第39話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月  



       〈三九〉



  午前十時に近かった。

  わたしはいつものように、寮の台所のテーブルで、わたしの周辺で前日に起こったことなどをあれこれ日記帳に書きつけていた。

  階下で物音がした。裏の勝手口の方だ、とわたしは思った。

  目隠し用に窓のかけられていた草色の薄手のカーテンをほとんど突き抜けるように、朝の光が強く差し込んでいる中で、女たちはみんな、まだぐっすりと眠っていた。

  わたしは日記帳をバッグの中にしまい込み、そのバッグに鍵をかけた。

          ※

  階段を下り、勝手口を覗いてみると、クリスティーナが外からドアを開けたところだった。背後の通用路に、女の子が二人立っていた。

  パナイ島イロイロ市出身の、愛想がよくて、しかもたちまち人目を引くほど美しくもある二十歳のシンガー、クリスティーナの顔に、はにかむような笑みが浮かんだ。「おはよう、〔早起き鳥〕さん!わたし…。わたし、ボーイフレンドとの、夜通しのデイトから戻ってきたところなんだけど…」

  「そう?」と言いながらわたしは、たぶん、好奇心を隠し切れない表情で、女の子たちに視線を向けた。

  「戻ってきてみると、このドアの前にあの子たちが立っていたのよ」

  「だれなの?」。わたしは小声でクリスティーナにたずねた。

  「ちょうどよかったわ、トゥリーナ。あの子たち、メルバの妹だそうだから、あとのことはあなたが見てやって。遠いバタンガスからさっき着いたところなんだって」

  「分かったわ。そうする」。そう言ってから、わたしはもう一度、今度はもっと注意深く、二人を眺めた。

  「わたし、頭が半分居眠りしている」。クリスティーナはあくび混じりの声で言った。「もこれ以上一秒も目を開けていられない」

  「ゆっくりお眠りなさい。上でベッドが待っているわ」

  「ありがとう」。クリスティーナは階段の方へ歩き出すと、わたしのわきをすり抜けながらつぶやいた。「けさもずいぶん早く起き出しちゃったのね、トゥリーナ。睡眠不足は体に良くないよ」

          ※

  クリスティーナが去ったあとに良い香りが残っていた。何というブランドのどんな高級な香水を彼女はつけていたのだろうと思いながら、わたしはメルバの妹たちに声をかけるために、ドアの外に出た。

  わたしが足を進めるのに合わせて、姉が後ずさりした。

模造皮づくりの小さなブラウンのバッグを体の前に回し、両手でしっかりとつかみながら、妹が姉の動きにならった。

  姉妹は落ち着かない様子だった。

  無理もない、とわたしは思った。二人のような田舎育ちの少女にとって、マニラの〔トゥーリスト・ベルト〕と呼ばれる、名高い夜の歓楽街は、足を踏み入れて居心地の良い場所ではないに違いなかった。

  「よく来たわね、ローサ、それにマリア」

  姉のローサが、いまにも安堵のため息を洩らしそうな表情でマリアに視線をやったあと、その顔をわたしに向けた。「トゥリーナさんですね?」

  全科目の成績がAで、母親がメルバに劣らず誇りに思っているというローサの声は、十三歳というその年齢を考えれば、ずいぶん幼く聞こえたけれども、メルバのものにすごく似ていた。

  「当たりよ」。わたしは答えた。

  九歳のマリアの顔がさっと明るくなった。大きな、無邪気な、愛らしい笑顔だった。

  「わたしたちの名前をもう知っているんですね」。ローサは心底から嬉しそうに言った。

  わたしはうなずいた。「もちろんよ。だって、メルバがあなたたちのことをしょっちゅう話してくれるもの。だから、わたしは、あなたたちが一番下の妹、エレナのせわをよくしていることも、お母さんの手伝いを進んですることも、みんな知っているのよ」

  バッグをまだ体の前でつかんだままのマリアの顔に、いっそう大きな笑みが浮かんだ。

         ※

  ローサに向かってわたしは言った。「こんな時間に着いたのだから、あなたたち、けさはずいぶん早く家を出たのでしょうね。ちゃんとすぐに目が覚めた?」

  「わたし、昨夜はあまり眠れませんでしたけど、おばが起こしに来てくれたときには、すぐに。…両親といっしょじゃなくて妹と二人でマニラに来たの、これが初めてなんです」

  頭の隅でぼんやりと、その〔おば〕という人はたまたまローサたちの家を訪ねていたのだろうか、それとも、すぐ隣に住んででもいるのだろうか、などと思いながら、わたしは言った。「ああ、だから、昨夜はあまり眠れなかったのね、ローサ。何か初めてのことをするときって神経が昂ぶるのよね。しかも、あなたはお姉さんで、道中、マリアを守ってやる責任があったのだから」

  「ローサはバスの中でも眠らなかったんだって」。マリアはくすりと笑った。「わたしはずっと眠っていた。何も恐くはなかったから」

  「それはすごいわ、マリア」

  ローサが言った。「バタンガスの家に出す手紙に、姉はよくトゥリーナさんのことを書くんですよ。ですから、わたしたちも、トゥリーナさんがとても親切な人だって知っていました」

  「まあ」。わたしは思わず大きくほほ笑んでいた。

  「それに、とてもきれいだってことも」

  一時間ほど前に起き出し、洗面をすませると、そのまま日記をつけ始めたところで、まだ化粧もしておらず、着ている服だって粗末なワンピースにすぎなかったわたしは、ローサのそんなほめ言葉にふさわしい姿をしてはいなかった。

  でも、わたしは素直に応えた。「それはどうもありがとう、ローサ」。…早朝なのにもかかわらず、ちゃんとした身なりで、きれいに化粧をした―だれもが[さくら]で一番美しいと認めている―クリスティーナは、姉のメルバ以外にはこの世界の女をそれまで見たことがなかった二人の目にどう写ったのだろう、と思いながら。

          ※

  「ところで」。わたしは二人にたずねた。「お母さんの具合はどう?」

  予期とは異なり、ローサの表情がたちまち暗くなった。「それは…」

  「あ、ごめんなさい、ローサ」。わたしは急いで言った。「配慮が足りなかったわね、わたし。いまの質問はメルバが最初にするはずだったのよね」

  「いえ、そういうつもりでは…」。ローサの声はもう、嬉しそうでも安堵したようでもなかった。母親のことをたずねられて、自分が何のためにマニラに出てきたのかを、改めて思い出したようだった。

  「メルバはまだ眠っているのよ。起こしてきてあげる」

  「お願いします」。哀願するかのように、ローサは言った。

          ※

  妹たちが訪ねて来たからといってメルバが楽しい思いをするとは限らないということに、もっと早く気づいておくべきだった。…家族や親類が訪ねて来るたびに[さくら]の多くの女たちが経験してきたように、たぶん、良くない知らせがあるからこそ、二人はわざわざメルバに会いに出て来たに違いなかったのだ。

  多くのカラオケシンガーたちが、日本にいるときの方がよほど気が楽だ、と感じていることをわたしは知っていた。日本にいる限りは、お金を稼ぐことで、それを家族に送るにしろ持ち帰るにしろ、とにかく、家族の者たちがこうしてほしいと望んでいるとおりのことができるのだから、と女たちは言うのだった。

  確かに、フィリピン国内にいて、家族が必要としている額のお金を稼ぎ出すことなど、ほとんどの女たちにはできないことだった。しかも、もっといけないことには、家族が抱えている問題はたいてい、お金がないということだけにはとどまらないのだった。女たちの家族は、あらゆる類の問題を何かというと多くは長女であるシンガーたちのもとに持ち込むのだった。…以前には夢にも見たことがなかったような大金を稼ぎ出すことができる娘たちをまるで全能の神だと見てでもいるかのように。

          ※

  メルバを起こすのは最初に思っていたものよりはずいぶん難しい仕事になっていた。わたしは彼女が眠っている部屋に向かって、階段をひどくぐずぐずした足取りで昇っていった。…女たちの暮らしを、店での、その場限りでまがい物の、それでいて、たまにはのんきで愉しくも過ごせる時間と、寮での、いつまでつづくかしれない、常に大きな負担が肩にのしかかっている現実の時間との二つに分ける、狭い、急な階段を。

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