第30話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜 

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三〇〉



  ありがたいことに、ジョセフはわたしのそんな不安をあっさりと打ち消してくれた。

  「いや、そうじゃないよ、トゥリーナ」。彼は苦笑した。「ここは仕事場。そんなふうに君を誘う気だったら、もっと気の利いた場所を選んでいたはずだよ、僕は。…そうじゃなくて、君には月曜日から金曜日まで、ここで働いてもらう。君にできることを何かやってもらうわけだ。そうだな…。トゥーリスト‐観光旅行者‐として初めて日本に行く女の子たちに、たとえば、ちゃんとした服の着こなし方などを教えるというのはどうだ?いや、これはなかなかいいアイディアみたいだぞ。だろう?」

  わたしはジョセフに向かって肩をすくめた。

  「言うまでもなく、その女の子たちは働くつもりで日本に行くんだよ。…たいがいは売春婦としてね。だけど、売春婦に特別ヴィザを発行する国なんて、日本を含めて、地球上にあるわけはないだろう?だから、日本に入国するためには、女の子たちはうまく本物のトゥーリストの振りをしなくちゃならない。

  「さあて、ここのところに彼女たちに共通する問題があるんだよね。この子たちはふつう、観光旅行者にはまるで見えないからね。観光旅行者として外国に行くには、少なくとも、ある程度はカネがあるように見える必要があるのにね。

  「無理もないけどね。だって、トゥーリスト・ヴィザで日本に行こうという女の子たちのほとんどは、いま言ったように、売春婦として働くことを目的にしているわけだから、たいていは貧しい田舎育ちで、彼女たちの家族も、当然、彼女たち自身も、ひどく貧しい。だから、ふつうは、外国に観光旅行できる人間たちとは親しくしたことがない。そういう人間たちとおなじように話し、振る舞おうと思っても、簡単にはそれができない。

  「そういうことだから、女の子の中には、日本の空港での入国審査の際に、審査官をだましそこなう者も出てくる。一、二週間の観光ができる程度の〔ショー・マネー〕を間に合わせに持たせてやっていても、入国を拒否される者が出てくる。そこで、君が彼女たちに、どんな服をどう着こなして、どう振る舞うか、それに、入国審査官の質問にどう答えるかなんかを教えるわけだ。…まあ、そんな仕事が毎日あるわけではないから、君にできることをほかにも見つけなければならないけれども、雑用はいくらでもあるからね。

  「とはいえ、それだけの給料を〔公式に〕君に払うことはできないんだよね。つまり、ほかの連中への配慮からね。…それに、正直に言うと、妻への配慮からもね」。ジョセフは笑みを見せた。「分かるだろう?だから、君の帳簿上の給料はやはり一 五〇〇ペソにしておいて、残りの一五〇〇ペソは僕のポケットマネーから払う…」

  「ちょっと待ってください」。わたしは言った。「なぜですか。なぜ、そんなことを…」

  「それは、つまりだね」。ジョセフはそこで言葉を切った。

          ※

  「トゥリーナ、君もよく知っているように…」。数秒後、ジョセフは話しだした。「僕は毎年、何百人ものフィリピン人を日本へ送り出している。もっと幸せな暮らしができるようになるチャンスを彼らに提供しているんだって信じながらね。だけど、この仕事を僕が満足しきってやっていると、トゥリーナ、君は思う?

  「ああ、あれは本当だよ。僕はときには売春婦だって扱うんだ。強制はしないよ。したことは一度もない。でも、頼まれれば、彼女たち、ほかのことではカネをほとんど稼ぎ出すことができない女の子たちのために、僕はそんな仕事もするんだ。…自分の国の女の子たちが体を売りに日本へ行くのなんか見たくないのにね。自分が手続きをしてやった女の子たちが間もなく日本の男たちに…。来る夜も来る夜も彼らの、性の欲望の餌食になるのだなんて、思うだけでも胸が悪くなるというのにね。

  「と、そこまで言ったから、あえて言わせてもらうと、トゥリーナ、僕は、君と君の娘がそのろくでなしの日本人―君のボーイフレンド―に見捨てられかかっていると聞いたとき、実は腹が立ってならなかったんだよ。気づいた?」

  「そんなふうには見えませんでした」

  「そうなら、それは僕の〔仕事上の顔〕」。ジョセフは唐突に笑顔を見せた。「僕には、いろんな機会に備えたいろんな顔があるんだよ。知らなかった?」

  わたしは首を振った。

  「だけど、トゥリーナ、僕はあのとき、何に腹を立てていたんだろう?」。ジョセフの顔から笑みが消えていた。「君のボーイフレンドに?それとも、愚かなフィリピン女―君―に?そうじゃなかったら、そんな君をただ見てなきゃならない僕自身に?」

          ※

  ジョセフは立ち上がった。スタジオの二人の女がその動きに気づいて、さっと姿勢を正したけれども、ジョセフにはまだ彼女たちと話す気はなかった。彼はルネタパークが下に見える窓の方にゆっくりと足を進めた。

  「僕は、ある意味ではね、やはり、君のことが好きなんだ。実際、君はどこかみょうに魅力的な女性だからね。だから、どうしても、君を…。どうしても、君が日本の男たちと無縁に暮らしてくれれば、と思ってしまう」

  わたしは黙って耳を傾けていた。

  「僕が君に毎月三〇〇〇ペソを払うと言ったのは、トゥリーナ、そういうことからだったんだ。君にはこの国で暮らしてほしいと思うからだなんだ。君のような女までがそんな日本人と関わり合っていることがおもしろくないからなんだ。

  「じゃあ、君が日本で稼ぐと思われる額の〔半分〕を払うと言ったのはなぜだったんだろうね?言ったときには深く考えてはいなかったけれども、それは、たぶん、君が経済的に背負っているはずの義務を、君の苦労を、ちょうど〔半分〕だけ受け持ちたいと思ったからだったという気がするよ。…三分の一でも四分の三でもなくてね。

  「トゥリーナ、その、日本のボーイフレンドと会うの、よさないか?そいつのこと、そいつとのあいだに起こったことは全部忘れてしまわないか?忘れてしまって、とりあえずは二人の娘たちといっしょに、この国で穏やかに暮らしていこうと心を決めないか?

  「あえて言うとね」。ジョセフの頬に自嘲の笑みが浮かんでいた。「僕たち、フィリピンの男たちは、君のような愛らしいフィリピンの女たちを、できる限り…。どう言えばいいんだろう?外国人の〔魔の手〕から守らなければならない…」。彼はそこで無理に笑顔をつくった。「まあ、そんなふうに、誇り高いフィリピン男、僕は思うわけだ、トゥリーナ」

          ※

  わたしは応えた。「わたし一人をすべての外国人から引き離しておくことはできても、それで、自分の誇りがいくらか保てても、日本で働きたいという女は、言うまでもなく、わたしだけではないんですよ。ほかの何千、いえ、何万という数の女たちはどうするんですか?」

  「そのとおりだ、トゥリーナ」。ジョセフは言った。「僕にできることなんか、現実にはほとんどないんだ。だけど、それが自己満足であれ何であれ、僕は、〔僕にできる限りのこと〕がしたいと思っている。女たちのために、というだけではなく、僕自身のためにね。僕自身の胸の中のフラストレーションを小さくするためにね。女たちを日本へ送り出しつづけている僕自身の…。

  「トゥリーナ、僕がこのオフィスで若い連中を〔できる限り〕多く雇おうとするのもおなじ理由からだよ。そして、君は、フィリピン男として僕が心底から〔守りたい〕と思うフィリピン女の一人だってわけだ。

  「僕はこれまでに、何千人ものフィリピンの女たちをいろんな形の〔エンターテイナー〕として日本に送り出してきた。彼女たちは全体として、すごい額のドルや円をこの国に持ち帰ってきているよね。彼女たちの大半はそれを幸せに思っているだろうし、いつも外貨不足に悩んでいる国もそれでかなり潤っているはずだ。…そのことを僕は喜んでいるだろうか。ああ、もちろん。すごく喜んでいるよ。だけど、それは一方で、結局は、僕たち―フィリピン国民―には、彼女たちを国内に留めておく力がない、ということだろう?国内に十分な経済活動があれば、女たちの多くはいまみたいな形で日本の男たちをもてなさなくてもいいわけだろう?国民一人ひとりの暮らし向きがいまほど悪くなければ、妻や妹たちをいまのような形で日本へ送り出さなくてもすむわけだろう?疑問の余地はないよ、トゥリーナ。君だってこんなことにはなっていなかったはずだよ。

  「君のハズバンドのことなんか、僕は何も知らないし、これは間違っているかもしれないけど、強いて言うと、君のハズバンドも、もしかしたら、かわいい妻がそんなふうに日本で稼いだカネを受け取るのを嬉しいとだけは思えない、潔しとしない、そんなフィリピン男の一人だったかもしれないよ」

          ※

  わたしはショックを受けていた。〈わたしが日本から送ったお金を使ってセサールがマニラで女たちと遊び回ったのは、守りたくてもわたしを守ることができない、わたしを守るだけの経済力がない、という現実に対するフラストレーションのせいだった?〉〈挙げ句の果てにエミルデと同棲するようになったのは、経済的な意味では、彼女は初めからセサールが〔守ってやる〕必要のない、彼にそんな形のフラストレーションを抱かせない女だったから?〉

  受けたショックを押し殺して、わたしはジョセフに言った。「でも、夫のことを言えば、それは見当違いだと思います。世の中には、そんな崇高な考えが抱ける人もいれば、抱けない人もいるんじゃないでしょうか」

  「そう?」。ジョセフはそれだけしか言わなかった。

          ※

  ジョセフはデスクの向こう側に戻った。「さあて、そこで、さっきの僕の提案についてだ<けど…」

  「気にかけていただいてありがたいと思っています。でも、その話は断らせてください」。できるだけ柔和にわたしは言った。「東京で仕事を見つけてくださいとお願いしながら、そのことではすっかりあなたを頼りにしているくせに、生意気なことを言うようですが、自分が選んで進んだ道で自分がぶつかった障害ですから、自分が納得できるようなやり方で乗り越えたいと思います」

  「そんなふうに応えるだろうと思っていたよ。だけどね…」

  「あなたは」。冗談めかせてわたしは言った。「十九世紀に生まれていらっしゃったら、スペイン人に抑圧されていたこの国の人たちを助けて、ドクター・ホセ・リサールと並ぶほどの英雄になられていたことでしょう」

  「とんでもない。僕はそんなに強い人間じゃないよ」。ジョセフは真顔で言った。「それどころか、スペイン人の言いなりになって、残酷にも、彼らに逆らう多くのフィリピン人を彼らに売り渡していたかもしれないよ。芯のところでは、なかなか計算高い人間だからね、僕は」

  「そうは思いません」

  「僕はいろんな顔を持っているって言っただろう?」。ジョセフは笑顔をつくった。「とにかく、僕はさっきの提案を撤回しないから、君の方で考えが変わったら、いつでもそう言ってきてくれ」

  返事のつもりで、わたしは地図の上に視線を下ろした。

  「心配しなくていいよ、トゥリーナ」。ジョセフは言った。「君のためにいい仕事を探しつづけるから。…もう少し辛抱しているんだな」

  わたしはうなずいた。

  「じゃあ、それまで元気で」

  わたしは立ちあがった。ずいぶん長く話したのに、オフィスにやって来たときと変わらず、わたしの手の中は空っぽのままだった。

          ※

  「ジョセフ!」。ガラスのドアを押し開いたジョセフに向かって、スタジオにいた女の内の一人が大声で言った。「お願い。もう一度、いまここで、オーディションを受けさせてちょうだい。わたし、歌をたくさん、たっぷり練習してきたんだから。ほんとよ。いまじゃ、うんとじょうずになっているんだから」

  手を宙で横に振りながら、ジョセフは応えた。「次の定期オーディション日にまた来るんだな、ロレイン。日本の僕の客に満足してもらうためには、君はもっと練習が必要だよ」

  彼の声が驚くほど悲しげだったことにロレインという名の女は気づいていないようだった。

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