第40話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

  〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈四〇〉



  高野さんからの、初めての、まったく思いがけない電話にわたしが出たのは、あの人を二分間ほど待たせてからだった。

  [さくら]の建物の前でメルバの帰りを待っていたわたしを呼びに来てくれたのは〔ママ〕グロリアだった。寮に上がる階段のわきに備えられている電話機に向かって急いでいるあいだにも、あの人が何を告げるつもりで電話をかけてきたのかが、わたしは知りたくてならなかった。

  何より、妹たちと午前中に外へ出かけたきりまだ戻ってきていなかったメルバが高野さんといっしょにいるか、いっしょにいたのであればいいが、とわたしは願っていた。夜七時の開店に遅れたことなど、メルバは一度もなかったのに、時間はとうに、女たちが着替え、化粧をしなければならないころになっていたのだ。

  グロリアを含めてだれにもメルバが連絡してきていないことを、わたしはすでに確かめていた。わたしの頭は朝方目にした場面でいっぱいになっていた。…妹たちの姿を見てメルバが浮かべた嬉しそうな笑みは、通用路に残した姉妹三人をわたしが勝手口のドアのところで振り返ったときには、もうすっかり消え去っていたのだった。

  それだけではなかった。ほんの二十分間ほどで出かける準備を整えたあと、[さくら]の店内を物珍しげに見回っていた妹二人の背を押すようにして勝手口を出て行ったときのメルバの表情は、それまで彼女が一度も見せたことがなかった類の、ひどく張りつめたものだった。

          ※

  「高野さん、まだそこにいます?」

  「ああ、いるよ、トゥリーナ」。控えめな声が電気的な雑音といっしょに聞こえてきた。

  「よかった。すみません、長くお待たせして…」。自分を落ち着かせようと努めながら言った。「たまたま建物の外にいたものですから」

  メルバが戻ってきていないのが心配で、表で帰りを待っていたのだ、とはわたしは言わなかった。

  第一に、メルバが何かのトラブルに巻き込まれているのではないかというのはまだ、わたしの空想にすぎなかった。朝に見た場面は、やはり、普通ではなかったけれども、その後の彼女は二人の妹と、マニラのどこかで、時を忘れてしまうほど愉しい一日を過ごしているだけのかもしれなかった。食事、映画、ショッピング・センター…。次にいつ出てくるか分からない妹たちに見せておきたいところはマニラ市内にいくらでもあったのだから。

  それに、仮にメルバがひどいトラブルに出遭っていたとしても、それを高野さんに告げていいのかどうかがわたしには分かっていなかった。いや、もしメルバが窮地にあるのだったら、それがどんなものであれ、彼女をそこから救い出すために高野さんが最善をつくしてくれることは、もちろん疑っていなかった。あの人は彼女のためになら、どんなことでもしてくれるはずだった。けれども、わたしにはその〔どんなことでも〕を危惧していた。メルバを助けようという最初の試みに失敗していたあの人が、その失敗を償おうとして―自分のヤサシサをもう一度証明できる機会がやってきたと受け取って―メルバのトラブルにどこまでものめり込んでいってしまうのではないか、と怖れていた。あの人のそんな関わり方がメルバとあの人にいい結果をもたらすかどうかの判断がつかずにいた。わたしに分かっていたのは、現実にはまだ起こってもいない〔トラブル〕を匂わせて、あの人を煽るようなことはしない方がいいはずだ、ということだった。

          ※

  「元気ですか、高野さん」。ほかにはどんな言葉も思いつかなかった。

  「ああ、とっても。君は、トゥリーナ?」

  「わたしも、なんとか」。胸の中の落胆を隠してわたしは答えた。…メルバと妹たちがあの人といっしょにいるのでも、いっしょにいたのでもないことは、すでに明らかだった。

  「それは何よりだ」。そう言うと、あの人は間を置いた。

  「ずっと元気でしたか」

  メルバが数えていたところでは、高野さんは九日間[さくら]に顔を出していなかった。その間、メルバは、前のときとおなじように、胸の内の心配を隠すことなく、ミスター高野は病気になっているのではないだろうか、そうでなかったら、何かまずい状況に陥っているのではないだろうか、などと何度もわたしに話しかけてきていた。

  わたし自身は、高野さんは、店で遊ぶ回数をできるだけ減らすというメルバへの約束を頑なに守っているのではないかと感じていたけれども、メルバにはそうは言わなかった。…そんな憶測を聞いて彼女が喜ぶとは思えなかったから。

  「ずっと、なんとか…。僕も」。ためらいがちな口調だった。

  「それはいい知らせです」。わたしは不器用に応えた。

          ※

  次に口を開いたのもわたしだった。「どこからかけているんですか、この電話。声がひどく遠く聞こえるんですけど…」。急に不安になってつけ加えた。「まさか、日本から、ではありませんよね」

  「そんなに遠くからじゃないよ。それに、メルバと君に前もって告げずにこの国から離れはしないよ」

  「それを聞いて安心しました。それ、約束してくださいね。…メルバとわたしに」

  「約束するよ、トゥリーナ」

  あの人のその言葉を聞いて自分があれほど安堵しようなんてわたしは予想していなかった。安堵したのは、高野さんはやはりいつかはフィリピンを去ってどこかよそに行ってしまう人なのだ、ということを改めて思い出すまでの、ほんの一瞬のことだったけれども。

  「日本じゃないとしたら…。え、またセブ島なんですか、高野さん」

  「違うよ。そうじゃないよ、トゥリーナ」。高野さんの声には少し苦笑が混じっていたかもしれない。

  わたしはたずねた。「じゃあ、いま、どこにいるんですか」

  「サポーテだよ」

  「どこですって?」。頭にさっと血がのぼるのを感じながらわたしは言った。「そこ、フェリックスのお家があるところでしょう?」

          ※

  わたしは、その形がはっきりとは見えてこないまま、ひどく恐ろしい想像に捉えられていた。

  「ああ。…覚えていたんだね」。高野さんは言った。

  「覚えていますとも。でも、これ、言わせてください。高野さん、あなたがサポーテにいるの、わたし、感心しません。それ、間違っています」。挑みかかるような口調になっていた。

  わたしはほとんど、〈高野さんはサポーテでいま、フェリックス―あるいは彼の家族―が直面している何らかの困難に関わり合っているのだ〉と思い込んでいた。思い込んで、サポーテからあの人をすぐに離れさせるのが自分の義務だ、メルバとのあいだにあったような〔大きな混乱〕をサポーテでくり返させてはならない、と感じていた。そんな〔大きな混乱〕に、あの人の心は、今度は耐えることができないのではないか、と案じていた。

  わたしは言った。「おなじカヴィーテ州でもプエルト・アスールみたいなどこかのビーチ・リゾートならともかく…。そういうところで泳いだり、ボートに乗ったり、ゴルフをしているっていうのならともかく…。サポーテ?わたし、そこ、嫌いです」

  そう言い終えたあと、わたしは自分にたずねていた。〈マラテ教会の前の公園であの人にあんなふうに思いを打ち明けられていなかったら―打ち明けられたと感じていなかったら―わたしのいまの反応は違ったものになっていただろうか〉

          ※

  高野さんの声は静かだった。「はっきりさせたいことがここにあるものだから」

  「すぐにマニラに戻ってきてください、高野さん」

  サポーテで何が起こっているにしろ、〔メルバの帰りが遅れている〕あるいは〔彼女と連絡がつかない〕と伝えれば、高野さんは飛んで帰ってくるかもしれなかった。もしかしたら〔マニラに〕ではなく〔わたしのところに〕と言っても、あの人はサポーテを離れるかもしれなかった。でも、わたしにはそのどちらも言葉にすることができなかった。

  わたしは胸の中であの人に語りかけた。〈フィリピンで、だれかのために何かと、自分を強いてまで取り組むことはないんですよ、高野さん。どうしてもだれかに同情してしまう、というのなら、どうぞ同情してください。でも、そこまで。そこから先には行かないように。その人のためにしてやれることなど、結局は、あなたにはほとんどないのですから。そうでしょう?〉

  けれども、胸のもう一方の片隅では、わたしは、高野さんはまだ必死の思いでヤサシイ人間になろうとしているのだ、ヤサシイ人間になって〔自分自身〕を取り戻そうとしているのだ、ということが分かっていた。だから、サポーテで起こっていることを〔最後のチャンス〕だと受け取って、本当の〔自分自身〕を取り戻すまで―取り戻すことができたと感じられるまで―あの人はサポーテを離れないのではないか、と思っていた。

          ※

  「二、三日後にはそちらに戻るよ」。高野さんは言った。

  「そんなところに〔はっきりさせたいこと〕があるとは、わたしには思えません」。わたしはそう言い張った。「戻ってきてください」

  「できるだけ早く戻るようにするよ」

  少しためらったあと、わたしは言った。「メルバが待っているんですよ」。嘘ではなかったけれども、正直な言い方でもなかった。

  「彼女は元気?」

  「ええ」。わたしは答えた。「元気で、相変わらず一所懸命に働いています。毎日いくつか日本の歌を覚えています。使える日本語の言葉数も日ごとに増やしています」

  これも嘘ではなかったけれども、彼女の行方が知れないという重要な事実が一つ欠けていた。

  「そう、それは何よりだ。…あの子にヨロシクネ」

  わたしは請け合った。「分かりました」

  でも、高野さんのことは、あの人がどこにいるかは、メルバが無事に帰ってきても、わたしは彼女には告げないつもりだった。…あの人の関心が彼女からフェリックスに移ったようだと知って、あるいは、〔人々の苦難に接するたびに、自分はこの国ではアウトサイダーでしかいられないのだ〕と感じてしまうというあの人が、今度はサポーテで、またその〔人々の苦難〕に近づこうとしているようだと知って、彼女が喜ぶとは思えなかったからだった。

          ※

  暗い気持ちで、高野さんにたずねた。「フェリックスがいっしょなんですね」

  「ああ」

  「ティムかマーヴィンは?」

  「いっしょじゃないよ、トゥリーナ」

  「アブナイデスヨ」

  「だいじょうぶだよ。ここでできた新しい友人にちゃんと面倒を見てもらっているから」

  「でも、その人に案内してもらって観光旅行をしている、というんじゃないんでしょう?」

  「そうじゃないけど…」

  「そんなところにあなたがいる理由はないと、わたしはまだ思います、高野さん」。それ以上何をどう告げたらいいかは分からないまま、わたしはそう言いきった。

  数秒間、沈黙がつづいた。

  「トゥリーナ、君の次の休みはいつ?」。唐突な質問だった。

  「アノエ(それは)…」。瞬間、わたしは答えに詰まってしまった。「休みはつい数日前に取ったばかりですけど」

  その休みの日は、ブラカンの両親の家で、二人の娘、テレサとユキの相手をしながら久しぶりに愉しく時を過ごした、とはつけ加えなかった。電話をかけてボーイフレンドの克久と話そうとしたけれども、彼とは今度も直接話すことができず、アンサーリング・マシーンに〈もうすぐ、年の終わりまでには、東京に行けるだろう〉という―精一杯に明るい声の―嘘をメッセージとして残しただけだった、とも伝えなかった。

  高野さんに明かさなかったことはほかにもあった。東京にかけたもう一本の電話で、わたしは、わたしと克久が言い争うところに何度か―いつもいくらかわたしに同情しながら―居合わせたことがあった、冨田雄三という克久の親友の一人と話すことができていたのだった。

          ※

  富田さんに電話をかけてみようというのは、振り返って見ればとてもいい思いつきだった。富田さんは重要なミーティングに出席しようとしていたところで、わたしと話す時間がほんの数分間しかなかったのだけれど、克久とはまだよく連絡し合っていることをはっきりさせてくれただけではなく、わたしが東京に戻ったら、克久とわたしの仲が元に戻るよう、二人の友人として、できる限り努力するつもりだ、とまで言ってくれたのだった。

          ※

  「そうか」。高野さんは淡々とした口調で言った。「なら、次の休みは十日ほど先だね。…分かった」

  「何が〔分かった〕んですか」。わたしはひどく執拗になっていた。

  高野さんは答えなかった。

  「もしかしたら、高野さん」。そう口にしたところで、わたしはためらった。その先を言っていいかどうかが分からなかったのだ。

  「〔もしかしたら〕?」

  〔要る〕と答えられた場合の返事の用意がないまま、わたしはたずねてしまっていた。「わたしの助けが?」

  高野さんは少し考えてから答えた。「いや。…つまり、少なくとも、いまのところは」

  その返事に胸のどこかでほっとしながら、わたしは念を押した。「確かですね?」

  「ああ。…君に時間があるようだったら、ちょっと見てもらおうかな、ひょっとしたら君が関心を抱くかな、と思ったことがあっただけだから。だけど、それ、特に急がなければならないことでもないんだ。…ありがとう」

  「それが何か、いま話してください。電話で話せないようなことでしたら、すぐにマニラに帰ってきてください」

  「そうだな…」

  わたしは息をとめて、高野さんがつづけるのを待った。

  「それが、まだ、よく分からないんだ、トゥリーナ」。あの人は言った。「すぐに見えてくると思うけど…。数日中には君とメルバにちゃんとした話ができるはずだよ。…じゃあ、そのときに」

  「テカ、テカ、サンダリ ラマング(待って、ちょっと待ってください)、高野さん」

          ※

  わたしは途方に暮れていた。その、サポーテで起きている―わたしが〔関心を抱く〕かもしれない―ことから高野さんの目を切り離す術は、結局、どこにもないようだった。

  わたしはこう言うしかなかった。「どうかキヲツケテ クダサイ」

  「ああ、そうするよ。…君も元気で、トゥリーナ」。ためらうこともなく、高野さんは電話を切った。

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