第37話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈三七〉



  高野さんは結局、ラプラプは二切れ三切れ食べただけだった。再びタバコに火をつけると、あの人は話に戻った。「トゥリーナ、僕がマニラで魅せられた出来事を一つ、あるいは、人物を一人、例として挙げるとすれば…。そうだな、僕の、年若い友人、フェリックスがいいかもしれないな。フェリックスは十五歳の少年で、僕が泊まっているホテルの前の通りをテリトリーにしているタバコ売りなんだ」

  メルバが高野さんを見据えていた。自分のほかにもティーンエイジャーの友人があの人にいたことに、大きな興味を覚えているようだった。

  「ある日、僕は、ホテル玄関のドアのすぐわきに、ほとんどガードマンの後ろに隠れるような形でかがみ込んで、フェリックスが本を読んでいるところを見かけた。自動車で混雑している大きな街路を商圏にしているタバコ売りたちと違って、あのホテルの前のタバコ売りたちはほとんどの時間をふつうは、ただぶらぶらしたり、同業者や客待ちをしているタクシー運転手たちとただしゃべり合ったりして過ごしているように僕には見えていたけど、フェリックスはなんと、一人で本を読んでいたんだ。僕はたちまち感心させられてしまい、彼に近づいて、何を読んでいるのかとたずねてしまった。彼が手にしていたのは、初心者向けの英語‐タガログ語辞書だったよ」

          ※

  「フェリックスが一日にいくら稼ぐのかは僕は知らない」。高野さんはつづけた。「彼が、フィリピン製の[フィリップ・モリス]を一箱、ふつうは六ペソ五〇センタボ、たまには七ペソで、[マールボロ]を一〇ペソで、輸入[マールボロ]なら二五ペソで売っていることは、自分が買うから、知っているけどね。…想像して言うと、フィリピン製のタバコ一箱を売って五〇センタボ、輸入ものなら二ドルという辺りが、彼の儲けじゃないかな。

  「あのホテルの客はほとんどがサウディ・アラビア人、日本人、アメリカ人で占められている。フェリックスにとっては、気前のいい客になってくれそうな人間たちなんだろうけども、現実には彼らは、買い物はだいたい、フェリックスたちのような街路の物売りからではなく、近くにある、ちゃんとした店ですませるみたいだよ。だから、彼の得意客は事実上、ホテルから外出する客を待ち受けているタクシー運転手たちに限られているようなものなんだ。で、君たちが知っているように、ほとんどの運転手はタバコを吸うけれども、彼らはたいがい、吸いたいときに一本だけ買って吸う。

  「さらにいけないことには、商圏は小さく、客も多くないというのに、彼にはいつも、競争相手が数人いる。そんな具合だから、フェリックスが大稼ぎすることはめったにないんじゃないかな。…ホテルの玄関わきで彼が英語の勉強をしているのを見かけたとき、僕が知っていたのはそれぐらいだったかな。

  「ところで、トゥリーナ、彼は英語がほとんど話せない。僕のタガログ語も、日常の会話が自由にできるものにはほど遠い。だから、僕は、ベルボ−イとして勤務中だったティムに通訳してくれるよう頼んで、フェリックスと話すことにした。…難しい環境に置かれながらも、なお、英語を勉強したいと思いつづけているタバコ売りの少年の姿に、僕は、そう、心底から感銘させられていたからね」

          ※

  フェリックスという少年と自分とのあいだに、共にティーンエイジャーだという以外にもう一点―〔難しい環境に置かれながらも〕という―共通するところがあることが分かったからだろう、高野さんを見つめるメルバの表情はいっそう真剣になっていた。

  「フェリックスは小学校をドロップアウトした少年でね、母親と弟二人、妹三人の家族は、カヴィーテ州のサポーテに住んでいるんだ。サポーテはマニラからあまり遠くはないけども、彼が毎日通うにはやはり、ちょっと遠すぎるらしい。だから、彼は、マニラ動物園の近くの低所得者居住区の中の―ティムが〔小屋〕と通訳した―おばの家に住ませてもらっているんだ。その住まいから仕事場までのあいだは、ジープニー料金を節約するために、歩いて行き来しているんだそうだ。

  「フェリックスの家族はもともと、田舎に住む多くの人たち同様に、裕福という状態からは遠いところで暮らしていたらしい。けれども、彼の運の悪さが本当にはっきりしたのは…。警察がそう言っているそうだけど、マルコス政権への抵抗の激しさで世界に知られているNPA‐新人民軍‐に父親が殺されてからだった」

  「ひどい…」。まだ会ったことのないタバコ売りの少年に同情して、メルバはため息混じりでつぶやいた。

  「フェリックスの父親は」。高野さんはメルバに視線を向けた。「働き者だけど商売用の資金は十分でない、そんな干し魚行商人で、レガスピ州のあちこちの小さな食料品店を客にしていた。父親は数年前に、そのレガスピで殺されたんだ。

  「フェリックス自身は、なぜNPAが父親を殺さなければならなかったかがちゃんとは理解できていないようだったよ。父親はただ強盗に襲われ、射殺されたのかもしれない、という思いが否定できなくて。というのも、所持していたはずの売上金が父親の遺体から発見されていなかったからね。フェリックスにはどうしても、話に聞いていることが正しいなら、〔貧しい者のために戦っている〕NPAが父親からカネを奪うわけはない、と思えるんだって。

  「それに対して、フェリックスのことをよく知っているティムは、未確認のまま警察が出した捜査報告書を信じて、この少年の父親は〔レガスピ州の、NPAの活動が最も盛んな辺鄙なところにあまりにもしばしば、あまりにも深く立ち入っていたので、政府軍のスパイとでも思われたのだろう〕と考えていた。ティムは〈いったん見つけたカネを死体に残しておけるような人間は、NPAの兵士を含めて、この国にはそうはいませんからね〉と強調していたよ」

          ※

  崩壊した経済とマルコス政権への悪評に助けられて、NPAは国内のいたるところで活動の場を拡大していた。だから、わたしには、警察報告を信じる理由がティムにはあったように思えた。…そして、とわたしは思った。どういうわけで父親が殺されたにしろ、また一つ、無垢の家庭が災厄に見舞われていた。財政的にいくらかでも家庭を助けなければならなくなって、また一人、若者が教育を受ける機会をなくしていた。

          ※

  「フェリックスは少し恥ずかしげな表情で、僕に言ったよ」。高野さんはつづけた。「英会話がうまくなれば、あのホテルに長く宿泊する外国人客たちと友だちになれるだろうし、友だちになれば、もっとタバコを買ってもらえるだろうと思って、ひまなときにときどき、辞書に目を通しているのだって。彼の目標は、家族のために将来、故郷のサポーテに小さなサリサリストアー(雑貨店)を持つことなんだって。

  「そうだね、トゥリーナ、たくさんのことが…。いまの日本では見られなくなったいろんなことが、この国ではまだ起きている。…そんなふうに僕には見える。さっき話したように、僕が旅の目的地として東南アジアを選んだのは、この地域の国々が日本とはうんと違って見えたからだった。そんな国々を見てみたいと思ったからだった。そして、ここフィリピンに来てみて、僕はすぐに分かったよ。日本と一番違っているのは、ほかでもない、少しでも良い暮らしを求めて、必死の思いで真剣に生きている人々の姿だってことがね。〔世界第二の経済大国〕と呼ばれるようになった日本と異なり、ここでは、人々はまだ、基本的な必要を満たし基本的な価値観を守りつづけるために、日々、懸命に戦い、もがいていたんだ。

  「人々のそんな姿が、トゥリーナ、僕には感動的に見えたよ。…物質的に、であれ、精神的に、であれ、経済的に豊かな国々の人間たちだけが楽しめるあらゆる種類のぜいたくに、僕の目はあまりにも慣れきっていたからだろうね。

  「いや現実には、半分以上のフィリピン人はその中間で生きているのかもしれないけどね。つまり、日本人がだれでもそんなぜいたくを楽しんでいるというわけじゃないように、ここでも、皆が〔真剣に生きている〕というわけではない、という具合に。…だけども、マニラに着いて間もなく僕が感じたことは、とにかく、そうだったんだ。

  「このことはまだ、吉田にじかにたずねてはいないから、僕の思い違いなのかもしれない。でも、彼がリヤドゥへ去ってからいくらも経たないうちに僕は、フィリピン人のそんな姿を彼はマガンダと表現したに違いない、と思うようになっていたよ。…あのような状況にあってもまだ、自分で英語を勉強しつづけようとしているフェリックスの姿は、少なくとも僕には、本当にマガンダに見えたよ。…街路で物売りをしたことなど一度もない僕の目には」

          ※

  高野さんの説明は、メルバにとって、あの人が彼女にカレッジ教育を受けさせようとしたのはなぜだったのだろう、という疑問への事実上の回答になっていた。あの人の目には、彼女の苦労が見過ごすことができないほどマガンダに見えていたのだった。

  わたしはメルバの横顔を見つめていた。

  高野さんが苦々しい口調で突然こうつぶやいたのはそのときだった。「なんて傲慢な日本人なんだろうね、僕は」

  ほとんど反射的にメルバが首を横に振った。

  自分自身に言い聞かせるように、高野さんは言った。「フィリピン人が自分たちの苦労を美しいと思うわけはないじゃない。外からやって来た傲慢な人間でなきゃ、そんなふうには感じないよ」

  メルバがわたしに当惑した視線を向けた。

  わたしはあいまいな笑みを返しただけだった。

  「そうなんだ」。高野さんはつづけた。「僕はここでは、一人の傲慢な日本人以外の何者でもないんだ。人々の大変な苦労を、安全であることが保証されている場所から眺めているだけの…」

  メルバは唇をかみながら、あの人のつぶやきを聞いていた。

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