第35話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三五〉



  高野さんは、自分自身を含めて多くの日本人の心から消え去っていた―そう思えてならなかった―ヤサシサを探し求めていたのだった。あの人が求めつづけていた〔何か〕というのは、それを胸に抱いていれば、自分はいま本当の〔自分自身〕でいる、と感じることができる、そんなヤサシサだった。あの人は、だれかに対してヤサシイ気持ちになれたときだけ、自分は本当の〔自分自身〕でいることができる、と思っていたのだった。…あの人は自分を〔ヤサシイ自分自身〕にしてくれる〔何か〕を、このフィリピンで、何か月間も、探しつづけていたのだった。

  メルバの受けとめ方は正しかったようだった。…高野さんがメルバを何とかしてカレッジに行けるようにしてやりたかったのは、自分のヤサシサをそういう形で証明したかったからに違いなかった。自分がヤサシクしてやれるだれか、そうでなければ、自分にヤサシクしてくれるだれかが見つかるかもしれない、と思いながら、あの人はマニラに長くとどまりつづけていたのに違いなかった。…〈あの人に優しくしてあげなくちゃいけない〉のはわたしだ、というメルバの意見を受け入れたわけではなかったけれど、わたしはそんなふうに感じていた。

  なのに、メルバを援助しようという高野さんの試みは、事実上、失敗していた。メルバを取り囲んでいた現実は、高野さんのヤサシサをそのまま受け入れるほど単純ではなかった。思う存分にヤサシクしてやれるだれかも、限りなくヤサシクしてくれるだれかも、あの人にはまだ見つかってはいなかった。

          ※

  喉の強い渇きを癒すためだったのだろう、高野さんはつづけさまにアイスティーを飲んだ。

  「ロサンジェルス勤務の残りの期間中、僕はもう、由実さんに会うためにといっては一度も日本に行かなかった。電話が僕たちのただ一つのコミュニケーション手段になってしまった。初めのうちはまだ、〈仕事はうまくいっている?〉とか〈君のお父さんとお母さんは元気?〉とか、互いにたずね合うことがいくつかはあったからね。

  「驚くほど短いあいだに、メルバ、僕は、僕たちは、実際に胸の中で思っていること、感じていることを、抑え込んだり隠したりすることに慣れて、というより、巧みになっていった。やがて、次に電話をかけるまでのあいだがだんだん長くなっていって…。離婚しようと僕たちが決めたのは、東京本社への僕の復帰が決まるほんの少し前だった」

  メルバは視線を店の天井に向けた。…そうして涙を堪えようとしているのかもしれなかった。

          ※

  「ある日」。高野さんはつづけた。「ずいぶん久しぶりに彼女から電話がかかってきた。僕たちは、やはり、しばらくは、互いの健康のことをたずね合ったりしていたんだけど、ふと会話が途切れて、途切れた時間が数秒、十数秒とつづいてしまった。

  「次に聞こえてきた由実さんの声は、メルバ、静かだったけれども、すごく乾いて聞こえたよ。あの人はこう言ったんだ。〈やっぱり、こんな状態をつづけているよりは、わたしたち、離婚した方がましかな〉。…僕たちはそこまで遠く離れてしまっていたんだね」

  わたしはメルバの顔を見やった。彼女の目に涙は浮かんでいなかった。  「実際に、僕たちにはもう、話し合うことなど何も残っていないようだったよ、メルバ。僕はほとんど間を置かずに、〈そうだね〉と答えていた。  「特に、そうしていなければ、と努めたわけではなかったのに、僕は平静だった。そのことに僕は驚いていた。…離婚するのってこんなに簡単なのか、というふうにも驚いていたけれどね。だって、メルバ、四年間は別居していたといっても、法律上は僕たち、七年間は結婚していたんだからね。けっこう長い期間だった、と思わない?」

  メルバは答えなかった。何かを考えていた。…自分の実の両親と継父の三人がくり広げた―暴力や免職策略などを含んだ―諍いと比べながら、高野さん夫婦の離婚について?あるいは、その諍いをもっと複雑なものにした、フィリピンの離婚禁止規定について?

          ※

  「離婚することに同意したとき」。メルバが口を開いた。「ミスター高野はもう、由実さんを好きじゃなくなっていたんですか」

  「分からないな」。高野さんはそう答えてから、少し間を置いた。

  メルバは黙って耳を傾けていた。

  「実を言うと、メルバ」。高野さんは言った。「あのころの僕は、自分の感情の扱い方がひどくへたになっていた。たぶん、由実さんもそうだったと思うよ。…僕たちは、世の中を支配するような、世の中のどこかで確立された、そんな社会的価値観がないところでは、どう振る舞ったらいいかがほとんど分かっていなかった。だから、好きだとか嫌いだとかいう感情とは関係のないところで、自分たち自身のために前に一度準備した道を、そのまま歩いていくしかできなかった。

  「僕のロサンジェルス勤務が終わりに近づいていることは、二人とも分かっていたんだよ。二人はすぐにまた東京でいっしょに暮らすことになるんだってね。なのに、僕たちは離婚する方を選んだ。…〔そうだね〕と答えたとき、自分がまだ由実さんを好きかどうかなんて、メルバ、僕は考えてもみなかったよ。

  「二人にとってもっと重要だったのは、たぶん、僕がもう、彼女の向上心を高く評価していたころの―彼女とおなじ価値観を抱いていたころの―僕ではなくなっていることに、彼女が気づいていたことだったと思う。僕も、自分がもう、彼女がいくらかは尊敬してくれていたころのような―手を取り合って生きていきたいと彼女が思ってくれていたころのような―夫ではなくなっていることに気がついていたよ」

          ※

  「日本に戻ってから間もなく、僕は離婚届の書類に署名し、そのすぐあとに[明和商事]をやめた。僕の胸に最初に浮かんできた思いはね、メルバ、自分でも不思議に感じたんだけど、〈ああ、僕は自由になった〉というものだったよ。…本当なんだ。すごく重い義務から解放されたように感じたんだ。

  「そうだね、気持ちの上でのことを言えば、そのときまでに僕はとっくに、競争の激しい、日本のビジネス社会からドロップアウトしていたのも同然だったのだから」。高野さんは肩をすくめた。「仕事をやめるのはそんなに難しくなかった。というより、どちらかと言えば〔自然〕なことにさえ感じられた。

  「実際には、さっき言ったように、メルバ、ロサンジェルスでは僕はすごく働いたんだよ。だけど、僕の心はそこにはなかった。…戻った東京では、僕はもう〔すごく〕働く気にもなれなかった。四年間の別居に耐えてでも共に仕事を持ちつづけようとした僕たち夫婦の真剣な試みが、かえって、僕がその貿易会社をやめる時期を早めてしまったわけだね」

          ※

  ためらいがちにメルバが口を開いた。「もう少しがまんして、もうちょっと会社にとどまっていたら、ミスター高野の精神的な疲れを時間が癒してくれていたかもしれないのに…。そうしていれば、将来も、初めに思い描いていたのとおなじぐらい明るいものになっていたかもしれないのに…。由実さんはそばにいなくなっていたにしても」

  もしその貿易会社にとどまっていたなら、高野さんはマニラに来てはいなかった、つまり、自分と出会うこともなかったはずだ、ということは、当然、メルバも分かっているに違いなかった。けれども、彼女は一方で、そのあとやって来たフィリピンでの滞在をあの人が必ずしも楽しんでいないこと、仕事をやめて〔自由〕になってからのあの人が少しも幸せになっていないことを知り過ぎるほど知っているのだった。

  高野さんは応えた。「あのころの僕は、メルバ、物を理屈では考えなかった。自分の将来を損得計算して考えるようなところには、僕はいなかった。どうした方が幸せになれるか、なんて僕の頭にはなかった。だって、そんな理詰めの、計算が行き届いていたはずの、より良い将来のための人生計画が、あんな結末を迎えていたからね。

  「僕はぼんやりと、本当にしたいことだけをしたいものだと感じていた。そして、あのとき僕がしたかったのは、[明和]をやめることだったんだ」

  「由実さんはいま何をしているんですか」。視線を宙にさまよわせながら、メルバはたずねた。「もちろん、おなじ広告会社で熱心に働いているんでしょう?」

  「ああ。…こんなふうに言うのはあまり好きじゃないけど、メルバ、本当に、人生は皮肉でいっぱいだね。僕たちの離婚が正式なものになってからほんの数日後に、僕は、その広告会社の中で、由実さんがある特別プロジェクトティームの一員に抜擢された、という話をある友人から聞いたよ。…東京の近くに昨年オープンした[東京ディズニーランド]が印刷メディアを通じて全国規模で行なう宣伝の大半を請け負っていたティームにね。

  「僕が耳にしている限りでは、由実さんはいま、そのティームの中で、雑誌メディア担当のプランナーの一人として、猛烈に働いて、成果を上げているということだよ」

  メルバは何度か首を横に振ったあと、大きなため息を一つ洩らした。

          ※

  確かに〔人生は皮肉でいっぱい〕だった。高野さんがそう感じたのは、たぶん、当然のことだった。

  でも、わたしは、由美さんが離婚を提案した時期と彼女の昇進の時期が近かったのはただの偶然ではなかったのではないか、と感じていた。由実さんが電話で高野さんに〔離婚した方がましかな〕と言ったとき、彼女はすでに広告会社から新しい任務のことを聞いていたに違いない、と考えていた。

  なぜといって、由実さんは、自分が以前に、自分の仕事をつづけるために、[ディズニーランド]がその一部を代表していたかもしれない南カリフォルニア文化をあえてあっさりと否定してしまっていたこと、否定し、淋しがる高野さんを残して東京に戻ってしまっていたことを忘れてはいないはずだった。忘れていない彼女は、自ら一度否定してしまった文化を売り込むための仕事に、いまになって自分が深く没頭しているところを見るのは、ロサンジェルスで孤独な暮らしを強いられていた高野さんにとってはあまり快いものではないのではないか、と怖れていたに違いなかった。なのに、そのとき彼女にできたことといえば、たぶん〔夫である〕高野さんにはそんないやな思いをさせないことぐらいしかなかった。それが高野さんに示すことができる、彼女の最高の思いやりだった。…高野さんが言っていたように、そのときの彼女には〔二人が一度進むと決めた道を進みつづけるしかなかった〕のだから。

          ※

  「高野さん、その会社をやめたあと、行く先としてこの国をあなたが選んだのは、それが理由だったのですか」。わたしはたずねた。「自分を〔本当の自分自身〕だと感じることができたという南カリフォルニアへ戻るのではなくて?」

  「〔それ〕って、もしかしたら、トゥリーナ」。高野さんは少し声を高めていた。「由実さんが[東京ディズニーランド]の仕事をしているということ?」

  わたしは小さくうなずいた。

  「君は、トゥリーナ、由実さんが[東京ディズニーランド]のために働いているのがおもしろくない、一度、〈格別に心を躍らせてやって来るような場所じゃない〉と言い切った土地の何かを彼女がいまになって売ろうとしているのが気に入らない、というので、僕は南カリフォルニアには戻ろうとしなかったんじゃないかって、そうたずねているわけ?」

  「〔おもしろくない〕とか〔気に入らない〕とか、そんなふうにはっきりしたものではなくて…」。わたしは言った。

  「何てことだろう」。高野さんは言った。「なぜ南カリフォルニアに戻ろうとはしなかったのか?…そんなことはいままで考えてもみなかったよ。だけど、トゥリーナ、君の言うとおりかもしれない。よくは分からないけど、実は、そんな皮肉を、僕は直視できずにいたのかもしれない。

  「いや、東南アジアの国をいくつか訪ねてみようという考えは、僕の頭の中に、どちらかと言うと、自然に浮かんできたんだよ。日本とはずいぶん違っているようだったからね。違う世界を見てみたいと感じていたからね。…フィリピンだけじゃなく、インドネシアやタイ、マレイシア…。できるだけ多くの国々を。

  「なぜ南カリフォルニアじゃなかったのかって?分からないよ。でも、君の言ったことは、トゥリーナ、当たっているかもしれない。僕は、無意識のうちに、そんなふうに南カリフォルニアを避けていたのかもしれない」

  考えをまとめるための時間がほしかったのだろう、高野さんはまたタバコに火をつけた。

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