第32話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三二〉



  わたしがそんなふうに恥ずかしがっていることには、当然、メルバも高野さんも気づいていなかった。

  高野さんはメルバに答えた。「働いていた貿易会社、[明和商事]の上司からロサンジェルス・オフィス…。[明和]の米国法人をそう呼んでいたんだけど、そのロサンジェルス・オフィスに転勤するよう僕が命じられたとき、由実さんには、南カリフォルニアでの暮らしを自分が好きになるかどうかなんて、見当もつかなかったはずだよ。だって、彼女はあの辺りのことはあんまり、つまりは、旅行会社が宣伝パンフレットで説明しているものとたいして変わらない程度にしか、知らなかったからね。いい意味でも悪い意味でも、ロサンジェルスに対して彼女はこれといった意見や感情を抱いてはいなかったと思うよ。…ニューヨーク市とは違ってね。

  「そうだな。僕がロサンジェルスじゃなくて、ニューヨークに行くよう命じられていたら、由実さんは、僕といっしょに行っていたかもしれないな。というのも、メルバ、ニューヨークというのは彼女にとって、地球上のどんな都市にもまして重要なところだったからね。ほんの小さな一角だったにしろ、彼女自身が所属していた広告ビジネスの、世界の中心地としてね。

  「由実さんは、広告に関するニューヨークっ子の創造力の豊かさをすごく崇拝していて、そんなふうな創造力は〔世界で一番活動的な都市〕ニューヨークでしか育たないと信じていたんだ。そんな積極的な雰囲気の中で〔自分を教育し、刺激するために〕といって、実際に、それまでに三度あそこを訪ねていたんだよ。

  「だから、もし僕の転勤先がニューヨークだったのなら、彼女は、そこでどんなふうに暮らしていけばいいかについて、たちまち現実的な考えに辿り着いていたかもしれない。…たとえば、まずは英語学校に通って英語力を研いて、次には、広告ビジネスへの理解を深めるためにカレッジで勉強する、といった具合にね。そういうのって、彼女がその後の人生でキャリアを積んでいくのにすごく役に立っていただろうからね」

          ※

  「だけど、僕らの現実はそんなふうにはいかなかった」。高野さんはつづけた。「僕の転勤先がロサンジェルスだと分かってから、由実さんは初めてあの都市のことを、自分もそこに行くべきかどうかを、真剣に考えてみた。考えてみたけれども、このアメリカ西海岸の都市は、ニューヨーク市とは違って、彼女の言葉を使って言うと、〔何か普遍的なものを、日本を含めて世界全体に向けて送り出す場所〕には見えてこなかった。もちろん彼女にだって、〔ローラースケート文化〕というか〔サーフィン文化〕というか、呼び方はどうであれ、南カリフォルニアの文化が日本や世界の若者たちの一部を引きつけていることは分かっていたんだよ。…でも、そんな文化は彼女には〔亜流の文化〕としか見えなかった。ロサンジェルスが生み出していた文化は、彼女が重要だと考えていた〔主流の文化〕ではなかった。つまり、彼女にとってロサンジェルスは〔どうしても暮らしを体験しておきたい〕場所には見えなかったんだ。

  「彼女には、メルバ、東京に、彼女が気に入っていた、いい仕事があったからね。僕に同行するということは、その仕事を、少なくとも数年間は、離れるということだったからね。で、彼女は結局、日本に残ることにした。彼女のその決断に僕も異存はなかった」

  メルバは高野さんの説明に満足していなかった。「どんな理由があったにしろ、由実さんはミスター高野の奥さんだったんですよ。自分の仕事を捨ててでも、ミスター高野についてロサンジェルスにだってどこにだって行くべきだったんじゃないでしょうか。ミスター高野のためにというだけじゃなく、由実さん自身のためにも?由実さん自身が幸せに暮らしていくためにも?どんな良い仕事に就いていたにしても?」

          ※

  メルバの―あまり彼女らしくない―執拗な質問には、たぶん、高野さんよりはわたしの方が驚かせられていた。

  彼女は、由実さんのことではなく、自分の母親のことを話しているのに違いなかった。そうではなかったにしても、彼女が由実さんの決意を、夫の強い反対を押し切ってでも教師としての仕事を持ちつづけようとした自分の母親の決意と比べているのは明らかだった。…わたしにはそう思えていた。

  それどころか、メルバは、どうしても教師でいたかった母親の執着をそんな形で否定的に批判しているのかもしれなかった。法律上の夫との比較的に恵まれていた暮らしを捨ててボーイフレンドとの同棲生活に走る原因、つまりは、メルバがカラオケホステスとして働かなければならなくなる原因となった、母親の仕事への執着を、彼女は咎めているのかもしれなかった。

          ※

  いや、メルバはまだ、母親の決断にそこまではっきりと批判的になってはいなかったのかもしれなかった。けれども、母親のそんな決断を彼女が何か望ましくないものだったように見なし始めていた可能性はあった。あるいは逆に、そう見なしがちになる自分と闘うために、彼女は高野さんから〔夫婦の日々のつながりよりも仕事の方が大事な場合もあるのだ〕というような言葉を引き出そうとしているのだ、と考えることもできた。高野さんのそんな言葉に弾みをつけてもらって、母親の決断を受け入れ、母親のそんな価値観を支えるためにだったら、カラオケホステスとしてだって生きる意味があるのだ、と自分を説き伏せるために。

          ※

  「そうだね、メルバ」。高野さんは答え始めた。「日本ではいま、重要な仕事をしている女性が増えていて、職場で抜きん出た地位に就いている人も少なくないみたいだよ。そういう女性たちにとっては…」

  「そういう地位って」。メルバは高野さんの言葉を遮って言った。「本当に自分の夫よりも大事なものなんですか」

  高野さんの答えはメルバが聞きたいと思っていたかもしれないものほどには明確ではなかった。「答えるのが難しい質問だね、それは。…逆の場合はどうだろう、メルバ?たとえば、妻の方が給料のいい仕事に就いていて、ある日、遠い場所への転勤を命じられる。夫は自分の仕事を捨てて妻についていくべきだと思う?夫婦の絆を密接に保つために?」

  「分かりません」。メルバは首を傾げた。「そういう状況は、この国ではあまりないようだし、わたし、考えたことがありませんでしたから」

  「仕事か連れ合いか?そのどちらを選ぶか?」。高野さんは首を振った。「難しいよ、メルバ、もし、そんな質問が成り立つとすればね。

  「〔もし〕というのは、あのときの僕は、その二つをそんなふうに比較するのは間違っている、仕事を妻や夫と対立させて考えるべきじゃない、と感じていたということなんだけどね」

  手はときどき料理を口に運んでいたものの、高野さんは味を楽しんでいる様子ではなかった。

  その手からフォークを離し、高野さんはシャツの胸ポケットからフィリピン製の[マールボロ]を取り出した。

  テーブルの上に置いてあった高野さんのライターに、メルバが反射的に腕を伸ばした。

  「いいんだよ、メルバ」。高野さんは笑みを浮かべ、彼女の動きを手振りで制しながら言った。「ほら、ここは[さくら]じゃないんだから。さっき君が言ったように、ここでは、僕は君の友人で、客ではないんだから」

  「そうでしたね」。メルバは首をすくめた。その瞬間の彼女はすごく幸せそうだった。

          ※

  二、三度煙を吹かせてから、高野さんは元の話題に戻った。「前任者たちの平均的な勤務期間から考えると、僕のロサンジェルス滞在は四年間ほどになるはずだった。…ところで、メルバ、僕たちはこの世で何年生きるんだろう。あのとき、僕はまだ三十一歳で、由実さんは二十八歳にしかなっていなかった。そんな僕たちには、四年間という歳月はあまり長いものではないんじゃないか、と思えていたよ。…そんなふうに思ってもいい歳月に見えていたよ。

  「由実さんは東京の、ある大手広告代理店で働いていた。そして、その〔大手〕というのが彼女にとっては重要なことだった。なぜといって…。それは、〔より大きなプロジェクトに参加できるより大きな可能性〕を意味していたからね。たとえば、名を知られた化粧品会社が季節ごとに行なうセールス・キャンペインのようなね。彼女は常に、そんな仕事をしたいと望んでいたんだ。そういう仕事をしていくことが彼女の夢だったんだ。

  「いや、本当のことを言えば、由実さんはまだ若かったし、重要な地位にもまだ就いてはいなかったんだよ。だけど、彼女の将来はうんと開けて見えていた。実際、彼女は印刷メディアを対象にした広告の企画者として才能があるとたくさんの仕事仲間に認められてもいたんだ。…さあて、メルバ、そんな状況の下で、もし四年間仕事を離れたら、どういうことになるだろう?」

  「おなじポジションに戻れない?」

  「そうだね」。高野さんは答えた。「いまの日本には、一度やめた人間の復帰を認める大手の企業はほとんどないだろうからね。そして、そのことは由実さんの悩みの種でもあった。だけど、メルバ、本当の問題はちょっと別なところにあったんだ。広告の世界ではね、そこをいったん数年間去って、しかも、外国でもっぱら主婦として過ごしてしまったりすれば、たとえおなじ世界に戻ることができたとしても、前に持っていた知識や技術、センスなどがみんな役に立たなくなっている、すっかり時代遅れになっているんだそうだ。

  「日本という国は、メルバ、何事によらず、すごく競争が激しい国だと思うけど、広告の世界ときたら、僕の目には、新しい、鋭い、大胆なアイディアを絶えず出し合い、すさまじい熱心さで仕事に打ち込むことで、人々はまるで、互いに相手の息の根をとめ合おうとしているかのように見えていたよ。

  「幸運なことに、と言っていいと思うけど、由実さんは〔自分には広告の世界で生き残っていく能力がある〕〔生き残っていい仕事をする自信がある〕と感じていた。彼女の周囲の人間たちも彼女を同様に見ていた。僕もそうだった」

          ※

  「僕のロサンジェルスへの転勤が決まった瞬間は」。高野さんはつづけた。「由実さんが彼女の〔人生最大の問題〕に直面させられてしまった瞬間でもあった。〔これからどう生きていくべきか〕というね。〔自分の夢を追いつづけるかどうか〕というね」

  わたしはメルバにさっと視線をやった。…彼女自身の〔夢〕、彼女の母親の〔夢〕、継父の〔夢〕、そしていま由実さんの〔夢〕。

  メルバは一心に耳を傾けていた。…高野さんが使った〔夢〕という言葉を彼女がどんな思いで聞いたかまでは、彼女の表情からは分からなかった。  「さっき言ったように」。高野さんは言った。「慣例に従うと、僕は四年間ほどロサンジェルスで働くことになるはずだった。その〔四年間〕と〔彼女の夢、全人生〕…。数週間悩み考えつづけたあと、結局、彼女は〔仕事をつづけるべきだ〕という結論に辿り着いた。その結論に僕も賛成した。

  「僕たちはそれを〔短い四年間〕だと受け取ることにしたんだ。何十年にも及ぶはずの人生から見れば、四年間は決して長くはない、とね。…そのあいだ夫婦が別に暮らすことになるのがいやだからといって彼女のその後のキャリアを捨て去るのは、やはり、賢いことではなさそうだ、とね」

  高野さんの話はわたしにはずいぶん遠い世界の物語のように聞こえていた。…財政的な必要もないのに捨てることを躊躇しなければならないようなキャリアはわたしにはなかったし、わたしとセサールの結婚生活はほんの半年間の別居ですっかり破壊されてしまっていたのだから。

  「いや、もちろん、メルバ」。あの人は言った。「僕たちはできるだけ頻繁に会うことにしていたんだよ。僕は、少なくとも年に一回は休暇を取り、東京で由実さんといっしょに過ごすことにしていたし、彼女も同様に、最低でも一年に一度はロサンジェルスにいる僕を訪ねることにしていたんだよ。…それで何の問題もなさそうだった。先で大きな問題が起きるかもしれないなんて、僕たちはまったく考えていなかった。…少なくとも、表面上はね」

  高野さんは不意にレストランの開放窓の外へ目をやった。

  ロハス・ブルヴァードの向こう側には、激しく降る雨の下で暗い灰色に表情を変えたマニラ湾が横たわっていた。

          ※

  「ミスター高野夫婦の決断、考えはどこか」。メルバがわたしに向かって言った。「異常、というか、不自然だって、そう思いませんか」

  「〔不自然〕?」。わたしはそうたずね返した。…わたしが感じた〔遠い世界〕のことを彼女はそう表現したのだろうかと思いながら。

  メルバに答えたのは高野さんだった。「君にはやはり、たちまちそれが感じ取れるんだね、メルバ」。数度うなずきながらあの人は言った。「僕たちはそうじゃなかった。あのときの僕たち夫婦は、むしろ、なかなか知的な、賢い、あえてつけ足せば、ファッショナブルな、そんな結論を出したと思い込んでいたぐらいだった。そう思い込もうとしていた。たぶん、二人とも、胸の中のどこかでは、そういう態度は自分たち自身にたいして不正直なんじゃないかと感じながらね」

  わたしが初めて日本で働けるチャンスが現実になりかけていたころ、わたしとセサールも真剣に話し合ったことがあった。…夫婦が〔六か月間も〕別れて暮らさなければならなくなるということについて。でもわたしたちは、自分たちの淋しさなどといった、どちらかといえば、素朴な―子供じみていたかもしれない―感情を扱いかねていただけだった。自分たちに対して〔不正直〕になったり、〔ファッショナブルな結論〕を出したりする理由は、わたしたちにはなかったのだった。…そんな子供じみたところが、あとになって、〔淋しさのせいで女たちと遊んでしまったのだ〕という言い訳をセサールに思いつかせる原因にもなってしまったのだろうけれど。

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