんのかすかにさえ頭に浮かんだことはなかったわ。わたしたちの…。わたしの〔夢〕は何一つ実現しなかった」

          ※

  「何十万人、あるいはそれ以上の数のフィリピン人がいま海外に出稼ぎに行っているっていうわね」。わたしはつづけた。「その人たちはそれぞれ稼いだドルや円を自分の家に仕送りしたり、持ちかえったりしている。多くの家族が、そんな恵まれたチャンスを活かして、堅実に暮らしを良くしていっている。でも、一部の人たちはそうじゃない。そんな大金をどう扱ったらいいかが分からない人たちもいるのよね。思いがけない多額の収入に心を変にしてしまう人たちもいるのよね。

  「セサールとわたしは後の方だった。この国のあちこちで起こっている、そんなお金が引き起こす悲喜劇の一つを、リサ、わたしたちも演じてしまったの。

  「二人の生活があわただしく変わっていく中で、セサールは大事な分別をなくしてしまったわ。福岡からわたしが送ったお金を手にした瞬間に、あの人は最後の理性を失ってしまったのね。…自分の〔遊び〕が発覚してもわたしはあの人を許すだろうと考えるほど。

  「でもね、リサ、分別をなくしたのは、あの人だけじゃなかったわ。わたしはどうだった?のちに克久の求愛を受け入れたときのわたしに本当の分別があったかしら?克久の中に見たもので、あるいは、あの人の中にそれまで見たことがなかった何かを見て、見たと思って、わたし、冷静な判断力を失っていなかったかしら?

  「わたしの目には、克久はすごく上品で、親切で、勤勉で、知的な人に見えていた。セサールと長いあいだ諍いをつづけたあとだったから、わたしには克久が―こんな言い方は変に聞こえるでしょうけど―経済的に成功を収めている国の男性にふさわしく、ずいぶん規律正しい人に見えたわ。セサールとは何から何まで違って見えたわ」

          ※

  「正直に言うとね、リサ」。わたしは話しつづけた。「克久のわたしへの求愛が本物だと思えるようになったとき、わたし、〔まったく新しい世界〕への特別な入場券を手に入れたかのような気がしていた。自分の人生の新しい展開に、ほとんど有頂天になってさえいたかもしれない。

  「わたしが法的には結婚していることや、仲たがいした夫とのあいだに娘が一人いることを知っても彼の意思が変わらなかったときには、わたし、嬉しくて、涙を流さずにはいられなかった。わたしの婚姻関係がフィリピンでどうなっていようと、テレサを含めて、みなで幸せに日本で暮らせるようにするからって彼が約束してくれたときには、もう最高に幸せだった。わたしたちの結婚に大反対している彼の母親のことは心配しなくていい、必ず同意させるから、と言ってくれたときの彼はこの上なく頼もしい人だった。…あのころの克久は、本当に、セサールとは違って見えていたのよ。

  「だから、リサ、お腹に赤ちゃんができたって彼に告げるとき、わたしは少しもためらわなかった。知らせを聞けば、心底から喜んでくれると信じていたから。…わたしが彼の子どもを産むことを彼があれほどいやがるなんて、もちろん、夢にも思っていなかった。

  「いま考えれば、さっき言った〔新しい世界〕がわたしにとっては現実にはどんな世界なのかを、わたし、もっと注意深く考えておくべきだった。あんなふうに有頂天になってはいけなかったの。わたし、本当に思慮が足りなかった。

  「でも、リサ、あのときは思慮が足りなかったと思うけれども、わたし、克久とのことをまったくの失敗だったとは、まだ言わない。…自分が愚かだったとは思うけど、わたし、まだ、この問題は解決できると望みを持っている。彼とは話ができると考えている。だって、わたしが彼の子を産むのに本当に反対していたのは、実は、彼自身ではなく、彼のお母さんだったはずだから。彼はお母さんの反対に、一時的に、抗えなくなっていただけのはずだから。

  「ええ、彼とはまだ話ができるはずだわ。わたしが東京に行きさえすれば、彼はわたしの話をきっと聞いてくれるわ。たとえ聞いてくれないにしても…」。わたしは感情の昂ぶりをなんとか抑えてつづけた。「ユキのために、わたし、望みを捨てるわけにはいかないもの」

  「トゥリーナ…」。リサはそれ以上何も言うことができず、視線をリカルドに向けた。

  そのリサの手を取りながらリカルドがわたしに言った。「君の言うとおりだ、トゥリーナ。望みを持ちつづけていれば、問題は必ず君にいいように解決するよ。君はもっといい人生を送って当然な人なんだから」

  「テレサやユキといっしょにね」。リサがつけ加えた。

  わたしはうなずいた。「ありがとう。いつも励ましてもらって…」

          ※

  わたしはキンカクジ時計に視線をやった。[さくら]の寮に帰って夜の仕事に備えなければならない時間が近づいていた。

  わたしの疲れはますます深まっていた。

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