第29話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈二九〉



  K&Tプロダクションの共同経営者の一人、ミスター加藤はわたしの働く場所を、東京都内にどころか、その近くにさえも、まだ見つけてくれてはいなかった。 ミスター加藤は成田国際空港と東京都心とのあいだにある千葉県船橋市にオフィスを構えていたけれども、その顧客のバーやパブ、クラブなどはほとんどが東京都市圏から遠く離れた地方、br>特に東北の宮城や青森、それに、四年ほど前にわたしが働いたことがあった九州の福岡などに集中しているということだった。つまり、何が何でも東京都内かその近辺に仕事がほしかったわたしにとって、ミスター加藤は必ずしも〔是非にも〕と言ってまで当てにしたい人物ではなかったのだった。けれども、彼はジョセフがパートナーとして選んだ人物だった。そしてわたしはジョセフを信頼していた。ジョセフならほかのだれよりも早くわたしの望む場所に仕事を見つけてくれると信じていた。

          ※

  わたしはまたジョセフのオフィスに顔を出していた。最初のときからまだ六週間ほどしか経っていなかったけれども、もう五度目の訪問だった。

  スタジオとのあいだにある透明のガラスドアは、いつもと違って閉ざされていた。ドアの向こう側のスタジオでは、女が二人、長椅子に腰かけて、途切れなくしゃべりつづけていた。

  レセプショニスト・デスクの上に置いたファイルを真剣に覗き込んでいたジョセフが顔を上げた。「仕事を扱うのがミスター加藤でなくても、それはかまわないだろう、トゥリーナ?つまり、ミスター加藤も僕も前にいっしょに仕事をしたことがないプロダクションが扱うものでも、ということだけど?」

  「ミスター加藤はいい人だと思っています」。わたしは答えた。「女たちを困らせない人だとしても知られています。でも、いまのわたしは、それがだれであれ、わたしの仕事を東京の近くに早く見つけてくれるプロダクションを選びたいと思います」

  「そのプロダクションがどういう経路でこのオフィスのアドレスを入手したのかさえ僕は知らない、ということだよ?」

  わたしはうなずいた。

  「そのプロダクションが倫理的に問題がないかどうかも僕は知らない、ということだよ?」

  わたしはもう一度うなずいた。

  「すっかり腹が決まっているんだな、トゥリーナ。だったら…」。デスクの上のファイルをてのひらで軽くたたきながらジョセフはつづけた。「ここに、ほんの数日前に飛び込んできた問い合わせがあるんだけど、これにするか?二、三か月後には就ける仕事だよ」

  「その話、よさそうですね」。心臓の鼓動が速まっていた。

  「このバーはもうすぐ開店することになっていて、シンガー・ホステスをとりあえず三人、急いで見つけたがっているんだ。けっこう東京に近いところにあるようだよ。いや、実際、このファイルにある中では、これが一番東京に近い…」

  ジョセフの言葉が終わりきらないうちにわたしはたずねた。「どこなんですか」

  「茨城県の日立だよ。東京の北東にあって…」。ジョセフはデスクの上に地図を広げ始めた。

  「ヒタチ?…あの電子機器メーカーの名とおなじ綴りですか」

  「ああ、おなじだな」

  「場所、わたしに探させてください」。ほとんどひったくるように、わたしはジョセフから地図を受け取った。

  オフィスには前に四回来ていたし、その地図には―東京が一瞬のうちに指差せる程度には―慣れ親しんでいた。わたしは大急ぎで地図を広げ終え、まず人差し指を東京の中心部に置き、それからゆっくりとその指を北東の方角に向けて動かしていった。 その都市の名は太平洋沿いにあった。

          ※

  「だめです、これ。遠すぎると思います」

  ジョセフは首を傾げた。「そう?」

  「東京からここまで、自動車でどれぐらい時間がかかるんですか?」   「勘弁してよ、トゥリーナ。本気で僕にそうたずねてるの?僕はマニラに住んでいるフィリピン人で、自動車ででも列車ででも、とにかく、そんなところには行ったことがない人間なんだよ。そんなことが僕に分かるわけはないだろう?」

  「ごめんなさい。でも…」

  「だけどだね」。ジョセフは地図の左下の尺度に自分のボールペンを当て、そのペンを使って東京と日立のあいだの距離を測った。「確かじゃないけど、この距離だと、二時間ぐらいかな。もしかしたら、三時間かもね。道路の混み具合ではもっとかかるかもね」

  「三時間もかかるのだったら、それ、やっぱり遠すぎます」

  「分かったよ、トゥリーナ」。ジョセフは肩をすくめ、椅子の背に深々ともたれかかった。「選ぶのは君だ。君の好きなようにしたらいいさ」

  「お願いです。そんなふうに投げ出さないでください」

  「投げ出してはいないけども…」

  「いろいろ助けていただいて、わたし、本当に感謝しているんですよ。でも、分かってください。わたし、わたしを訪ねて来ないのはお店が遠すぎるからだって言い訳を彼にさせるわけにはいかないんです」

  「それは分かるよ。だけど、いま僕が君に〔これはどう?〕と言えるのはこれだけなんだ。ミスター加藤にも、もちろん、あれこれ当たってもらっているんだけど、君も知っているように、彼の主な商圏は東京じゃないし…。覚えてる?君がその〔彼〕に出会った東京の浅草の店は、たまたまミスター加藤の知人が経営していたものだったこと?その店も、君がフィリピンに戻ったあと、間もなくつぶれちゃって、もうないんだから。…もう少し辛抱強くなきゃいけないな、トゥリーナ」

  「ええ、でも…」

  「トゥリーナ」。ジョセフは不意にファイルを閉じると、それをデスクの右片隅に押しやった。「話は変わるんだけど…」

          ※

  「見てもらったら分かるように、トゥリーナ」。ジョセフはつづけた。「ここではいつも、若い男女が十人以上僕のために働いてくれている。…実際にはそんなに大勢の人間が必要なわけではないのにね。アシスタントやメッセンジャー、事務員、経理係…。いろんな役割でね。あの子たちは、このプロダクションが抱えているシンガーや―僕の妻を含めて―俳優たちを僕が国内でプロモートするのを助けてくれるし、ダンサーやミュージシャン、カラオケシンガーたちをうまく日本へ送り出すために働いてくれている。    「ところで」。ガラスドアの向こうの女二人に話を聞かれないように、とでもいうかのように、ジョセフは声を小さくした。「僕があの子たちに払っている給料は、平均すれば、月額一五〇〇ペソぐらいだ。USドルで言えば、七〇ドルにちょっと欠けるぐらいだな。これに対して、君たちカラオケシンガーは、ほとんど未経験の子でも、日本に行けば月に五〇〇ドルは稼ぐことができる。ヴィザの期限いっぱいに六か月働けば、総額は三〇〇〇ドルになる。ここで働く子が一年間働いて得る額の三・五倍という額だ。それに、カラオケシンガーたちはたいがいマニラでも働くから、両者の収入の差はもっと大きくなる。

  「そういうわけだから、カラオケシンガーたちにとっては、僕が雇っている子たちが得ている給料は魅力的なものではないかもしれない。だけど、トゥリーナ、あの子たちに働く機会を与えていることを僕は誇らしく思っているんだよ。特にいまは、これといった技術や資格のない者が仕事に就いたり仕事を保ちつづけたりするのがひどく難しいときだからね」

  「誇りに思われて当然だと思います」。ジョセフが話をどこへ導こうとしているのかが分からないまま、わたしは応えた。

          ※

  ジョセフは言った。「君について言えば、トゥリーナ、次に日本に行くときには月に六〇〇ドル以上の仕事に就けると思うよ。…変なのに慌てて飛びついたりしなければね。しかも、これには、客からもらうチップは含まれていない。その気になって働けば、君ならかなりの額のチップが稼げるよ。  「だけどね、トゥリーナ、あえて言うと、それだけ稼ぐためには、君は君の家族と、かわいい娘たちと、別れて暮らさなきゃならない。だろう?客とのあいだに、たまには雇い主とのあいだにさえ、おもしろくないことがいやというほどたくさんある中で…」

  「そうですね。でも、そんな辛さに耐えなきゃならない女はこのフィリピンにわたし一人というわけではありませんし、いまのわたしには、これまでのどんなときにもまして、そういうことに耐える心の準備もできています」

  「それはいいことだ、トゥリーナ。だけど、選べる道がほかにあるとしたらどうだろう」。ジョセフはわたしの顔を見据えていた。「つまり、このことを真剣に考えてみないかってことだけど…」

  「何がおっしゃりたいんですか」

  「それはだね…」。彼は一呼吸してからつづけた。「トゥリーナ、ずっとマニラにいる気はない?」

  「どういうことですか、それ?」

  「君がマニラにとどまっていれば、僕は君に毎月三〇〇〇ペソ払うよ。一か月一四〇ドル。一年で一七〇〇ドル。君が日本で稼ぎ出せるはずの額の半分ぐらいだけどね」

          ※

  「冗談はやめてくださいよ」。どうにか笑顔をつくりながら、わたしは応えた。「またですか?だめですよ。その〈僕の〔私的な〕セクレタリーにならないか〉って話はもうよしましょう」

  わたしは怯えていた。数年前におなじ部屋のおなじ椅子に座っていたときと同様に、ジョセフの申し出を冗談にしてしまわなければならなかった。申し出をじょうずに断らなければならなかった。

  ジョセフは引き下がらなかった。「三〇〇〇ペソはカラオケシンガーにとってはたいした金額じゃないかもしれないけれども、この国の平均的な勤労者にとっては悪くない額だよね」

  わたしはもう一度大きな笑みをつくり、いっそう冗談めかして言った。「妾になれという話なら、その百倍はいただかないと…」

  怯えが大きくなっていた。わたしはジョセフが前には具体的な金額を口にしなかったことを覚えていた。ジョセフの目が前よりずっと真剣なことに気づいていた。

  わたしはどう対応したらいいかが分からなかった。緊張感で身が震えだしそうだった。〈もし、わたしがいやだと言ったら、ジョセフはやはり、わたしの仕事探しをやめてしまうのだろうか〉〈ジョセフがわたしの返事に立腹してしまったら、わたしは日本に行くために、また、信頼できるプロダクションを見つけ出すことから、何もかも、やり直さなければならないんだろうか〉

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