第34話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三四〉



  高野さんの声は変わらず平静だった。「南カリフォルニアへの初めての旅行だったから、由実さんはディズニーランドやハリウッド、ビバリーヒルズ、近くのショッピング・モール、ビーチなどを―僕の目には―ずいぶん精力的に見て回った。丸一週間ね。…僕と二人で過ごす休暇を彼女がすごく楽しんでいるようだったんで、僕はとても嬉しかった。久しぶりに、幸せな気分だった。空洞感なんてどこにも感じずに時を過ごすことができたよ。

  「だから、日本へ戻る前の晩になって彼女が突然、〈南カリフォルニアというのは、格別に心を躍らせてやって来るような場所じゃないわね〉と言い切ったときには、僕はすっかり驚いてしまった」

  「まあ」。メルバは眉をひそめた。

  「僕は最初、〈そうかな〉としか言えなかったよ。由実さんがどういうつもりでそんなことを言ったのかが、その瞬間には、まったく分からなかったからね。だって、その南カリフォルニアでの一週間を彼女がどれほど楽しんでいたか、そこで見たもの、会った人々に、彼女がどれほど興味を抱いていたかが、僕にはよく分かっていたからね。

  「だけど、メルバ、彼女がそんなふうに言い切らなければならなかった理由が僕には、案外早く分かった。分かった、と思ったよ。…あのとき、彼女は十二時間ほどあとには日本に向かって発つことになっていた。発たなければならないことになっていた。日本には彼女が愛する仕事があったからね。その仕事をつづけていくというのが僕たちの―いまさら動かしようのない―基本的な人生計画だったからね。

  「彼女は、一週間滞在していたあいだに育ってしまったらしい南カリフォルニアへの、夫への、新たな愛着を、何とかして断ち切らなければならなかった。僕と四年間離れて暮らそうという決断は間違ってはいなかったんだという―たぶん少し揺らぎかかった―信念を、何とかして、修復しなければならなかった。そうしなければ日本へ戻れないほど心が揺れ動いていた。僕はそう感じていたよ。

  「だから、由実さんがぎこちなく冷ややかな口調で取ってつけたように、〈ここはやっぱりみなが消費する場所で、何かを創造する場所じゃなかったわ〉とつけ加えたときには、僕はもう驚いたりはしなかった。そんな言い方で彼女が僕に伝えたかったのは、たぶん、〔東京での創造的な暮らしを何かと交換することは、やはり、もうできない〕ということだと思ったからね。…あのときの彼女には、とにかく、そんな言い方しかできなかったんだ。

  「僕は何も言わなかった。自分が彼女とおなじ立場にあったら、似たようなことを言ったかもしれない、という気がしていたから。

  「夫婦のあいだなのにそんなふうに会話をしてしまうところが、僕たちが抱えていた最大の問題の一つだ、と僕が気づいたのは、メルバ、ずいぶんあとになってからだったよ。僕たちはほかでもない、自分たち自身のことを率直に話すための言葉を持っていなかったんだね。

  「思うに、由実さんはあのとき、自分が一度追求すると決めたことはやはり追求しつづけなければならないって、自分に言い聞かせていたんだと思うよ。自分がいつかは辿り着きたいと考えていた場所に自分をそれからも導いてくれるはずのその価値観を、やはり、持ちつづけていたかったんだと思うよ。…それ以外の人生像を描いたことがなかった人だったからね」

          ※

  「由実さんはね」。高野さんはメルバが〔ほかの国々の人たちのことをもっともっと知る〕ようになるのなら何でも話そう、と心を決めていたようだった。「女性が男性と平等の社会的地位を築き上げることをずっと拒まれてきた国に生きる女性として、有能な男性しか行き着けないような地位に自分も就きたい、と望んでいたんだ。それが彼女の、学生時代から抱いていた、基本的な価値観だった。…その価値観を保っている限りは自分も、あらゆる種類の旧来の因習的な価値観の中で暮らすほかの女性たちよりも一歩前を歩くことができるし、そんなふうにだれかが歩くことで女性の全体的な地位がやがては向上するのだ、と考えていたんだ。

  「僕の考えもおなじだった。できるだけ多くの日本女性、まだアメリカやヨーロッパの女性たちほどには地位が認められていない日本女性が、由実さんのように考えるべきだとさえ思っていた。

  「何かをやり遂げるためには、メルバ、それを精神的に支えるものが要るだろう?それにしがみついていなければ、何もやり遂げられないだろう?そして、日本のように、何事にも競争が激しい、まるで何かに追い立てられてでもいるかのように皆が同時にある方向にどっと駆け出すような、そんな国では、価値観をいくつも同時に持ってはいられないというのが現実だ。仕事も家庭も趣味も…。そんなふうには、ふつう、いかないんだ」

  そう言い切った高野さんの表情は、言葉ほどには決然としていなかった。

  その高野さんの顔を、メルバはじっと見つめていた。彼女もすでに、高野さん夫婦が住んでいた世界は、自分が、自分の親たちが住んでいる世界とは、結局、違っていたのだ、だから、共に自分の仕事―一つの価値観―に執着したからといって、自分の母親と由実さんとを比べてみても、そこからは何も見えてこないはずだ、ということに気づいていたに違いなかった。…彼女の母親の〔子供たちに教えることが好き〕と由実さんの〔女性の全体的な地位の向上のため〕とのあいだに容易には埋め尽くせない隔たりがあることに気づくのは、決して難しいことではなかったのだから。

  「あのときの由実さんは」。高野さんは言った。「そんな日本にいて、激しい競争の中でとにかく懸命に働いていた。…たぶん、日本にいたときの僕がそうだったように、その競争の中で自分は何とか勝ちつづけているんだと感じながら」

          ※

  「由実さんは、それまで互いにかけ合っていた電話でもそうだったように、ロサンジェルスに一週間いたあいだ、日本では淋しい思いをしていたとは一度も言わなかった。僕も言わなかった。…自分に正直になることが罪でもあるかのように感じて、そんなことは言えなかった。僕たち二人の胸の中にはタブーのようなものがあったんだね。そのタブーに支配されて、メルバ、僕たちはそんな〔自然な〕感情を表に出すことができなかった。一度出してしまえば、自分たちの人生計画が根底から崩れてしまうのではないかと、僕たちは怯えていたんだ。

  「LA空港で、彼女の飛行機の出発時間が迫ってきていたとき、僕たちは二人ともサビシイと感じていたんだと僕はいまでも思っているよ。だけど、そのときも、僕たちは何も口にしなかった。僕たちの〔自然な〕感情は、前に固めていた決意にすっかり押し潰されていたんだ。

  「何かが間違っていた。それは、あのときも、分かっていたよ。だけど、何が間違っているのかは分からなかった。…自分にはどうすることもできないって思いが大きくなるだけで」

          ※

  メルバの目が急に涙でうるんだのはそのときだった。

  「どうしてそんなことになるんですか」。彼女はつぶやいた。「ミスター高野はこんなにヤサシイのに。二人ともサビシイと感じているのに。何も言えないなんて…」

  高野さんは答えなかった。答える代わりに、スプーンを皿に下ろしたあとテーブルの端に置かれていたメルバの手の甲を、自分の手でそっと包んだ。

  メルバはゆっくりとまぶたを閉じた。涙が数滴彼女の胸に落ち、やがて、黄色のTシャツが何個所かで少し黒ずんだ。

  メルバには〔どうしてそんなことになるのか〕がよく分かっているはずだった。彼女はすでに、自分が住む世界の外にはそこに独自の価値観があるということ、さらには、人にはそれぞれシカタガナイ運命というものがあるということに気づいていたはずだった。

  高野さんは、何も言わず、メルバの手を握りつづけていた。…あのとき、あの人がメルバにしてやることができたのは、たぶん、それだけだった。

  あの人の手の温もりを右の手の甲に感じながら、メルバはほのかな幸せを味わっているに違いなかった。…わたしはそう信じていた。彼女が感じていたに違いない、あの人とのあいだの大きな距離を、その手の温もりは、つかの間のことにしろ、すっかり埋めてくれていたのだから。

         ※

  「ゴメンナサイ、ミスター高野」。そう言ったとき、メルバの目はまだ涙でうるんでいた。「急に涙を流したりして。でも、もうだいじょうぶです」

  高野さんはメルバの目を見つめながら無言で数度うなずき、彼女の手からゆっくりと自分の手を離すと、その手で一本、新たなタバコを取り出した。

  そのタバコに高野さんが自分で火をつけるのを、メルバはじっと見つめていた。

          ※

  「由実さんがロサンジェルスを去ってからは、メルバ」。高野さんは話に戻った。「僕は自分をしむけて、前にもましてうんと働くようにしたよ。だけど、皮肉なことに、そうすればそうするほど、自分はもう、いわゆる〔勤労依存症〕にはなれないんだという思いが深まっただけだった。[明和]の東京本社では、僕は最も勤勉な社員の一人だったと思うよ。そして、そのことを僕は誇りにさえ思っていた。そんなふうだったのに、僕はやがて、〈勤勉だってことにどんな意味があるのだろう〉〈仕事というのは自分にとっていったい何なのだろう〉と考え始めていた。ついには、〈由実さんと僕がした決断は二人にとって何だったのだろう〉と自分にたずねるようにさえなっていた。

  「だけど、メルバ、僕はまだ、〈僕たちはひどい間違いを犯してしまった〉とか〈あの決断は大ぃな誤りだった〉とかいうふうに考えているわけじゃないんだよ。このことでは、僕たちは、ほかの夫婦ではまねすらできないほど真剣に話し合ったんだ。将来の二人の人生を最高のものにする、最高の決断を下したんだ、と信じられるところまで…。

  「じゃあ、メルバ、いったい何が原因でこんなことになってしまったんだろう。…分からないよ、僕にはまだ。あのときは最高に見えた決断だったけれども、結果は最高とはいかなかった、というふうにしか、いまの僕には言うことができない。それが、きっと、僕たち夫婦が受け入れなければならない人生だったんだね」

  メルバは数度小さくうなずいたあと、大きなため息をついた。

          ※

  「そう、たしかに、メルバ」。高野さんはつづけた。「僕は南カリフォルニアでの暮らしが好きだった。…好きにならなければならない理由もあった。ほら、LA空港で感じたようなサビシサから逃れるために。そんなサビシサを何かで埋め合わせるために。

  「君の言葉で言えば、メルバ、ロサンジェルスにいたときの僕は、日本にいたときよりもうんと〔自然〕だったと思うよ。少なくとも、僕の頭はしだいに〔仕事〕だけに支配されることがなくなっていったからね。そして、自分でも驚いたことに、僕は急速にそんな自分に慣れていった。〔世界一の働き蜂〕?〔勤労依存症〕?その呼び名はどうであれ、そんな〔典型的な日本人〕の一人じゃなくて、だんだん、ただの〔自分自身〕になっていったんだ。

  「〔僕たちを捉えていた、僕たち夫婦を正直になれなくしていた、あのタブーから何とか解き放たれたんじゃないか〕と僕が感じ始めたのも、メルバ、いま思えば、けっこう早い時期だったよ。…そう感じ始めたからといって、すぐに幸せな気分が戻ってきたわけじゃないけどね」

          ※

  セブ島から戻ってきた直後に、小林という日本人ボタン製造業者とそのフィリピン人ガールフレンド―エヴェリン―とのあいだに何が起こったかを知ってひどく気をめいらせていた高野さんが口にしたことを、わたしは思い出していた。〈フィリピンとフィリピン人のことを知れば知るほど、ますます強く、ここでは自分は〔自分自身〕である前に典型的な日本人の一人だって感じてしまうんだよね。ひどく変なんだ。ひどくね〉

  疑いない、とわたしは感じていた。あのとき高野さんが口にした〔自分自身〕というのは、由実さんとの長い別居生活やその後の離婚、[明和]からの退職などを代償にしてやっと手に入れていた、そんな〔自分自身〕だったのだ。ほかのだれか、ほかの何かである前に〔自分自身〕であるということを、残された、最後の、たった一つの価値観にして、高野さんはその後の日々を生きていたのだった。

  わたしは暗い気持ちになっていた。…そんなふうにして手に入れた〔自分自身〕を高野さんは、ほかでもない、経済開発から政治汚職、観光、売春にいたるまで、ありとあらゆるところに日本の影が見えるフィリピンで、あるいは、小林という人物のようにいくらか豊かな日本人だったらしたいことがほとんど何でもできるフィリピンで、また見失いかけていたのだから。

          ※

  [さくら]で高野さんにした最初の〔型どおりの質問〕への答えが完全な形で返ってきたようだった。

  高野さんはあのとき、こんなふうに答えることもできていたはずだった。〈メトロ・マニラでね、何かを、〔僕はいま自分自身でいるんだ〕と僕に感じさせてくれる何かを、ずっと探してきたんだ〉

  そんな言葉があの人にどんな意味があるのかはまだほとんど分かっていなかったけれども、わたしはそう感じていた。

          ※

  「由実さんがロサンジェルスを訪ねてきてから三か月ほどあとに、メルバ」。高野さんはつづけた。「僕は転勤してから初めて東京に出張することになった。だけど、おかしなことに、僕は嬉しいとは感じていなかった。…由実さんとどんなふうに顔を合わせればいいかが分からなくなっていたし、友人たちや前の同僚たちとどんな会話をすれば楽しい時が過ごせるのかについても見当がつかなかったんだ。

  「東京で、友人たちはずいぶん歓迎してくれたんだよ。だけど、僕にはそれが居心地の悪いものに感じられた。以前は楽しめた、彼らの行きつけのバーでの話にも、僕は入り込めなかった。

  「彼らは、変わらず、本当に仕事熱心な、質の高い会社員だった。だから、自然に、話題は仕事のこと、業績のこと、会社のこと、上司たちのことに集中した。そういうのは、東京で働いていたときには、むしろ僕が進んで導いていった類の話題だったのに、僕は、遠い世界の話を聞いているような気がしてならなかった。

  「彼らの会話には〔何か〕が欠けているんじゃないか、彼らは人生で大事な〔何か〕を犠牲にしているんじゃないか、僕はそう感じながら彼らの話を聞いていたよ。…そして、いけないことに、二人だけで会っているときの由実さんも、僕の目には、彼らとおなじように見えていた。

  「その〔何か〕をどういう言葉で置き換えたらいいかは、あのときの僕には分からなかったけど、いま、マニラで五か月間ほど暮らしたあとの僕には、メルバ、それが置き換えられるような気がするよ。その〔何か〕に代わる言葉をやっと見つけた、と思うよ。何だか当てられる?」

  数秒間考えたあと、メルバは首を振った。

  「それはね、メルバ」。高野さんは自ら答えた。「ヤサシサだったんだ」

          ※

  メルバが視線をさっとわたしに向けた。その目がわたしに、以前のどんなときよりも自信に満ちて、〈ミスター高野にはあなたのようなヤサシイ女性が必要なんです〉と告げていた。

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