第38話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜
〜フィリピン〜
=一九八四年=
十月
〈三八〉
黒い雲がまだ切れ目なくマニラ湾の上空から内陸の方に向かって流れていたけれども、雨はもうやんでいた。
わたしたちはレストランの隣の公園にいた。
※
三人がどういう経緯でそこに立っているのかは分かっているような気がしていた。でも、その三人が、それぞれ互いにどんな関係にあるのかは、わたしにはまだ、よく飲み込めていなかった。
高野さんは、足元近くの地面を歩いている鳩の群れを、何かを懸命に話しかけてでもいるかのように、じっと見据えていた。
その高野さんの背を、放心したような表情でメルバが見つめていた。
わたしは髪を風に吹かせながら、胸の中で高野さんに告げていた。〈もっともっと強くなってください、高野さん。あなたは長いあいだ一人で生きてきたせいで少し疲れているだけなんです。ほら、気持ちを楽にして。この国みたいにすべてが雑然としたところでは、何につけ、脆い心ではやっていけないんですよ〉
※
「メルバ」。高野さんが唐突に振り返った。
メルバは首を少し傾けて、あの人がつづけるのを待った。
「再婚する気はないのかって、君はさっき僕にきいたよね」
「ええ」。わたしがそうだったようにメルバも、あの人がその話題に戻るとはまったく予期していなかったようだった。彼女は言った。「ミスター高野の答えは〈分からない〉でした。次の結婚を考えるのは早すぎると思うって…。だから、わたし、ふさわしい女性に出会えば、早くてもかまわないはずだって…」
「いまなら。メルバ」。高野さんは彼女の言葉を遮って言った。「もう少しちゃんと答えられるような気がするよ。…僕はだれとも結婚しないよ。…しばらくはね。…少なくとも、数年間はね」
「なぜですか」。高野さんの目を見つめながら、メルバはたずねた。
「いまの僕には、世界のどこでだろうと…。日本でだろうとフィリピンでだろうと、そんな〔ふさわしい女性〕を見つけることができない、ということが分かったからね。さっき、レストランの中で話したように、ここフィリピンでは僕は、自分は傲慢な外国人以外にはなれないとどうしても感じてしまう。困ったことに、日本でも、何かの価値観をだれかと分かち合うことがまるでできないというのにね。…いまの僕は結局、メルバ、どこにいようと、アウトサイダーでいるしかないんだ」
突然、鳩たちが羽音を立てて飛び上がった。マラーテ教会の屋根の方に向かって飛んでいくその鳩たちを、高野さんはしばらくじっと見上げていた。
※
高野さんはゆっくりと視線をメルバに戻した。「どんなことでにしろ、だれともまともな関係が結べないアウトサイダーにはだれかを本当に愛することなんかできない、とは思わない、メルバ?」
彼女は首を傾げただけで、何も答えなかった。
「ここフィリピンでは」。高野さんは言った。「僕は、現実に苦しさを強いられている人たちとその苦しさを分かち合う人間ではない。苦しんでいる人たちにいくらか同情することができるだけの人間にすぎない。相手に同情するような立場から、メルバ、だれかを文字通り〔愛する〕ことができるだろうか」
※
メルバはまだ黙って耳を傾けていた。
「そんなときがやって来るとしたら、の話だけどね、メルバ」。高野さんはつづけた。「僕は、ただその人が好きだから、というような恋がしたいと思うよ。…分かち合う価値観も、与える同情も、何もない、そんな恋がね」
※
メルバは静かにうなずいていた。…自分の慕う気持ちにあの人はそんな形で応えたのだ、と受けとめているのに違いなかった。
わたしは、苦労に満ちたものであることが分かりきっているわたしの私生活についてそれまで何もたずねなかったわけを、あの人はそんなふうに打ち明けたのだ、と感じていた。
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