第31話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三一〉



   外はにわか雨だった。

   ロハス・ブルヴァード沿いの〔フィリピンで一番人気の高いレストラン〕[アリストクラット]にわたしはいた。通りに面した開放窓の近くの、正方形のテーブルの、わたしの向かい側の席にはメルバ、左側の席には高野さんがついていた。

  わたしたちは、メルバがカラオケシンガーになった日から数えて三か月目の〔記念日〕―メルバへの高野さんの言葉では〔人生初めての仕事にどうやら無事に適応したらしい君を改めて励ます会〕―を祝っているのだった。

  テーブルの―日本へ行っていなかったらリサが座っていたはずの―無人の席の前にはシニガング(酸味の効いたスープ)の大きな器が置いてあった。中央の楕円形の大皿には、甘酢ソースがかけられたラプラプ(全長四〇〜五〇センチメートルほどの魚)のフライがのっていた。パンシット・ビーフン(海老や野菜などと合わせて炒められたヌードル)は半分ほどがすでに高野さんの手で三つの小皿に分けられ、それぞれ三人の前に置かれていた。

          ※

  高野さんはすごく幸せそうだった。あの人はそれまで、メルバともわたしとも[さくら]の外でいっしょに食事したことがなかっただけではなく、店のユニフォームを身につけていないわたしたちの姿を見るのも初めてだった。だから、あの人の目にはわたしたちのすべてが新鮮で好ましいいものに写っているのかもしれなかった。

  わたしは軽い化粧で、ベージュのバーミューダショーツをはき、スカイブルーのブラウスを着ていた。

  メルバは胸のところに黒で[NIKE]とプリントされた黄色のTシャツとブルージーンズを身につけていた。化粧をしていない彼女の顔は年齢相応のみずみずしい若さで輝いていた。そのことがわたしにはとても嬉しく思えていた。

          ※

  食事中の会話の方向を決めたのはやはりメルバだった。

  メルバはスープの最初の一杯を飲み終えようとしていた。「ミスター高野」。スプーンを口の辺りに中途半端にとどめた状態でメルバは不意に語りかけた。

  高野さんは〔ミスター〕つきではなく〔高野さん〕と日本語ふうに呼ばれた方が耳に楽だと何度もメルバに伝えていたのだけれども、彼女は自分の習慣をまだ捨てていなかった。

  「何?」。高野さんはほほ笑みながらメルバを見つめた。

  「ミスター高野」。メルバは一呼吸してからつづけた。「もう一度結婚する気はないんですか」

  「何かと思えば…」。そんな質問に答える心の準備ができていなかったらしい高野さんはほとんどたじろいでいるようにさえ見えた。「そうだね、僕は…」

          ※

  メルバのその質問には、高野さんよりもわたしの方が大きく当惑させられていたかもしれなかった。わたしはさっとメルバに視線をやった。〈その話題は避けて〉と目で伝えるつもりだった。

  メルバはわたしの視線に気づいた。けれども、どうとも受け取れるあいまいな笑みを返してきただけだった。

  高野さんはゆっくりと答え始めた。「これまでにも、何人もの[さくら]の女の子たちにおなじ質問をされたけれども、メルバ、僕の答えはいつも〔分からない〕だったよ。〔しない〕と決めているわけではないし、一方で、〔したい〕と思っているわけでもない…。だけど、メルバ、いままでそんなことはたずねてこなかった君が急に…。なぜ?」

  「アノエ(それは…)」。メルバはためらった。

  わたしは息をとめ、フォークをパンシット・ビーフンの皿の上に置いた。〈メルバはとうとう、わたしをガールフレンドにしたらどうだとでも高野さんに薦めるつもりなのだろうか〉。そんなふうに怯えながら。

          ※

  リサが日本へ去ってしまったあとの[さくら]には、マネジャーのマヌエルを別にすれば、わたしの私的な暮らしのことを詳しく知っている者はいなかった。セサールとのあいだのどうしようもない諍いや、克久との関係のよじれ、ましてや、それぞれの父親と別れて暮らさなければならなくなってしまった二人の娘のことなど、だれにも知られてはいないはずだった。

  ほかの女たちにとって、そんなふうな、自分のことを話そうとしないわたしは打ち解けにくい女だったかもしれない。実際、何人かの女たちはそんなわたしの態度を―〔気取り〕と見てか―好ましくは思っていなかったと思う。そのことにわたしは気づいていた。気づいて、ときどき心を傷めていた。

  けれども、わたしが抱えている問題は、自ら進んで他人に明かすには、やはり、恥ずかしすぎるものだった。それに、現実的なことをいえば、明かしたところで、わたしの問題をわたしに代わってちゃんと解決できる者など、この世にいるわけはなかった。

          ※

  メルバも例外ではなかった。わたしについて彼女が知っていることは、年齢や出身地、日本での仕事を含めた大雑把な職歴などに限られているはずだった。それ以上のことをわたしが自ら進んで彼女に話したことはなかったし、彼女がわたしに直接たずねてきたこともなかったのだから。

  だから、わたしが既婚者であること、わたしにはすでに娘が二人いることを知らないメルバが、わたしをたとえば、とりあえずガールフレンドとして、高野さんに薦めるのではないか、と怖れる理由がわたしにはあった。   あるいは、そうではなくて…。メルバは実は、わたしのプライヴァシーのことなど、ほとんどを、何かの機会に、たとえば、リサかマヌエルから、とうに聞き出していたのに、そういうことには特に気をとめていないのかもしれなかった。なぜといって、彼女は、一方で、法律では認められない結婚なのに、彼女の実母と継父が何年間も幸せに暮らしてきたことをよく知っていたのだから。

  わたしは息を飲んで、メルバの顔をじっと見つめていた。

          ※

  「なぜ〔いま〕か、ですか」。メルバはちょっとのあいだ思案していた。「それはきっと、こんな機会をつくっていただいたおかげで、わたし、[さくら]にいるときよりもうんと〈わたしはミスター高野の友だちなんだ〉って感じているからだと思います。だって、まだ本当の友だちになっていないのに、そんなふうな、立ち入った質問をしちゃいけないでしょう?」

  「君は、メルバ、いつだって僕の一番の友だちだよ。[さくら]でだって、どこでだって」

  「ありがとうございます」。はにかみの笑みがメルバの顔に浮かんだ。「でも、わたし、自分の好奇心を満足させるためにだれかのプライヴァシーをあれこれ詮索するような女になりたくはありませんでしたから。そんなふうに見られたくはありませんでしたから。…ソレ ハズカシイ デショ?」

  「〔ハズカシイ〕?」

  高野さんがそうメルバにたずね返すのを聞きながら、わたしは〈なるほど、それで…〉と得心していた。わたしの私的な生活について彼女がそれまであまりあれこれたずねてこなかった理由の一部も、そのハズカシイという言葉で分かった、という気がしていたのだ。

  「ええ」。メルバは高野さんに答えた。「そういうのって、本当の友だちどうしでなかったら、ちょっと出すぎたことだし、何だか品のないことのように思われましたから」

  「ほう」。高野さんは驚きの声を上げた。「君は実にすばらしい子だよ、メルバ。君は、疑いなく、常に何にもまして、まず自分の尊厳を保とうとする典型的なフィリピン人の一人だよ」

  「わたし、そうなんですか」。高野さんのほめ言葉をどう受けとめたらいいかの見当がつかないまま、メルバは応えた。

  「僕がこれまでに経験してきたところから言えばね、メルバ、この国の人たちは本当に頻繁に〈恥ずかしい〉という言葉を口にするんだよね。ハジ。…恥辱だとか不面目だとかいう意味なんだけどね、そのハジを土台にしたサムライ文化をいまも引き継いでいるとされる日本人たちよりも、はるかに頻繁にね。

  「ああ、メルバ。僕の目には、この国の人たちは、全体として、何が何でもまずは面目を保とうとする人たちだと見えるよ。不名誉なことになるのを怖がっている人たちのようにね。…いまの日本人の何倍もね」

  「あ、大変だ」。メルバは言った。「自分のこと、自分の国の人間たちのことが分かるためにはわたし、世界の、ほかの国々の人たちのことをもっともっと知らなければいけませんね、ミスター高野」

  「そうだね」。メルバの反応に高野さんはすっかり満足しているようだった。「それにしても、君は、メルバ、本当に賢い子だよ」

  メルバの頬に大きな笑みが浮かんでいた。…わたしがそれまでに見ていたどんな笑みよりも幸せそうな笑みだった。

  なのに、そのほんの一瞬あとの高野さんの表情はひどく曇っていた。あの人はつぶやいた。「少なくともその〔ほかの国々〕の一つを、メルバ、君は間もなく、直接、君自身の目で見ることになるんだけどね…」

  カラオケシンガーとして日本で働くメルバの姿を想像して、あの人が急に気を沈めたことは明らかだった。

          ※

  わたしはほかのことを考えていた。〈高野さんの考えどおりに〔尊厳〕などといった徳に恥じることなく生きていけるフィリピン人が―メルバのほかに―はたしてどれぐらい残っているだろうか。国中のいたるところで政治の腐敗に直面させられ、経済的な困難に深く身を捉えられている大半のフィリピン人にとって、時代はとうに、そんな価値観を抱いて生きていける状況ではなくなっているのではないだろうか〉

          ※

  「話を元に戻すと、メルバ」。高野さんの表情の曇りはもう消えていた。「君は僕の親友だから、僕は、ただ〈分からない〉だけじゃなく、もうちょっとましな答えをするべきなんだけど…。それにしても、僕が再婚のことを考え始めるのは少し早すぎると思わない?君も知っているように、僕が離婚したのはほんの数か月前のことなんだよ」

  「〔早すぎる〕なんてことはないと思います」。メルバは高野さんを見据えながら答えた。「ふさわしい女性に出会えば、いくら早くてもかまわないはずです」

  ほとんど息を殺して、わたしは二人の会話に耳を傾けていた。

  「そう思う?」。高野さんもメルバの目を見つめた。

  メルバは、視線をちらりとわたしに向けてから、高野さんに言った。「もう二度と結婚しない、と心を決めているんじゃなかったら、心を開いていた方がいいと思います」

  「分かったよ、メルバ。君の助言はちゃんと頭に入れておくよ」

  「そうしてください。…それで、もう一つ質問していいでしょうか」

  「もちろん。…どうぞ」。高野さんは無邪気な表情をつくり、両腕を大きく広げて見せた。

           ※

  ありがたかったことに、高野さんへのメルバの次の質問はわたしが危惧していた類のものとは違っていた。…わたしの当惑に気づいて、彼女は話題を変えたのかもしれなかった。

  「なぜ…」。メルバはちょっとためらった。「なぜ、ミスター高野、奥さんの由実さんに〔カリフォルニアには二人で行って、向こうでいっしょに楽しく暮らそう〕って、ちゃんと言わなかったんですか。わたしにはやはり、夫婦が長く、遠く別れて暮らしていれば、遅かれ早かれ、何か大きなトラブルに出遭うことになるのは避けられない、と思えるんですけど。…実際、最後には離婚してしまうことになったわけでしょう?」

  メルバは、わたしが前に[ピスタング・ピリピーノ]のショー・レストランで彼女に告げたことを思い出して、高野さんにそう言ったのかもしれなかった。経済的な意味ではほとんど家族の役に立たない状態にありながらなおも、ちゃんとした仕事のない故郷の町にしがみついている継父に不満を抱いていた彼女をなだめるつもりで、わたしは彼女に〔夫と妻は、できることなら、いつだっていっしょに暮らしている方がいい〕と言っていたのだった。

  「由実さんは、ミスター高野が愛したというカリフォルニアでの暮らしが好きじゃなかったのですか。それともほかに何か…」

  〔ふさわしい女性〕のことはもう、メルバの頭から消え去っているようだった。

  話題が変わったことで、わたしはほっとしていた。ほっとしながら、一方で、胸の中に小さな空白ができたような気がしていた。…そんなふうに感じている自分が恥ずかしかった。

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