第36話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三六〉



  「フィリピンは最優先の、唯一の訪問希望国というわけじゃなかったんですか」。ためらいがちにメルバがたずねた。

  「正直に言うと、メルバ、最初は、フィリピンも訪ねてみたい国の一つにすぎなかったんだよ」。高野さんはメルバに答えた。「でも、この状態だと、〔唯一の〕訪問国ってことにはなりそうだな。だって、どこかほかの国を訪ねる気は、僕にはもうないからね。

  「僕はね、メルバ、マニラにやって来るとたちまち、この国の魅力のとりこになってしまった。そして、その魅力に引きつけられたまま、このとおり、こんなに長く、もう半年近くも、マニラにいつづけている。この国の魅力が大きすぎて、ほかの国へは行けなくなってしまったんだ」。高野さんはそこで軽く肩をすくめて見せた。「もっとも、正直に言うと、数か国を回るつもりで持ってきていたカネをここでほとんど使ってしまったからもうほかへは行けない、という面も、いまではあるんだけどね」

          ※

  〈高野さんは何を指して〔魅力〕という言葉を使ったのだろう〉と、わたしはぼんやり考えていた。

  メルバはわたしに一度視線を向けたあと、真剣な口調で高野さんに言った。「わたしがこんなことを言うのはおかしいと分かっているんですけど…。「ミスター高野は[さくら]でお金を使いすぎています。そう思いませんか」

  高野さんは温和な笑みを浮かべながらうなずいた。…年若い友人、メルバの叱責が嬉しいといった表情にさえ見えた。

  メルバはつづけた。「[さくら]に一人で来るときでも、ひと晩で一五〇ペソから二五〇ペソは使うでしょう?ティムやマーヴィンがいっしょのときは、それが三〇〇から五〇〇にもなってしまう。もっと多いときだってあるかもしれない。二人ともミスター高野のいい友だちでいい人たちだって、わたしにも分かっていますけど、あの人たちは、それでも、ミスター高野が泊まっているホテルのボーイなんですよ。あんなに気前よくもてなすことはないとわたしは思います。それに、一か月のうちにいく晩[さくら]にやって来ます?」

  高野さんの顔から笑みが消えていた。

  「わたしたち…」。メルバは言った。「トゥリーナさんとわたし、[さくら]で働いている者はみんな、いつも、ミスター高野が来るのを楽しみにしています。ミスター高野を家族の一員のように感じているのは〔ママ〕リサだけじゃないんですよ。でも、本当に、わたしがこんなこと言うのはおかしいんですけど、ミスター高野は[さくら]に来る回数が多すぎます。わたし、計算したことがあるんですよ。[さくら]で遊ぶだけで、ミスター高野は毎月、毎月ですよ、たぶん、三、〇〇〇ペソ以上は使っています。それって、思うに、ティムの月給の二か月分以上ですよ」

  高野さんは硬い表情で耳を傾けていた。

  メルバはかろうじて、自分の母親の教師としての月給はさらにそれ以下、一、〇〇〇ペソ―ブラック・マーケットの交換レートでなら四五USドル―ぐらいでしかないのだ、とは言わずにすませていた。…わたしはそう思っていた。

  「ゴメンナサイ、ミスター高野」。メルバの顔が少し赤らんでいた。「でも、こんなことを言うのは、カシ、グスト コング イカウ エ…(そのわけは、あなたに…)、できるだけ長くマニラにとどまっていて(ほしいから)…。アノ、カシ、イカウ イ イサ コング マブーティング カイビガン(その、あなたはわたしの良いお友だちだから)」

  メルバは高野さんの顔を見ることができずにいた。

  「そうだね」。高野さんは応えた。「君の言うとおりだ、メルバ。これからは、カネをできるだけ節約するようにしなくちゃね」

          ※

  三人が同時に、それぞれ、奇妙でぎこちない思いをした瞬間だった。

  メルバは、高野さんの顔を一番見たがっているのは自分で、しかも、〔あの〕お金を受け取り、その結果、あの人の滞在資金を減らしてしまったのも自分だ、ということが分かっているはずだった。それに、マニラ滞在の期間が長くなるといっても、[さくら]に顔を出す回数をあの人が減らしてしまうのでは、彼女の嬉しさは必ずしも大きなものにはならないのだった。

  高野さんは高野さんで、何についてであれ、胸に浮かんでくる思いを、最初はリサに、次にはメルバに、たまにはクリスティーナなどほかの女たちに、そしていまではわたしに話すことを、たぶん、最高の楽しみにして、マニラで時を過ごしてきていたのだった。[さくら]で過ごす時間はすでに、あの人の暮らしの重要な一部になっていたのだった。

  わたし自身について言えば、高野さんはもう、一杯一〇ペソの稼ぎになる〔ソフトドゥリンク〕をひと晩に何杯かを保証してくれる常連客、というだけの人ではなくなっていた。そう呼んですませるには、わたしはあの人のことを知りすぎていた。あの人がこのフィリピンで何をし、何を考えているかに、関心を抱きすぎていた。

  なのに、高野さんが[さくら]で使ってきたお金の額が―メルバとわたしが慣れ親しんできた尺度で計れば―途方もなく大きいものであることは、だれの目にも明らかだった。

  わたしが[さくら]で再び働きだした夜、高野さんのテーブルにこれからつこうとしていたわたしにリサが言ったことをわたしは思い出していた。〈高野さんったら、それは熱心に[さくら]に通ってくるのよ。…まるで、マニラにいる時間がいまにもなくなってしまうのではないかと、怯えてでもいるかのように〉

          ※

  三人の沈黙を破ったのはわたしだった。「ところで、高野さん、マニラの何に〔魅力〕を感じてこんなに長くとどまることになったのか、よかったら、聞かせてください」

  話題がそれたことでメルバは救われたようだった。彼女は視線をそっと高野さんに向けた。

  「そうだね」。あの人は言った。「その前に、僕がなぜ、この国を最初の立ち寄り先に選んだかを話しておこうかな」

  「いや実は、話は単純なんだよ、メルバ」。高野さんは言った。「それは、吉田勉という、東京で同じ大学に通っていたころからの親友で、別の部課だったけども、やはり[明和]で働いていた男に、熱心に誘われたからなんだ。僕が[明和]をやめたとき、吉田はたまたまマカティのビジネス地区の中心地にオフィスがある[明和]のフィリピン現地法人で働いていて、間もなく、次の勤務地、中東の国、サウディ・アラビアのリヤドゥに移ることになっていた。だから、メルバ、僕が初めに東南アジアを見ておきたいと思った理由の一部には、やっぱり、マニラに立ち寄れば吉田にも会える、ということがあったわけだね。

  「で、僕はある日、東京から彼に電話をかけた。彼は、彼の家族といっしょに彼らの〔マニラでの最後〕の数日間をぜひいっしょに過ごしてくれ、と言ってくれたよ。〈フィリピンは美しい国だよ。本当だよ。一度住んでみたらどうだ、と君にも勧めたいぐらいに美しい国だよ〉とつけ足して…。

  「僕はフィリピンを最初の訪問国にすることにした。僕の気持ちが固まったのを知ると吉田は、日本を出る前に少なくとも一つ、タガログの言葉を覚えておくように、と言ったよ。何だったと思う?」。高野さんは交互に、メルバとわたしの顔に視線を向けた。

  メルバとわたしは互いに相手の表情をうかがったあと、ほとんど同時に、高野さんに向かって首を横に振った。

  「それはマガンダ(美しい)という単語だったよ」。高野さんは言った。

  メルバの顔にかすかに笑みが浮かんだ。

  「吉田は、あのころの僕には分からなかった言葉で、いま思えば、たぶん、こんなふうなことを言い足したよ。〈マガンダング マガンダ アング バンサ ナ イト〉(この国はすごく美しいよ)」

  「そのお友だちもいい人ですね」。メルバがつぶやいた。

  「ああ、メルバ、彼はすごくいいやつだ。…僕は、フィリピンの言葉が少しでも分かるようになればと思って、その翌日、早速、タガログ語の教科書を買いに出かけた」

  「あ、もう一人、いい人が…」。メルバはわたしに小声で言った。

  わたしはメルバにほほ笑みかけた。

  でも、メルバはわたしにほほ笑み返さなかった。彼女はなぜか表情を曇らせていた。…もしかしたら、高野さんが使うお金のことを話し、あの人がフィリピンにやって来た事情を聞いているうちに、彼女は、あの人もいつかはこの国を去っていくのだということに改めて思い至っていたのかもしれなかった。わたしがそうだったように。

           ※

  高野さんはつづけた。「数週間後に、僕はマニラにやって来た。この国での、ほとんど〔最後の〕と言える十日間を使って、吉田は僕をメトロ・マニラのいろんな場所、ほら、ケソンシティーの議事堂とかフィリピン大学、マニラ市内のサンティアゴ要塞、チャイナタウン、フィリピン文化センター、マカティの[コマーシャル・センター]なんかね、もっと遠くでは、タアル湖があるタガイタイ、さらにはルソン島中部の都市、バギオまで、それは熱心に案内してくれたよ。そんな中で、彼の〔ベスト・フレンドの一人〕であるリサが働いていた[さくら]は、彼が、ただ一個所、くり返して僕を連れて行ってくれた場所だった。

  「吉田の奥さんと二人の子供たちは、新任地での吉田の暮らしが落ち着くまでは東京で過ごそうというので、とりあえず日本へ、吉田自身はリヤドゥへ、それぞれ去っていった。…フィリピンの何がそんなにマガンダに見えたのかの説明は、結局、しないまま。〈君にもすぐに見えてくるよ〉と言ってね。

  「僕は残った。長い滞在になった。[エルミタ・アパートメント・イン]のボーイで僕の友人―マーヴィン―の父親が、移民局で働いている友人を通して、僕のヴィザの延長手続きをやってくれた。で、僕はいま、ここにいる。

  「僕の滞在がこんなに長くなったのは、だけど、トゥリーナ、何か特別なことがあったからとか、特に何か一つのことに惹かれてとか、というのではないんだ。そうじゃなくて、僕は、この国で見た、聞いた、行き当たった、あらゆる人、あらゆることに、魅せられてしまったんだ。…何がそうなのかはまだよく分かっていなかったけれども、吉田が去ってからあまり経たないうちに僕は、彼が言ったことは正しかった、この国は本当にマガンダだ、と思うようになっていたよ」

          ※

  唐突だった。高野さんは火をつけたばかりのタバコをアルミニウム製の灰皿の中でもみ消すと、「おかしいな。まだ食べ足りないよ」と言いながら、テーブルの中央にあったラプラプのフライに手を伸ばした。

  メルバが気を沈ませたままでいることに、高野さんも気がついたのだった。あの人は、話題をほかに転じて、彼女の気分を変えるつもりで、急に魚に手を伸ばしたのだった。

  高野さんは、フィリピン人のマナーに従って、フォークとスプーンを手に、とっくに冷め切っていたその魚の身をはがそうとした。でも、スプーンをナイフ代わりに使うのは、慣れないあの人には案外難しいことのようだった。しばらく試みてみたあと、あの人は顔を上げ、声を高めてメルバとわたしに言った。「なんて手強で抵抗心の強い魚の王様なんだ、〔彼〕は!」

  メルバの顔にさっと明るい笑みが浮かんだ。心底からの、とはまだ言えなかったけれども、彼女がどれほど愛らしい少女であるかがよく分かる、そんな笑みだった。

  高野さんがその魚を、一五二一年の戦いでポルトガルの探検家、フェルディナンド・マジェランを攻め殺した英雄、マクタン島の大族長、ラプラプになぞらえてそう言ったことは明らかだった。

  高野さんのユーモアのおかげで、わたしたちはみんな、ほんのちょっとのあいだ、救われた気分になっていた。

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