第33話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三三〉



  メルバはコークが入ったグラスをテーブルの上に置いてから言った。「わたしにはまだ、由実さんのキャリアがミスター高野にとってなぜそんなに大事だったかが分かりません。本当に夫婦の生活を犠牲にしてまで守らなければならなかったほど大事だったんですか」

  わたしは、メルバはやはり高野さんから〈そうだ〉という明確な答えを聞きたがっているのだ、と感じていた。…由実さんがキャリアを求めたことが原因となって二人が離婚することになってしまったのだとしても、それだけの犠牲を払う価値が由実さんのキャリアにはあったのだ、だから、高野さんは別に、割に合わない交換をさせられたかのように感じているわけではないのだ、とメルバは思いたがっているのだ、と。

  そう思うことで彼女は、教師という好きな仕事に執着したために、安定した、平和だった暮らしを失ってしまった自分の母親も別に、愚かしい取り引きをしたというわけではないのだ、と信じ込めるはずだった。自分が味わっている苦労には、高野さんの苦しみがそうであるように、味わうだけの価値があるのだ、と自分に言い聞かせることができるはずだった。母親の仕事は自分にとっても〔それほど大事だった〕ということがはっきりすれば、メルバ自身の苦労にも何か意味が出てくるはずだった。

  けれども、高野さんの答えはここでもメルバを満足させるものではなかった。

  「離婚してまで、というだけの値打ちがあったかどうか?僕にはまだよく分からないよ、メルバ。ただ、あのときの僕たち夫婦にとって、由実さんのキャリアは、〔僕が〕ロサンジェルスへの転勤を拒んで東京で暮らすべきかどうかを二人で真剣に話し合ったほどには〔大事〕だった。転勤を拒めば、僕は、いずれ居心地が悪くなって[明和]をやめなきゃならなくなるかもしれない、と感じながら、それでも話し合ったほど、ね。だって、メルバ、ほかの国々でもそうだと思うけど、日本でも企業は命令に従わない社員にあまり優しくないようだからね」

  メルバは少し首を傾げただけで、何も言わなかった。

          ※

  「由実さんに、というより、二人のどちらにも、公平であるように、メルバ」。高野さんはつづけた。「僕たちはどんなことでもきちんと話し合ったんだ。いいことにしろ、悪いことにしろ、男と女は何でも平等に分かち合うべきだ、と信じていたからね。…話し合ったあと、僕は、結局は、会社の命令を拒否しない方が二人の将来のためにはいい、という結論に行き着いたわけだ。

  「僕は、由実さんが自分の将来を考えたのとほとんどおなじような道筋を通って自分の将来を考えたよ。自分は会社内では一番勤勉な社員の一人だった。いや、あるいは、そこまでではなかったかもしれないけれども、少なくとも、電子機器や機械などの工業製品を扱っている、僕が所属していた課の中ではそうだった。それに、アメリカという世界最大の市場への表玄関となっているロサンジェルスへ派遣される社員の候補者たちの中では僕が一番若いという噂もあった。そんな中で僕が選ばれた。…僕の将来も、メルバ、それほど悪くないものに見えていたんだ。むしろ、有望にさえね。

  「由実さんには、ロサンジェルスへの転勤命令を受けるかどうかを決めるのは僕だということがよく分かっていたし、僕の方も、東京で仕事をつづけるかどうかを決めなきゃならないのは彼女だということが分かっていた。つまり、互いに相手の決断を尊重しようと考えていたわけだ。で、僕はロサンジェルスに行くことにし、彼女は東京にとどまる方を選んだ。僕が由実さんに、いっしょに来てくれとは頼まなかったように、彼女も僕に、東京にいてくれとは言わなかった。〔できるだけ多く会うようにして、それぞれ自分の仕事をしつづけよう。四年間なんてすぐに過ぎる〕。…とにかく、メルバ、あのときの僕たちはそんなふうに決然としていたわけだ。

  「そんな決断のせいで、僕たち夫婦が大きな問題に直面することになるかもしれないなんて想像もしていなかったよ。まして、離婚することになろうなんて」

          ※

  高野さんはつづけた。「〈もし〉と離婚後、僕は何度も自分に問いかけてみたよ。〈もし、僕が[明和]をやめて東京にとどまっていたら、僕たちはどうなっていただろうか〉って。だけど、ちゃんとした答えには一度も辿り着いたことがなかった。…とどまっていたら、由実さんは、自分の仕事はつづけられるし、僕はそばにいるしで、幸せでいられたかもしれない。僕も、ほら、さっき言ったように、メルバ、遅かれ早かれ、[明和]をやめることになったかもしれないけれど、そのあと、東京で、それまでよりもうんと質の高い仕事ができる、うんとましな地位に就くことができる、そんな職を見つけて、前よりも満ち足りた人生を送っていたかもしれない。…そんな可能性もまったくないわけではなかった。

  「だけど、メルバ、現実には、日本の大きな企業はまだ、前にどこかの会社をやめた経歴のある人間を雇いたがらない。だから、僕は、もしかしたら、満足できる仕事が東京のどこにも見つからずに、すっかり気落ちして暮らすことになっていたかもしれない。そうなる可能性の方が高かったかな。…そんなことになっても、僕たち夫婦は、僕は、幸せでいられただろうか。

  「結局、メルバ、離婚後の僕は、転勤前に考えていたところから一歩も前に進んではいなかったよ。転勤前に〔僕が東京にとどまった方が僕たちは幸せになれる〕と思えなかったのとなじように、〔僕が東京にとどまっておけば僕たちはもっと幸せでいられたのに〕というふうにも思えなかったんだ」

  メルバが悲しげな目つきで、わたしを見やった。

  「もう一方のケースはどうだろう、メルバ」。高野さんは言った。「もし、由実さんが仕事を捨てて僕といっしょに南カリフォルニアに行っていたら、僕たちはどうなっていただろう?」

  メルバは高野さんの次の言葉を待った。

  「僕たちは、当然、そのことについても話し合っていたんだよ。…彼女は、法律上、アメリカでは仕事に就けなかった。英語の勉強は、やろうと思えば、できただろうけど、ほら、メルバ、彼女はニューヨーク以外の場所で広告の勉強がちゃんとできるとは考えていなかった。だから、英語を学んでも、そのあとの行き場がなかった。だから、彼女はほかに選択のしようがなくて、スポーツや文化・コミュニティー活動などの中から、とにかく興味が抱ける何かを見つけ出し、それで日々を過ごさなければならなくなっていたはずだ。

  「初めのうちは、彼女もそんな、目新しい暮らしを楽しんでいたかもしれない。だけど、彼女は、僕がやはりそうだったように、自分の専門分野では自分は有能なんだと感じていたい、というタイプの人間だった。そういう彼女が南カリフォルニアで、日本で持っていた仕事よりも興味深い何かを見つけ出していただろうか。広告という仕事への彼女の愛着に取って代わるものがあそこにあっただろうか。…分からないよ。でも、なかったとしたら、彼女は、僕たちは、どうなっていただろう。幸せでいられただろうか。

  「ここでも、やはり、僕は〔彼女がロサンジェルスに来ておけば僕たちはもっと幸せでいられたのに〕とは思えなかったよ。つまり、どちらの〔もし〕からも、肯定的な像はまるで浮かんでこなかったわけだ。…メルバ、僕たちは、どちらの道を選んでいても、最後には、いまとおなじようなことに、離婚することになっていたんじゃないかな。僕にはそんな気がするよ」  「〔どちらの道を選んでいても〕…」。メルバは高野さんの言葉をくり返した。

  「ああ」。高野さんは答えた。「あのときはそんなふうには考えていなかったけど、いま振り返ると、メルバ、あの転勤命令を受けたとき、僕たち夫婦は、実は、そんな、逃げ場のない立場に立たせられていたんだね」

  「〔逃げ場のない〕…」。暗い表情で、メルバは首を横に振った。

          ※

  「もう一つたずねてもいいでしょうか」。メルバはたずねた。厳粛な表情だった。

  「もちろん」。高野さんはちょっと背筋を伸ばして答えた。

  「そのころ、ミスター高野夫婦に子供がいたら、二人はどうなっていたと思いますか。まるで違った選択をしていたかもしれませんね」

  「もし、あのとき子供がいたら…」。高野さんはそこでためらった。

  高野さんがためらった理由がわたしには分かるような気がしていた。あの人はあのとき、たぶんメルバがそうしていたように、彼女の妹たちのことを思い浮かべていたのだ。…カレッジで勉強したいという夢を、メルバは長女として、その妹たちを助けるためにも、あきなめなければならなかったのだから。妹たちに惨めな暮らしをさせないためにも、彼女はカラオケシンガーになるしかなかったのだから。

  意を決した、というような表情で高野さんが口を開いたのは、少し経ってからだった。「そうだね、メルバ、あのとき子供がいたんだったら、僕たちの決断は難しいものになっていただろうな。だけど、その質問はあまりにも仮定的で、僕には答えられないよ。ちゃんと答えられるとは思えないよ。…由実さんと僕は、結婚するとき、〔二人の人生を大事にするために、楽しむために、子供はつくらないようにしよう〕と決めていたからね。結婚してからも、その気持ちが変わったことはなかったからね」

          ※

  「どうして、そんな…」。メルバはそこで言葉を切った。

  「自分たちを〔自由〕にしておきたかったんだ、メルバ」。苦笑を見せながら、高野さんは肩をすくめた。「より〔高度な〕人生を二人が追求していく際に障害になりそうなもの、そういう生き方を制限しそうなもの、そういうものから〔自由〕に、ね。いま思えば、その〔高度な〕という言葉が何を意味しているのか、はっきりとは分かっていなかったようだけど…。

  「いま、僕はフィリピンにいる。フィリピン人の暮らしを、僕なりに、数か月間見てきた。だから、メルバ、僕たち夫婦がどれぐらい〔不自然〕に君に見えるかが、僕には分かる気がする。だけど、あのころの僕はそうじゃなかった。僕たちだけの世界に生きていた。子供を〔自分たちの自由を制限するもの〕だと考えて、それを変だとか〔異常だ〕とかは感じなかった」

  メルバがまたわたしに視線を向けた。

  わたしは何も反応しなかった。…というより、〔克久も、わたしが産む子を彼の人生を制限するものであるかのように受け取っていたのだろうか〕という思いに捉えられていて、口を開くことができなかったのだった。

  ユキがお腹に宿ったことが分かるまでは、二人の将来の子供のことが克久とのあいだで話題になったことはなかった。子供を持つことを格別いやがる様子を彼が見せたこともなかった。では、中絶手術を受けるよう、彼があれほど執拗にわたしに迫ったのは、どんな理由からだったのだろう。名の知れた商業銀行の貸付係だった克久にも、自分の子供を人生の障害物でもあるかのように見なす、仕事上の理由があったのだろうか。それとも…。結局、わたしがフィリピン人のカラオケシンガーだったから、彼はわたしに自分の子供を産ませたくなかったのだろうか。フィリピン人の女性シンガーに対して何か偏見を持ちつづけたのは、彼の母親だけではなかったのだろうか。克久が住んでいた世界は、実は、そこまでわたしの世界と違っていたのだろうか。

          ※

  メルバがわたしにつぶやきかけていた。「わたしたちって、自分たちのために、自分たちの家族のために、働きますよね?暮らしが少しでも良くなればと念じながら?いいか悪いかはともかく、ほとんどのフィリピン人にとって人生はそれぐらい単純なんですよね?でも、ミスター高野たちのは違う。仕事をすること自体が人生の目的になっていたみたい」

  「〔仕事をすること自体が人生の目的〕か」。高野さんが応えた。「君の言うとおりだ、メルバ。仕事が僕たち夫婦の価値観を支配していたんだ。僕たちは何より先に仕事のことを考えたよ。それが僕たちの生き方だった」  高野さんは不意にわたしの方に顔を向けた。「トゥリーナ、前に日本に行ったとき、君は、日本人はマニラのフィリピン人よりうんと急ぎ足で歩くと感じたことはなかった?」

  「ええ、感じました」。あの人が何を言おうとしているのかは分からないまま、わたしは答えた。「本当に、だれもがなぜか、大変な急ぎ足で…」

          ※

  福岡市天神の通りで突然めまいに襲われたことがあった。仕事仲間たちに誘われ、日本で初めてのウィンドウショッピングを楽しもうと町に出てから間もなくのことだった。高級ではあるにしても恐ろしいほど高額な商品を含めて、町中のものは何もかもまるで違う世界のもののように見えていたけれども、中でもわたしの気持ちを一番落ち着かないものにしていたのは、クリスマス前の買い物熱に浮かされているらしい人々の、めまぐるしいほど速い動き、歩き方だった。日本での仕事は三度目だった仲間のシンガー、コーラがさっと腕を差し伸べてくれていなかったら、わたしは路上に昏倒していたかもしれなかった。…一年半後の東京。クリスマスシーズンまではまだずいぶん遠かったにもかかわらず、人の動きの速さは福岡とは比べものにならなかった。

  高野さんは言った。「南カリフォルニアでは驚いてしまったよ。いや、前任者たちから、そんなふうな話は聞いてはいたんだよ。だけど…。とにかく、時間がひどくゆっくり過ぎていくんだよね。人々の動きもゆったりとしていて…」。高野さんはそこでくすりと笑った。「フリーウェイの上ではそうじゃなかったけれども」

  おかしなことに、わたしの頭に最初に浮かんできた光景は、ハリウッド映画に出てくる、何層にも重なった交差路がある、車線が何本も並んだ、自動車で混み合ったあのフリーウェイではなく、山梨の甲府で働いていたリサに会いに行こうと、わたしを脇に乗せて克久が車を走らせた日本の中央高速道だった。…〈きょうは僕ら、運がいいよ〉。道すがら、青みがかって高くそびえる富士山を見上げながら、克久は何度もそう言った。あのときはまだ、克久はわたしにとても優しかったし、リサも心から温かく彼を迎えてくれたものだった。

          ※

  「南カリフォルニアでは…」。今度はメルバの方に顔を向けて、高野さんは話をつづけた。「だれもが自分たちの生活のペースをしっかり守っているように見えたよ。みんながあり余るほどの時間の中で暮らしているように。

  「もちろん、現実にはね、メルバ、ビジネス競争は世界のどこにも劣らず厳しかったはずだし、大方の日本人同様に激しく働くアメリカ人も多かったんだよ。だけど、僕の目には、あそこでは、人々は、どう言えばいいか…。そう、自分たちの身を捨ててまで、自分たちの私的な暮らしを犠牲にしてまで、仕事のために尽くすことはない、というように見えていた。家族や趣味、スポーツ、健康の自己管理…。それが何であれ、とにかく仕事以外に何か大事なものを持っていて…。幅広い多様性の中で生きていて…。少なくとも、僕には、妻と離れてひとりで暮らしていた僕には、あそこの人たちの生き方がそんなふうに見えたよ。

  「そういうのって、メルバ、どう呼べばいいんだろう?カルチャーショック?たぶんね」。高野さんは苦笑した。「いや、それにしても、あそこに住んでいる人たちのことを知れば知るほど、自分の胸が空洞みたいになっていったのには、本当に困ったよ。最後には、自分がまるで巨大な真空の中にいるような気さえするようになって…。

  「実際、あそこでは、自分の仕事のほかに、僕には何があったのだろう。妻と遠く離れ太平洋の反対側で一人で暮らさなければならない原因となった、その仕事のほかに?

  「皮肉なことに、由実さんが初めて…。それが最後にもなってしまったのだけども、とにかく初めて僕を訪ねてきたのは、僕がそんなふうに考え始めてから間もなくだった」

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